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涙をこえて。(後編)  作者: 石井寿(いしい・ひさし)
あとがき
1/1

-「涙をこえて。」後編-

「その、たまたまが、好き」

 佳子さん、なんてうれしいことを言ってくれるんですか。うれしいなあ。僕はもう少し、布団をかぶった佳子さんに近づこうとした。すると佳子さんは、その雰囲気をすぐに察知したようだった。

「だーめ。きょうはもう『ダアー、シャリヤス!』なのっ」

 布団の中から、さらにこもった声で、今夜の佳子さんのドアが閉まったことが告げられた。惜しい。僕は残念がった。佳子さん、本当にいつも場面を作るなあ。もしかして、これも、佳子さんが考えて、こうなるように仕向けていたのか?一瞬、そんなことを考えたけど、せっかくいい雰囲気になったのにそう考えるのはよくない、と思ったので、考えるのは、すぐにやめた。

 それにしても、佳子さんは、この物語をどこに持っていこうとしているだろう。もちろん、ハッピーエンドになってほしいという気持ちはあるが、それより何より、僕はいつまでもこの物語に参加していたいと思い始めていた。こんなに緊張感あふれて、場面があって、胸が躍り、時々落胆もするけれど、でも少しずつ前に進んでいるような気がする物語って、なかなかない。マイナスだらけだと思っていた僕の世界に、プラスの要素が舞い込んできた。そして、この物語への参加はちょっと面倒だけれども、でも面倒でないときよりも、心地よい自分がいることを僕は見つけていた。

 佳子さん、お願いだから、物語をやめないでね。僕はそう願いながら、頭をもとの位置に戻した。


 暗闇の中、僕ははっと目覚めた。きっと、いつの間にか寝てしまったのだろう。いま、何時かな。僕は時計を見ようと、佳子さんの方を向いた。

「あれ?」

 見ると、佳子さんの布団は大きく乱れてはがされ、佳子さんはいなくなっていた。まだ真っ暗だ。起きるには早すぎる。どこに行ったのだろう。僕は、心配になった。僕も布団を大きくはがし、佳子さんを探しに行こうとした。でも、どこに探しに行けばいいのかわからない。

 ふと、耳を澄ますと、「うー、うー」という地を這うようなうめき声がわずかに聞こえた。佳子さんかな。どこにいるのかな。僕は、とりあえず立ち上がった。部屋の中にある板の間の廊下に出て、奥に進み、洗面所のドアに近づいた。うめき声はそこから聞こえていた。僕は迷わずドアを開けた。すると、床に這いつくばるようにして、浴衣の少し乱れた佳子さんがいた。

「佳子さん!大丈夫?」

 僕は急いで声をかけた。しかし、佳子さんは、ほとんど白い眼をして「うー、うー」と言ったままだった。白い眼には涙が浮かんでいた。僕は、佳子さんを抱きかかえた。

「佳子さん!佳子さん!」

 佳子さんは、吐きそうになっていた。佳子さんは大きなげっぷのように「うっ」と言ってえづいた。

「鼻で、息して。すーっと」

 僕は思わずそう言った。僕も、予報を外したとき、たくさんのお客さんの前に立ったとき、大きな決断をするときに、急に吐き気を催すことがある。そんなとき、坂の上テレビの先輩が教えてくれたのが「鼻からすーっと息を吸う、なるべく長く吸う。そして、ゆっくり息を吐く」という方法だった。先輩によると、これは自律神経に働きかける方法だ。自律神経とは、無意識のうちに働いている神経のことで、内臓も自律神経で動いている。自分の意識で動かすことはできない。その自律神経に働きかけることのできる数少ない動作が、呼吸だという。特に、鼻から呼吸をすると、深く息を吸ったり吐いたりできるので、自律神経が落ち着く、という話だった。僕はよくわからなかったけど、とりあえず佳子さんにこの方法を勧めた。

「そうね。うん…ワンコちゃん、あ、ありがとう」

 佳子さんはそう言うと、鼻で大きく息をし出した。溜めるように息を吸い込み、ファンのように息を吐き出した。

「はあ。ううっ」

 少し落ち着いたが、まだ軽くえづいている。僕は部屋に戻って、大きな魔法瓶にあった冷たい水を湯のみにくんで、また洗面所に戻ってきた。

「飲んで」

「うん」

 佳子さんは、湯のみを抱えるようにして、飲み干した。そこでまた、鼻から大きく息を吐き出した。そういえば、風呂上がりに佳子さんのスマホのカバーを開けてみてしまったとき、「もっと 鼻息」と書いてあったのは、この吐き気対策のためだったのかもしれない。スマホにわざわざ書いておくくらいだから、結構頻繁で、相当意識しないとできないことなのだろう。あるいは、よほど吐き気が来るのが怖いのかもしれない。僕は佳子さんの苦しさを慮っていた。

「ごめんね、ワンコちゃん」

「ううん。落ち着いてよかった」

「ごめんね」

「ううん、僕もなるから」

「ワンコちゃんも、なるの?」

「うん、緊張したときとかね」

「そうなの?」

「うん」

「これも、ワンコちゃんと一緒ね」

 吐き気はよくないことだけど、僕は、佳子さんが「これも一緒ね」と言ってくれたのがうれしかった。

 ふと、佳子さんを見た。よく見たら、僕は佳子さんの肩を抱いていた。僕はその状況にギョッとした。こんなこと、してはいけない。僕はあわてて佳子さんから離れた。手には、佳子さんの肩の、ふわりとした筋肉の感触が残った。女の子って、柔らかい筋肉をしているけど、佳子さんは特に柔らかいような気がした。と同時に、僕は神様に触れてしまったような気がして、いけないと思った。

 そして、ふと鼻をひくつかせた。すると、これまで僕が知らなかった、ものすごくいい匂いがした。高校生のときに楽しみだった、予備校の隣の席に座ってくれた時の匂いと、少し違う。そして、代々木のバーガーで貸してくれたハンカチの匂いとも、少し違う。初めて僕が感じる、新たな匂いだった。

 この新たな匂いは、神様の匂いなのか。この匂いは、僕が佳子さんのエリアに踏み込んだことを知らせるアラームなのか。この匂いは、不用意に嗅いではいけないものではないか。もし嗅いだままにしたら、いろいろな意味でまずい。僕はおろおろした。

「どうしたの」

「あの、あの、あの、失礼しました」

「んふ、ほらまた敬語」

 佳子さんは、これだけえづいた後でも、突っ込みは健在だった。この人の切り換えの速さは漫画のようだ。

「ああ、ごめん」

「うふ」

 佳子さんは謝っている僕を、ペットを見つめるような温かいまなざしで見つめた。そうか。僕は神様・佳子さんのペット、つまり狛犬のようなものか。だからワンコと名づけたのか。僕は少し合点がいった。

「あの、大丈夫」

「大丈夫よ。ありがとね」

 佳子さんの目にはまだ涙がにじんでいたものの、笑顔が少し戻っていた。この顔、かわいいなあ。少し、見つめてしまった。

 するとまた「こらっ、女の子のこと、ジロジロ見ちゃいけないんだよっ」が来る、と僕は思った。

 ところが、違った。

「あ、見ちゃダメ」

 そう言うと、佳子さんはパッと両手で顔を隠し、少し顔をそむけた。

「え、なんで?」

 予期しない台詞がきたので、僕は少し戸惑った。

「だって、すっぴんなんだもん」

 ええ?まったく気づきませんでした。どのへんがすっぴんなんですか。いや、いつからすっぴんなんですか。三つのうちどれを言おうか、迷った。その末に聞いた。

「いつからすっぴんなの?」

「寝る前から」

「そうなの?全然気づかなかったよ」

「えー、すっぴんって全然違うのよ」

「どこが」

「…まつ毛をとったの」

 まつ毛?僕はまったくわからなかった。さっき涙がにじんだ目を見たけど、全然気づかなかった。そんなにまつ毛、重要なんですか。僕は聞こうと思ったが、重要なんだからこだわっているわけであまり聞いても意味がないと思った。そこで、話題を変えた。

「さっきみたいに、吐き気がすることって、よく、あるの?」

「あるの」

「たまに、突然、くるよね」

「そう、あたしも」

「五分か、かかると十分くらいは続くよね」

「うん。あたしも。悩みをこなす時間と同じくらいかな」

 僕はまた小さな発見をした。僕も、嘆いたり悩んだりするのは五分まで、と決めているけど、たまに十分以上かかることがある。この吐き気・嘆き・悩みのサイクルも、佳子さんと僕は一緒なのか。また少し、うれしかった。

「佳子さんも、悩むの?」

「そりゃ、悩むわよ」

「こんな、頭いいのに?」

「頭なんてよくないよ。記憶のメモリーがちょっと広いだけ」

「ちょっとどころじゃあ、ないよ」

「そんな差はないわよ」

 佳子さんは、謙遜していると思った。そういえば、昔、佳子さんが予備校のチューターだったときに、あまりにかわいいと評判が立ったので、予備校のパンフレットで、モデルになっていたな。もう大学生なのに、高校生の生徒役で。予備校は佳子さんの写真を四年も使い回した。その当時の佳子さんと今の佳子さんは、あまり変わらない。それはすごいことなんですよ。僕はよほど佳子さんをほめたかったが、また謙遜するだろうと思って、やめた。

「じゃあ、どんな悩みなの?」

「ええっと」

「うん」

「きょうは、ワンコちゃんに吐くところ見られないようにっていう悩みかな」

「そうなの」

「うん。だって、ワンコちゃんも吐き気あるって知らなかったから」

「そう」

「見せたくないと思ったら、逆にどんどん追い込まれるのよね」

「だよね」

「不思議よね。人間って。見せたくないものは見せることになってしまって、本当に見せたいものが、見せられないんだよね」

「そうそう。それを、皮肉っていうよね」

 僕は、佳子さんより先に、何としても「皮肉」という言葉を言いたかった。昔、佳子さんが僕に「早稲田の現代文ってね、キーワードがあるんだよ。皮肉とか、矛盾とか、出てきたら大ヒントだから、絶対チェックだからね」と教えてくれたことを、今ここで実践したかったからだ。

 すると、ずっと手で顔を隠していた佳子さんは、パッと手を放して、僕の方を向いてくれた。

「皮肉。よく出てきました。よくできたね。よく覚えていたね。

 教えた甲斐、あったわあ」

 佳子さんはすっぴんを隠さずに、笑ってくれた。こっそり確認したけど、すっぴんかどうかなんて、全くわからない。このまま外に出ても、おかしくない。そう思った僕は、思わず言ってしまった。

「あの、やっぱり、すっぴんだって、わかんないけど」

「そお?大違いよ」

「どこが?」

「なんでまた言わせるの?まつ毛が短いの!」

 佳子さんは少しいらだった。でも僕は、自分の見方が違っているとも思えなかった。

「あのう、佳子さん」

「なあに」

「佳子さん、気にしすぎじゃ、ないかなあ」

「そお?」

「だって、本当にわかんないもん」

「そんなことないよ」

「いや、わかんない。百人いても、九十九人わからない」

「そうかしら」

「そうだよ」

「うーん」

「だって、寝癖とかもそうじゃん。本人が気にしすぎるくらい気にしても、他人は実は誰も気にしていない。でも、その数センチにこだわって、みんな無駄な時間を過ごしているんだよね。なんか自分が気になることがあっても、他人が気にしないんだったらいいんじゃないかなあ」

「そっかあ。でもあたし、目元、ほかの人より、弱いからなあ」

「そんな、他人と比べてもあんまり意味ないよ。比べると、まず間違いなく、自分より他人の方が、すばらしく見えるじゃん」

「うん」

「でも、自分と他人の間に、ほんとにどれだけ差があるかは、実は自分ではわかっていないことが多いんだよね。それに、世の中の人って、自分と他人の差について、あまり、というか、全然、気にしていないし」

「…そっか」

「僕は、一番いいのは、自分がどれだけ力を伸ばしたかを気にすることだと思うな。他人を上回ることにも意味はあるけど、自分を上回ることの方にね、もっと大きな意味があるんじゃないかなって思うんだよね。だから、目指すのは、自己最高記録なんだよね、僕はいつもそう」

「そうなの?」

「うん。それに、自己最高記録をコツコツ、マニアックなくらいコツコツ更新していくと、結果的に、ほかの人を上回るんだよね」

「ああ、そうね、そうかも」

「あと、昨日の続きの今日ではなくてね、明日に続く今日にしないと」

「うん」

「天気予報はいつも、明日があるから」

「あ、明日があるさ、だね」

 佳子さんは、昭和の名曲の題名をつぶやいた。これも、あの「涙をこえて」を作った中村八大先生の作曲だ。佳子さんといると、つくづく、縁のあるものが出てくる。おかしなくらいに。

「じゃあ、また横になろうか」

「うん」

 僕たちはようやく、洗面所を後にした。洗面所はすっかり冷え切り、板の間の廊下はさらに冷え切っていた。僕たちは元日の郵便受けに年賀状をとりに行く人のように、いそいそと廊下を歩いた。 部屋に着き、僕たちはまた分厚い布団にもぐりこんだ。それはまるで、築地市場のラーメンの厚切りチャーシューの下に、もやしのような具がひっそりともぐりこむような感じだった。

「ねえ」

「うん」

 もやしたちの会話が、また始まった。

「また、ワンコちゃんに教わったね」

「そんな、大したことないよ」

 僕の謙遜は、いつも「大したことないよ」になってしまう。もっとバリエーションを増やさないと。そう思っていると、佳子さんは続けた。

「なんだか、涙が出ちゃうんだよね」

「なんで?」

「あたし、全部キメキメじゃないと、安心できないんだよね。風貌とか、構成とか、展開とか、段取りとか。だから、すっぴんだと不安になるし、他人より劣っているような気がするし。でも、さっき『自己最高記録を目指すのがいい』って聞いて、ああ、そうなんだなって感じ」

「ふうん。構成とか、展開とか、段取りとかも?」

「うん。あたしそういうキメキメ構成とかバッチリやりたくて、そ

れもあって雑誌の編集をやったんだけど、いっくらやっても、終わんないのよね」

「そうだね」

「いっつもそれで時間だけが過ぎて行って、なんでだろって思ってたんだ」

「そりゃ、時間はいくらあっても足りないよ」

「どうして?」

「だって、あそこを直すと、今度はここが見つかる。あそこを直したことで、ここに影響が出る、みたいなのの繰り返しだよね」

「うん」

「それに、いま思いついたことを、次の瞬間に忘れたり、いまできたことが、一時間後にできなくなったりするじゃない」

「あるある。なんでなのって感じ」

「でも、人間ってそうできているから、むしろそれって当然じゃないかと思うんだよね」

「うん」

「だって、生きているんだもの。できないことができるようになることもあるけど、できることができなくなることだって、同じくらいあるんだよ、きっと。常に最高の状態を保つなんて、なかなかできない」

「うーん。できれば、たくさん持っていたいけどね」

「そう?そんなにたくさん持ち続けなくても、いいんじゃない?だって、全部持っていても、全部同時に使うわけじゃないんだし。使うときにあればいい、と考えた方がいいんだよね」

「…そっか」

「それに、佳子さん、お金をたくさん持っていてもしょうがないっていっていたじゃん。それと同じだよ」

「そっか」

「それにね、涙を流してもいいんだけど、ないことばかり探すと、よくない涙があふれちゃうよね。あるものを探していかないとね。あるものを必死で探して、見つかって涙したり、あってよかったなって、どこか感謝の気持ちがあって涙するんだったら、それはいい涙なんじゃないかな。そしたら、その涙に意味があるし、涙をこえた先に、なんだかプラスがあると思うんだよね。そういうプラスを探すために、涙を流すのはいいんじゃないかな」

「うん」

 佳子さんは、そう言うと、ふっと小さく息をついた。

「あたしも、涙をこえたいな」

 そして、佳子さんはむこうを向いて続けた。

「ワンコちゃんと。」

 佳子さん、それってどういう意味ですか。僕はそれを聞こうと思って佳子さんを見た。佳子さんは、気配を感じたのか、すぐ僕に向き直った。

 すると、息を飲んだ。佳子さんは、また目を閉じていた。柔らかく美しい曲線を描いた、瑞々しい桃色の唇を僕に向けて、また、丸く、軽く、わずかにすぼめていた。でも、僕はまだいけない、と思った。

「まあだ、だよ」

「んふ」

 佳子さんは、声にならない声を出した。

「きょうは、やめようね。」

 僕は、きょうはまだ、線を引いておかないと、みわちゃんとのことで混乱しそうだったので、これ以上進むのはいけない、と思った。

 でも「きょうは」という留保をつけた自分は何なんだろう。そう思っていると、佳子さんがぽつりと言った。

「うん。」

 一息ついて、続けた。

「よく、できました。合格ね。」

 合格?それって何の合格ですか?早稲田大学?そんなはずないな。それは二十三年前だ。もっとすごいところの合格であってほしい。どこなのか、佳子さんに聞こうとした。でも、それを聞く前に、佳子さんは、ふうっと息を吐いて、寝ようとしていた。せっかく佳子さんが寝られるのにようになったのに、邪魔しちゃいけない。僕は聞くのを自重して、佳子さんと反対側に顔を向けた。こんなかわいい寝顔を見ながら、寝られない。僕も目を閉じて、きょうという一日の反芻を始めた。反芻する内容は、あまりにもたくさんある。どこまで反芻できるだろう。そう思ったが、僕もふいに睡魔に襲われたので、ここで睡魔にさらわれようと思った。明日も、ドキドキすることがあるかもしれないから、ちゃんと寝て、体力蓄えないと。僕は、明日のデートを前にした高校生のようなことを考えながら、眠りに落ちた。


 箱根の峠の朝は、たいそうなカラスの鳴き声から始まった。本当は、小鳥のさえずりくらいがちょうどよいのだろうけど、峠の上までやってくる勇ましい鳥は、カラスくらいしかいないらしい。カラスというのは不思議な鳥で、頭がよく、目がよく、物おじしない。人が近づいていっても、平然としているカラスが多い。カラスのように生きていられればいい、と思うこともあるけれど、そんなカラスは真っ黒だ。すべての色のペンキをかぶってしまったから黒い、という話を童話で読んだ。業を背負わないと、カラスのようには、なれないのか。黒くあり続けないと、カラスのようには、なれないのか。カラスたちから、一度じっくりと聞いてみたい。

 そんなカラスの大合唱で、僕は目を覚ました。遮光カーテンの隙間から、かなり強い日差しが見えた。きょうは朝曇るはずだったが、早めに寒気が抜けて、青空が広がったのだろう。

 僕は、佳子さんの方をちらりと見た。

 まだ、寝ている。ああ、ゆうべのあれこれは、夢じゃなかったんだ。今、何時かな。でも、今日は休みだからいいか。

 ここで、僕は気づいた。昨夜、みわちゃんに「おやすみなさいLINE」を送るのを忘れていたことに。「別々にいるときは、必ずおやすみなさいLINEをしてね」と、みわちゃんにはきつく言われている。みわちゃん、昨夜はそれどころじゃなかったんだ。ごめんね。今朝のLINEで謝るか。どうやって謝ろうか。そんなことを考えていると、隣の布団から、もやもやした声が聞こえた。

「起きたのお?」

「うん」

「おはよお」

「うん、おはよう」

 佳子さんは、なおも眠たそうだった。僕は自分の布団をはがし、日差しが筋のように差し込むカーテンに向かい、そこで少しだけカーテンを開けて、表の様子を見た。 

 朝、どんな空模様になっているか。湿り気はどれくらいか。気温はどうか。その三つを確認しないと、僕の予報士としての一日は始まらない。これは、仕事をしている日はもちろんだけれど、仕事をしていない日も必修科目だ。別にこれをやったらからと言って給料をもらえるわけではない。でも、毎日連続して感じることが、違いを感じることになるので、予報の仕事には不可欠だ。それは僕が休みであるかどうかは関係ない。自分の仕事を続けるために、休みでも不可欠なルーティンをこなすのは必要だと僕は思っている。

 きょうもそのルーティンだ。カーテンをさらに開ける。窓をそっと開く。開いたとたんに、ぶわりとした重たい寒気が、窓の下の方から攻め入るように入ってきた。マイナス五度はあるだろう。さすが箱根。しかし、空気は案外と乾いていて、ぶわりと入ってきた後は、さらりと抜けていくような感じだった。このさらりが、きょうの青空をもたらしている。上空を見上げると、水色の鮮やかな空に、綿あめのような小さな雲が三つくらい申し訳程度に存在しているだけだった。この綿あめは、きょうの空気の乾き具合からすると、このあと早めに溶けてなくなるのだろう。

 僕がルーティンをこなして、ふと下界に目を移すと、ホテルの裏の広場に、ジャージやウインドブレーカーを着た従業員と思われる人たちが十人ほど、わらわらと集まり始めていた。これから、ラジオ体操でもするのか。朝と言えば、宿にとってはずいぶん忙しいはずなのに、余裕があるんだな、と思った。

 すると、スピーカーから音楽が流れた。ちょっとヨーロピアンな感じの曲だ。続けて、八神純子さんの伸びやかな声が聞こえた。

「こーころーのー、なかでー、あしたがー」

 あ、これも「涙をこえて」か。ずいぶんスタイリッシュな「涙をこえて」だ。こんな「涙をこえて」もあるんだな。僕がそんな発見をしていると、ジャージを着た人たちがパキパキと踊り始めた。あ、きのう踊ってくれた精鋭音楽団の人たちか。朝から体を動かすんだな。そう思っていると、後ろから眠たい声が聞こえた。

「ああ、踊り、始まった?」

「うん」

「毎朝踊るのが、大事なのよねえ」

「毎朝?」

「そう。毎朝」

「なんで?」

「踊りって、とにかく繰り返すのが大事なのよね」

 佳子さんはそう言うと、もぞもぞと起き上がり、掛け布団をおもむろに剥いで、敷き布団の上に、細い足をくの字に折りたたんで重ねた。

「ある動きを覚えたらね、 ただひたすら繰り返すの。どうしたらもっと滑らかになるか、きれいにできるか、繰り返し、やってみるのよね。そしたら、だんだん力が抜けていって、ゆったりと、しかも、呼吸しながら、するっときれいに動ける瞬間がくるの」

「へえ、するっとって、踊りが、なんかこう、体に馴染むってこと?」

「うん。でも、不思議でね。 馴染んだと思った途端にできなくなったり、ちょっと間が空くだけで、まったく分からなくなったりもするの。でもずっと後になって、自分でも無意識のうちに、繰り返していたことが突然できるようになったりもするから、 踊りが馴染むのは、段階として必要なのよね。繰り返すって、一見単純作業だけど、とても複雑で、緊張感あるのよね。いつ、自分がいい踊りができるかなんて、わからないから」

「ふーん」  

「繰り返して、繰り返して、とにかく繰り返して、この世でたった一度、めぐり会える瞬間みたいなのを信じてやるのよね。だから、踊り続けるってことが、大事なの」

 僕はそこでピンときた。「この世でたった一度、めぐり会える」というのは、「涙をこえて」の一節だ。

「ああ、だから『涙をこえて』をかけて練習してるんだ」

「そう。いつ、この世でたった一度めぐり会える瞬間が来るのかはわからないけど、踊りって、それを信じてやるのよね」

 佳子さんの、ダンスの先生らしい言葉を聞いた。僕は外をのぞくのをやめて、布団のところに戻ってきた。

「八神さんの歌、かっこいいよね」

「うん。あたし好きなの」

「いいよね」

「前、名古屋でコンサートがあったとき、行ったなあ」

 そういえば、八神さんは名古屋の出身だ。

「ああ、名古屋。」

 僕はなつかしい地名を聞いた。

「僕も、三年くらい名古屋の放送局にいてね。楽しかったなあ」

 僕は六年前から三年前まで、名古屋のしゃちほこテレビで仕事をしていた。名古屋はおいしいものがたくさんあって、楽しかった。

「そうなんだ。いつごろ?」

「六年前から三年前まで、だね」

「ああ、じゃあちょうどその頃ね。あたしが行ったのも。八神さんのコンサートは、平成二十五年の六月十六日だったと思うわ」

「さすが、よく覚えてるね」

「そうそう、コンサートの前に、NHKとかしゃちほこテレビで八神さんの公開トークがあってそれも見に行ったんだよ。追っかけみたいに」

 僕は、驚いた。

「え、じゃあ、しゃちほこテレビにも来てたの?」

「うん」

 僕は当時、しゃちほこテレビの公開番組の気象情報の担当で、スタジオに毎日いた。ということは、佳子さんはそのスタジオの観覧者の中にいたということか。

「僕、しゃちほこにいたんだよ。しかも、公開番組に」

「へえー」

「ひょっとしたら僕たち、そのときに会っていたのかもしれないね」

「うん、そうだね」

「不思議だねえ」

「不思議ね」

 ということは、そこで佳子さんを見つけていればもっと早く出会えたのだろう。みわちゃんと出会ったのはその次の年、僕が東京の坂の上テレビに移ってからのことだった。僕はそんな、みわちゃんにとって失礼なことを考えてしまっていた。佳子さんは言った。

「なんか、彗星みたいだね」

「彗星?」

「そう。彗星って、惑星にぶつかりそうで、ぶつからないじゃない」

「ああ、ニアミスするよね」

「あたしたちも、ニアミスしてるんだねって、思った」

 佳子さんと、ニアミス。確かに、僕たちは何度もニアミスをしてきたのだろう。しゃちほこテレビの公開番組のときは、ひょっとしたら十メートルくらいの距離まで近づいた、ものすごいニアミスだったのかもしれない。東京に移ってきてからも、近くに住んで、職場も近くて、通勤に同じバスを使っているのだから、一本違いのバスに乗ったり、あるいは気づかないうちに同じバスに乗ったりしたのかもしれない。

 神様はそんなニアミスで僕たちを近づけて面白がっているうちに、ついに僕たちをぶつけてしまった。僕たちは神様の不手際で再会してしまったのかもしれない。でも、こんな不手際なら、僕は大歓迎だ。

「ニアミスしているうちに、ぶつかったってことだね」

「そうだね」

「去年、彗星が町にぶつかるっていう映画を見たからかな」

「あ、それ、あたしも見たよ」

「ああ、それで彗星みたいって言ったんだ」

「そう。ワンコちゃん、代々木の駅でお別れするときにその映画のこと言ってたでしょ。あたしそのとき、ニアミスしていた彗星がついにぶつかったって、思ったのよね」

 そうだ。あのとき、佳子さんが口ごもっていたことを思い出した。ニアミスの彗星の話をしたかったのを、僕が遮って「これからもがんばって」みたいなありきたりなことを言ってしまったんだな。僕は少し後悔した。

「ああ、それをあのとき言いたかったんだ。ごめんね」

「ううん、いいの。今言えたから」

「うん。あの映画、よかったよね」

「よかったよね。なんだか、究極の共感みたいな感じで」

「究極の共感?」

「うん。人間にはみんな、忘れられない名場面があると思うんだけど、でも、それって頭の中でいつもひっそりと眠ってて、なかなか思い出せないのよね。でも、あの映画にはなんかそういう、見た人それぞれの名場面を呼び覚ます力があるんだなあって気がしたの。その名場面が映画のシーンと重なって、一人一人の頭の中で生き生きと展開していくのよね。それが共感だと思うの」

「そっか、だから、みんなあの映画見て、いいと思うんだ」

「そうそう。何度も見たくなるっていうのも、その生き生きとした展開にまた浸ってみたくなるからじゃないかなあって、思う」

「うん」

「だからあたしも、共感してもらえる、何度も見たくなるようなダンスがしたいのよね。見た人それぞれの頭の中に、何か、その人だけの花を咲かせられるといいなって」

 佳子さんのダンスの夢は、大きかった。見た人それぞれの中で展開する。素晴らしいことだと、僕も思った。

 そう言えば、僕が大学に入った平成六年の暮れ、ラジオで紅白歌合戦を聞いたとき、実況のアナウンサーが、冒頭でこんなことを言っていた。

「お仕事中の方、病院に入院している方、車の中にいる方。みなさん一人一人の、紅白歌合戦です」

 そうか、いいコンテンツって、一人一人の中で、それぞれに、さまざまに花が咲くものなんだな。僕はそう思った。そして僕は、ひそやかな願いを佳子さんに思い切って打ち明けた。


「できたら、あの映画の主人公たちみたいに、なれたらいいな」

「んふ」

 佳子さんは、はっきりした返事をしなかった。時をこえて出会うという設定は、映画と一緒なんですけど。そう思っていると、佳子さんは、話題を変えた。

「お腹、すいたね。朝ごはん、用意してもらおうか」

「うん」

 佳子さんはそう言うと、電話のところまでもぞもぞと這って、内線電話で朝食の用意を頼んだ。そして、タンスに近づいて、引き出しから着替えを取り出した。ホテルの部屋のタンスに着替えが入っている?ちょっとおかしかったが、佳子さんはここの娘さんなんだから、そういうこともあるのだろう。そういえば、ロマンスカーを降りるとき、やけに荷物が少なかったが、それは着替えを持っていかなくてもいい、ということだったのだろう。僕の疑問がまたひとつ解けた。

 すると、次の瞬間、佳子さんはその場でするりと浴衣を脱ぎ始めた。身長百五十五センチの佳子さんは、体にまとわりつくような濃い紺色の帯を緩め、腰を軽く回し、ベールを脱いだ。

「えっ」

 僕は、浴衣から身を放たれた佳子さんを見てはいけない、と思い、目をそむけた。

「あのっ」

 僕はそこで鋭い声をあげた。

「あ、ごめん、脱いじゃった」

 佳子さんは悪びれもせずに言った。

「ま、大丈夫だけどね」

 佳子さん、何が大丈夫なんですか。僕は目をそむけていたが、僕はちょっと悪びれることにして、ちらりと期待した視線を佳子さんの方に送った。すると、佳子さんは、浴衣の下に袖のついた白く厚い、襦袢のようなものを着ていた。

 なーんだ。僕は、ドキドキして成人向けの写真集を買った高校生が、こっそり中身を開けてがっかりするかのようなため息を漏らした。佳子さん、これも設定、作戦ですか。

「じゃ、向こうで着替えてくるね。ワンコちゃんも着替えて」

 佳子さんは、僕が質問をぶつける暇も与えず、着替えをもって、隣の部屋に移り、ふすまを閉めた。

 不思議だなあ。きのう、洗面所で肩を抱いた時は耐えられないくらい恥ずかしく、緊張して、肩を放してしまったのに、いまは、ちらりと佳子さんのベールの中が見られないかと期待してしまっている自分がいる。

 みわちゃんとは、こんな展開はない。わりと早い時期から、僕とみわちゃんはその日の演目を淡々とこなすように過ごしてきた。演目自体は、面白かったり、本能に訴えかけるものもあるけれど、演目と演目をつなぐ場面はこれといったものがない。それは平坦な道をゆるゆると進む馬車のようなもので、面白味も緊張感もない。すべては想定内だ。時には反応を期待されるとわかって、反応を演技したりもすることさえある。

 でも、佳子さんとは、違う。緊張感あふれる展開だ。展開と展開の間にも何かが隠れている。つながっている。小ネタもある。話も面白い。意外なことが起きる。僕は、女性の魅力や、女性とともに過ごす時間というものの意味について、考え始めていた。

「あら。まだ着替えてないの?」

 佳子さんは、首だけ隣の部屋のふすまから出して、言った。着替えるのが、早い。

「もうちょっと、待っているからね」

 そう言って、首を引っ込めてふすまを素早く閉めた。僕はあわてて自分の荷物から着替えを取り出し、浴衣を急いで脱いで、黒のシャツに着替えた。

「着替えたよ」

「あら、じゃあ、いくよ。見て。」

 そう言うと、佳子さんはふすまをバッと開いて、姿を見せた。

 その姿を見て、あ然とした。予備校のパンフレットに、高校生役で出ていた時と同じ、白いハイネックのセーターに、燃えるような赤いスカートだったからだ。僕は思わず言ってしまった。

「あの、この服、代々木の予備校の」

「そう、パンフに載ったときの、ですっ。さすがワンコちゃん、よく覚えているね」

「うん。パンフ、大事に持ってたからね」

「あら、そうなの?うれしい」

 僕は佳子さんの出ているパンフレットを、宝物として持っていた。大学に入った後、もう、予備校なんて関係ないのに、佳子さんが出ていた四年分のパンフは、全部集めて持っている。その、パンフに出ていた佳子さんが、パンフから飛び出してきた。僕はますますうれしかった。

「いや、なんだか、すごく、信じられなくて、うれしい。だって、パンフの中の衣装そのままだったから」

「へへ」

 佳子さんは、得意そうに笑った。

「これも、狙ってやってるんでしょ」

「ううん」

 佳子さんは、ちょっと意外な答えをした。

「これは、さっきタンスを開けてたら、ほんとに偶然見つかったの」

「へえ、じゃあ偶然だ」

「そう。偶然と必然とが組み合わさって、この物語は進んでおりますっ」

 物語。僕がゆうべ思っていたこの言葉が、佳子さんの口からも出てくれた。うれしかった。

「じゃあ、ご飯食べに行こうか」

「うん」

 僕と佳子さんは、廊下に出て、まるでパンフレットに載る先生と生徒のように、並んで歩いた。もちろん、風貌からすれば、僕が先生で佳子さんが生徒だけれど、実際は、佳子さんが先生で僕が生徒だ。その矛盾も心地よいと思いながら、僕は朝食会場に向かった。


 きのうの夕食と同じ、広間に着いた。また、ふすまがすごい勢いで開いた。さすが大王子観光だ。広間の中には、お膳が三つあり、すでにじじが座っていた。

「おお、佳っちゃん、石井君、おはよう」

「おはようございます」

「おはようございます」

 僕たちが声をそろえるようにして挨拶すると、じじは上目遣いをして、ちらりと僕を見た。

「ゆうべは、仲良くできた、か?」

 朝から、いきなり直球がきた。佳子さんと僕は顔を見合わせた。 すると、佳子さんが意外な返事をした。

「はい。仲良くさせていただきました」

 佳子さん、それは火に油ですよ。僕がどうフォローしようか考えていたところ、じじも意外な返答をした。

「おお、そうか。そりゃあ、よかった。」

 僕はぽかんとした。じじは、このあと、きっと根掘り葉掘り聞いてくるだろうと思った。しかし、あったのはこの一言だけだった。きっと、直球に逃げずに回答したので、変な二の句が告げられなかったのだろう。佳子さん、やるなあ。僕だったら、適当にごまかそうとして、さらに根掘り葉掘り聞かれていたかもしれない。僕は大人になってから、いつも誰かの顔色を窺ったり、その場を取り繕うようにしてごまかしてきたような気がする。そして大抵、事態はあまりよくない方向に動いた。しかし、佳子さんは、逃げずに回答して、それで流れを止めた。なかなか勇気がいることを、佳子さんは平然とやった。

 そう言えば去年、「思い出のメロディー」で萩本欽一さんが「ドーンといって、みよう!」と言っていたけど、こういうストレートな物言いって、最近なかなかできない。でも、佳子さんは、それをやっている。ドーンと。僕は改めて、佳子さんはすごいと思った。

「石井くん、どうしたの?座ろうよ」

 僕がぼうっとしていたので、佳子さんが声をかけてきた。あ、じじの前では「ワンコちゃん」じゃなくて「石井くん」なんだな。やっぱり、じじの前だと恥ずかしいのかな。僕は小さな発見をして、お膳の前の座布団についた。

 すぐに、食事は運ばれてきた。金目鯛の煮つけに、しじみの味噌汁、納豆と山芋のすりおろし、砕いたクルミの入ったヨーグルトだった。朝から金目鯛の煮つけとは豪華だ。

「朝から金目鯛が食べられるなんて、すごいです」

「おお、金目鯛を気に入ってくれたか。伊豆は金目鯛の水揚げ日本一なんじゃ。そこから直接買い付けて来とるから、うちの自慢なんじゃよ」

「そうなんですか。自慢料理をいただけて、うれしいです。ありがとうございます」

 僕はじじに礼を言った。そして、佳子さんを見た。佳子さんはきれいに金目鯛をほぐして食べていた。そう言えば佳子さんは、さっき「仲良くさせていただきました」って言っていた。本当にうれしい。佳子さんの「仲良く」って、どんなイメージなんだろう。僕はそんなことを考えていると、情けないことに顔がほころんできた。

「おお、石井くん、顔がほころんでおるぞ」

 じじに、見つかった。

「あ、あの、き、金目鯛がおいしいからですっ」

 僕はまたとっさにごまかしてしまった。ああ、佳子さんは逃げずに回答したのに、僕はやっぱり力が足りないなあ。こんなことで、これからどうなるのかな。佳子さんをもっと見習わないといけないな。そう思った。

 あっという間に朝食は終わり、お膳が下げられていった。じじは、仕事があるからと言って、お膳が下げられるのと同時に、広間から去っていった。僕と佳子さんも、広間から出た。広間を出て、段を降りてスリッパをはくところで、仲居さんが佳子さんにそっと近づいた。そういえば、佳子さんは、夕べのような急な吐き気があるから、仲居さんが気を遣ったのだろう。僕は大王子観光の細やかな気遣いに感心した。

「金目鯛、おいしかったね」

「あ、そう?あれね、ほんとにうちの自慢なの」

「いやほんとに。いいものを食べさせてもらった」

「いえいえ、これくらいしか、できません」

「いやもう、十分だよ」

 そう言うと、部屋に着いた。部屋に入ると、もう布団はきれいに片づけられていた。きのう、部屋に入った時と同じように、机と座布団が置かれていた。くっついていた二つの布団がなくなっていて、僕はなぜかさみしかった。

 すると、佳子さんは突然、意外なことを言った。

「じゃあ、きょうはこれで解散ね」

「え、解散?」

「そう。あたしはここを手伝うから残るけど、ワンコちゃんとはこれで解散ね」

 解散?僕は今まで、衆議院が解散しても、SMAPが解散しても、淡々としてきた。しかし、この解散の宣言にはものすごく動揺した。ちょっと、素敵な二日目の朝がまだ始まったばかりなんですけど。一泊二日で彼氏をやらせてもらうことになっているんですけど。まだ、二日目は朝ご飯食べただけなんですけど。僕が未練がましい思いを開陳する前に、佳子さんは冷淡に言った。

「だって、きょう、わたし、忙しいのよ。ごめんね」

 え、そんな。そりゃないですよ。ひょっとしたらこれから箱根を回って、思い出を作って、みたいな展開を僕は考えていたんですけど。しかし、佳子さんはもう、荷物をしっかりまとめていた。僕も従わざるを得なかった。あわてて荷物をまとめて、玄関へと向かった。

 悲しくて、胸が落ちる。僕はとぼとぼと玄関から出ようとした。そこで思い出した。

「あの、お金は?」

 僕はまだ宿にお金を払っていなかった。いったいいくらするんだろう、あの部屋は。しかし、佳子さんはさらりと言った。

「あ、いいのよ。今回は特別」

「そんな、あんな高い部屋に泊めてもらったのに」

「いいのよ。彼氏役をやってもらったから、そのアルバイト代だと思って、ねっ」

 え、これってアルバイトだったんですか。僕はさらに落胆した。これでこの物語は終わりなんですか。それってあまりにも寂しくないですか。僕がその辺のことを何とかして伝えようとしたところ、佳子さんはまた意外なことを言った。

「いいの。ちょっと大変だと思うけど、たぶんね、また来ることになるんだから」

 僕は意味がわからなかった。それは、客として?それとも、佳子さんの彼氏役として?その答えを聞く前に、僕は宿の車に押し込められた。

「あの、僕」

 なおも抵抗しようとする僕に、佳子さんは引導を渡した。

「遠足は、家に帰るところまでが遠足です。最後まできちんとしないと、ねっ」

 遠足?ずいぶんと子供じみた話をしてくれるな。僕はちょっと馬鹿にされた思いがした。しかし、僕が次の言葉を告げる前に、車は発車してしまった。

「あっ」

 僕がそういって振り返ると、佳子さんは赤いスカートをひらつかせて、言った。

「がんばって、ねー!」

 何をがんばるのだろう。仕事のことか?ずいぶん最後は月並みだなあ。

 しかし、ここの「がんばって」というのは、実は仕事とかではなく、全く違うことに対するエールであることを僕はしばらくして知ることになった。もちろん、このときの僕はまだ何も知らない。 峠の上からものすごい勢いで下る車の中で、僕はまだ、寂しさだけを抱えていた。

 あ。また、今回も連絡先を聞かなかった。華の独身だと判明したのだから聞いてもいいのに。僕は、自分の段取りの悪さを悔やんで、帰途に就いた。


 帰りは、ロマンスカーには乗らなかった。各駅停車と快速急行を乗り継いで、新宿まで帰った。ロマンスカーに乗ると、往路の佳子さんとのことが思い出されてしまい、切ないからだ。往路は、オロオロもしたけど、よく考えたら最高だった。だって、偶然にも佳子さんと隣同士の席になり、そのあと一晩一緒に過ごせたのだから。

 しかし、きょうの復路は、最低だ。追い出されるように帰ることになってしまい、僕の心は袋だたきにあったような気がする。箱根駅伝で言うと、せっかく往路優勝したのに、復路でがくんと順位を下げてシード権喪失、みたいなものか。なんて浮き沈みが激しいんだ。

 そんなことを思って、マンションの近くまで来た。

 しかしこのとき、僕は箱根で起きた「すごいこと」に心を奪われていた。「すごいこと」というのは実は厄介で、「もっとすごいこと」の前ぶれであることが、まれにある。大きめの地震があって「すごいことだ」とびっくりしたけれど、実はそれは前震で、「もっとすごい」本震がそのあと来た、という話は、近年、東日本大震災でも、熊本地震でもあった。本当は「すごいこと」が起きた段階で「もっとすごいこと」が起きるかもしれないと準備しておくことが、大事だ。

 人間は「すごいこと」が起きると、ついその「すごいこと」を振り返ることに集中してしまい、次に「もっとすごいこと」が起きる可能性に思いを致すことをやめてしまう。このときの僕も、そうだった。箱根での「すごいこと」ばかり考えて、帰ってきた。

 平日の昼間なので、のんびりと家の鍵を開けた。すると、意外なことに、中からみわちゃんが飛び出してきた。

「みわちゃん?」

「…おかえり」

 その声のトーンの低さに、驚いた。みわちゃんと言えば、いつもかわいらしい、丸ゴシックのような声をしていたが、このときはどう聞いても、硬い明朝体の声をしていた。何があったのだろう。

「みわちゃん、どうしたの?会社は?」

「きょう、休んだの!」

 みわちゃんが会社を休むのは極めて珍しい。僕と付き合い始めてから、風邪を引いたことはあったが、インフルエンザじゃない、人にはうつらない、と言って四十度の熱があるときも会社に行ったみわちゃんだ。そのみわちゃんが休んだ、と聞いて僕はちょっと怖くなった。

「どうしたの?休むなんて」

「石井さんに、話がしたかったから」

「話?」

「そう」

 いったい何の話なんだろう。僕は思い当たる節がなかった。

「何の話?」

 僕がそう言うと、修羅場が始まった。みわちゃんの顔はみるみる赤くなり、夜叉のような表情になった。そして、みわちゃんは顔より大きなクッションを、思い切り床に叩きつけた。クッションの中の白い羽毛が飛び出してきた。華やかに乾いた空気の部屋に散る。

「ええ、どうしたの?」

「ゆうべ、LINEくれなかったでしょ!」

 僕はそこで初めて「しまった」と思った。毎朝毎晩「おはよう・おやすみなさいLINE」を、僕たちは欠かさず交換してきた。同じ家の中で、隣にいるときも送りあっていた。しかし、今朝僕が気付いたように、ゆうべから、みわちゃんにはまったくLINEを送っていない。これは、付き合い始めてから、初めてのことだった。

「なんで送ってくれなかったのよ!すごい心配したのよ!」

「いや、ごめん。本当にごめん。」

 僕は必死で謝った。実は、今までも、LINEを忘れそうになったことはあったが、エレベーターに乗ったときとか、隙間隙間の時間でスマホを見てばかりだったので、スマホを見て思い出す、ということで危機は救われてきた。

 ところが今回の箱根では、ロマンスカーで佳子さんに会って以来、まったくスマホを見ていない。佳子さんの方ばかり見ていた。帰りの電車の中では落胆して、スマホを見る気力がなかった。それに、なんだか腑抜けてしまって、眠かった。こんなに長い時間スマホを見なかったのは、六年前にスマホを買ってから初めてだ。

「すごい心配して、いっぱい送ったのに!」

「いや、ほんとごめん」

 僕があわててポケットの中からスマホを取り出した。見ると、画面は通知の嵐だった。LINEの通知が三十件くらい、電話の着信通知が十件くらいあった。

「あの、電話もしてくれたんだ」

「そうよ!メールもいっぱい送ったんだからね」

 見ると、みわちゃんからのメールは二十通来ていた。

「いや、いや、ほんとごめんなさい」

 僕は誠心誠意謝った。しかし、みわちゃんは許してくれなかった。

「だって、約束したでしょ。おはようLINEとおやすみLINEは必ず送るって!約束破る人、キライ!あたしの石井さんなのに!」

 みわちゃんは、僕が今まで見たことなかったような、怒り方をしていた。僕はさらに謝った。

 「本当にごめんなさい。僕が悪かったです」

 スマホを見る暇がなかった、というのは言い訳になるし、実際には暇はあったので、それを言うのはやめた。

「みわちゃんを心配させて、本当に悪かったです」

「本当にそう思ってる?本当に思ってるの?」

「うん、思ってる」

 僕は本当にみわちゃんを心配させて申し訳ないと思っていた。 みわちゃんは、小学生のときはポケベル、中学生のときはPHS、高校生・大学生のときは携帯、社会人になってからはスマホと、物心ついた時から、誰かと個別につながった道具に浸かって生きてきた。特にみわちゃんは、こういう道具が大好き、というか、ないと生きていけないようで、主要な人から連絡がないと、耐えられない、ということは前から知っていた。だから僕も連絡は絶やさないようにやってきたけど、それは結構負担のかかる行為で、たとえば同じ家の同じ部屋で、コタツに一緒に入っているのに、なんでLINEを送らせようとするのか、など疑問に思うところはあった。ただ、そんなみわちゃん相手に連絡を一日以上絶やしてしまった僕は、確かに悪い。僕はなおも謝った。

「いや、ほんとにごめんなさい。申し訳ないです」

「じゃ、なんで連絡くれなかったの?」

「変でしょ!」

 すると、みわちゃんは続けて、吐き捨てるように言った。

「変態!」

 そう言われて、僕は少しひっかかった。いや、確かに一日以上連絡を絶やした僕は悪い。でも、「変態」とまで言われる筋合いはあるのか。僕はちょっといらっとした。そこで、みわちゃんに対抗するために、あえて嘘を混ぜた。

「すみません。実は、箱根の峠の上にいて、電波が届きにくかったんだよ。でも、箱根を出たら、そのことの説明も含めて、すぐ連絡しないといけなかったね。すみません」

 実際には、峠の上でも携帯の電波は十分届くはずだが、まさか、佳子さんへの対応に精いっぱいで連絡するのを忘れていましたとか、気づいてはいたけど、みわちゃんのことはすっかり後回しになっていましたなどと言うと、火に油どころか、ガソリンを注ぐことになってしまうので、和平を優先する意味でも、嘘を混ぜた。

 するとみわちゃんは、案外簡単に矛を収めた。

「あ、そうなの?うーん、なら、仕方ないかも、なあー」

「いやごめん。帰り道すぐに連絡しないといけなかった。ごめんね」

 僕がそういうと、みわちゃんは少し落ち着いた。嘘も方便で、これで結果的にはいいのかもしれないが、僕はあまりいい気分ではなかった。なんでLINEが来ないことに、そこまで怒るのか。僕にはよくわからなかった。送らなかった僕は確かに悪いけど、無事に帰ってきて対面できたことに対して、何も言ってくれないことについて、僕は多少の疑問があった。

「今度から、気をつけてね」

「うん。ごめんね」

 僕はそう言って、頭を下げた。それを見ると、みわちゃんは、ベランダに通じる窓のところまで歩き、外を見た。

「あのね」

「うん」

 みわちゃんは、こちらを向いた。

「土曜日、パパとママに会ってほしいんだ」

「え?」

 僕は、突然の申し出に驚いた。みわちゃんのご両親には、すでに同棲前から会っていて、ご両親に許しを得た上で同棲している。なんで、今また?僕はまた疑問に思ってしまった。

「あの、ご両親には、何回かお会いしているよね」

「うん」

「何かお話したいこととか、あるってこと?」

「うん」

「何だろう」

 すると、みわちゃんは一息ついて、こう言った。

「パパとママがね、石井さんに、婿養子に来てほしいって、言いたいって」

「婿養子?」

「うち、去年、妹がお婿をとらずにお嫁に行ったでしょ」

「うん」

「それから実は、あなたが婿養子をとりなさいって、猛烈に言われていたの」

「え、そうなの?」

「そう。で、何度も石井さんに頼めって言われていたの」

「そうなの?」

「でも、まだだからって言って、防いできたんだけど、最近、それなら家に帰ってこいって言いだして、大変なの。それできのう、実家に帰っていろいろ話したのよ」

「そうだったんだ。それで?」

「何度も言ったんだけど、だめで、もう石井さん連れて来なさいって話になっちゃった」

「そうなんだ…でも、どうしてそんなに婿養子にこだわるの?」

「財産よ」

「財産?」

「そう。うちはパパがおじいちゃんの資産をたくさん受け継いだんだけど、このままだとママと私と妹しか相続できないから、石井さんにもぜひって」

「ええ、僕にも」

「そう。いい話でしょ」

 みわちゃんのお父さんは資産家で、「山河建物」という会社を営んでいると聞いたことがある。僕に財産をくれようとしているのか。それは確かにいい話だし、みわちゃんを大事にしたい気持ちはあるけれど、財産をもらうために婿養子に行くというのは、なんだか釈然としない。

「でも、ずいぶん急だね。この間までは、結婚はいつでも、って言っていたのに」

 僕は、去年、みわちゃんの妹の結婚式でご両親に会った時に、そう言われた。みわちゃん自身も、急いでいなかったはずだ。それなのに、なぜ?

「うん。確かに去年はそう言ってたんだけどね」

 そう言うと、みわちゃんは少し話題を変えた。

「私、跡継ぎをそろそろ、って言われてるの」

「跡継ぎ?」

「そう。赤ちゃん。私ももういい歳だから、そろそろ産みなさいって」

 確かに、みわちゃんは今年三十三歳だ。そろそろ、という気持ちもわかる。

「うん、なるほどね」

「そう。パパとママがね、三人は産みなさいって」

「三人?」

「そう。子供は多い方がいいからって。だからそれを考えると、そ

ろそろ石井さんに来てほしいなって」

「あれ、でも、去年ご両親に会ったときは、授かりものだからいつでもとか、何人でもいいじゃないのって言っていたと思うけど、ご両親の考えが、変わったのかな」

 僕がそう言うと、みわちゃんは少し急ぎ目に言った

「そうだっけ。でも、きのうはそう言っていたよ」

「そうなんだ」

 そこで僕は、みわちゃんの体に何かあったのか、と思い、心配になった。

「あの、みわちゃん、例えばなんだけど、体の方に、何かあったとかなの?」

「え、何で?」

「だって、急にそういう考え方になったってことは、みわちゃんの体に何かあったのかと思って、ちょっと心配になったんだよ」

「あ、それは大丈夫。心配ないから。ありがとう」

 僕はみわちゃんの体に異変があったわけではないと知り、少しほっとした。

「でね、善は急げで、赤ちゃんもなるべく早くしたいんだけど」

「なるべくって?」

「できれば、早く」

「それって、今年中とか?」

「もっと早くてもいいの」

「ええ、だって仕事もしてるし」

「仕事はもういいのよ」

 普段、受付の仕事に対して、大変な誇りを持っているみわちゃんから、意外な発言が飛び出した。仕事での愚痴はよく聞くが、行き詰っているとか、もうやりたくない、という話は聞いたことがなかったからだ。いや、ひょっとしたら、離婚した話みたいに、僕がみわちゃんのことをよく聞いていないから、ひょっとして、「仕事はもういい」という気持ちを聞き逃していたのかもしれない。僕はいろいろ考えた。

「じゃあ、ちょっといろいろ考えてみるね」

「ありがとう。じゃあ、土曜日は大丈夫?」

「明日、会社に行って、休めるかどうか調整するから、ちょっと待ってもらえると、うれしい」

「わかった」

 僕は土曜日にご両親に会う話も含めて、ちょっと時間を置いて考えたかった。 

 まず、みわちゃんが「善は急げ」と言ったのが気になったからだ。

「善は急げ」というのは、急がないといけない理由が何かあるときに使う言葉だと思うので、その急がなければならない理由を、もっと知りたかった。本当にみわちゃんが言ったことだけが理由なのか。

 そして、何と言っても、僕の心の中に、佳子さんが入ってきてしまった、というのが大きかった。佳子さんのことを無視するわけにはいかないという気持ちがあるのは、正直認めざるを得ない。

 僕は、頭の中がごちゃごちゃだった。

 その日の夜、みわちゃんは大そうないびきをかいて寝ていた。一方、僕は、ほとんど寝られなかった。いったいどうしたら、一番いいのだろう。暗闇の中、答えは、見つからなかった。

 

 翌日、僕は休み明けで、坂の上テレビに朝から出勤した。

 午前十一時の予報をこなした後、少し早目の昼食をとりに、食堂に行った。込んだ食堂に出くわすのを避けるために、いつもこうしている。坂の上テレビの社内食堂は、だだっ広いところに長机が何本も置いてある昔ながらの食堂で、取柄は安いことと、案外うまいということだ。僕も週に三、四回はここで食べている。ゆうべ、ほとんど寝られなかったこともあって、眠い。とにかく早くスタミナをつけようと、焼肉定食を注文し、長机で一人食べていた。

 ふと、隣の新聞立てに目を移すと、いま来たばかりの夕刊紙に「サンガ大ピンチ」という見出しが書かれていた。サンガって、Jリーグのチームのことか。僕はそう思いながら、食事をしていた。 

 定食を食べ終え、僕は席を立ち上がり、食器を下膳口に戻した。しかし、さっきの夕刊紙がどこか気になったので、ちょっと見てみようと思った。

 席の近くに戻り、夕刊紙を開く。すると、驚いた。記事は、サンガコーポレーションという会社が不渡りを出すという話だった。サンガコーポレーションの親会社は「山河建物」と書いてある。みわちゃんのお父さんの会社だ。記事によると、サンガコーポレーションには粉飾決算の疑いがあり、さらに、山河建物がその粉飾に加担していた疑いも持たれ、現在、捜査が行われているという。それを察知した資産家たちは、サンガコーポレーションや山河建物の株を数日前から大量に売りに出し始め、昨日ついに、株価が過去最安値になった。こうした状況になったため、山河建物は、持っている資産の土地や建物の切り売りを始めたが、うまくいっておらず、それどころか資産には大きな含み損があることもわかったという。このままだと、山河建物は危ない、という話だった。

 僕は、よくないことを考えてしまった。ひょっとしたら、こういう話が出てきたから、みわちゃんとご両親は、いろいろ急ごうとしているのか?

 僕は、さらによくないことを考えてしまった。ひょっとしたら、婿養子に来てほしい、という話は、財産を相続してほしい、だけじゃなくて、負債も相続してほしい、という意味なのか?婿養子は、財産を相続する権利はあるが、同時に、負債も相続する義務も負う。 きのうの話だと、財産を継いでほしいから、ということだったけど、この記事が本当なら、財産どころじゃくなくて、負債だらけなのか?でも、そんなの僕、払えないよ。財産なんてないし。いろいろと、疑心暗鬼になってしまった。

 まずは、みわちゃんに真意を聞いてみよう。記事が世の中に出たわけだから、聞いてみてもいいだろう。僕はそう思って、スマホに手を伸ばした。

 すると、逆に、スマホが鳴った。

 みわちゃんか。そう思って、スマホを手に取ると、知らない電話番号だった。誰だろう。僕は電話に出た。

 すると、少し甘く、ややかすれた声がはっきりと聞こえた。

「もしもし」


 それは、佳子さんだった。

「え、佳子さん!?」

 僕はびっくりして大きな声を出してしまい、食堂にいた人がみんな振り返ってしまった。

「あ、あの、あの、ちょ、ちょっと待ってください、このまま」

 僕はあわてて声を潜めて食堂を駆け足で出た。

「今、話せるかな」

 落ち着いた声で佳子さんが聞いてきた。

「あ、はい」

「ごめんね、平日の昼間に」

「いえ、そんな」

「きのうは、ありがとう」

「いえ、あの、僕の方こそ、とっても、楽しくて」

「うふ、よかった」

「はい」

「あのね、ちょっと今日、話がしたいの」

「ええっ」

「無理かな」

「今日ですか?」

「そう。今日、話がしたいの」

「うーん、あの、今日はちょっと無理です」

「そうなの」

「はい」

 僕がそう言うと、佳子さんは、あまりにもとんでもないことを、平淡な口調で言った。


「無理なのはね、みわちゃんのことが、あったからでしょ」

「え!」

 佳子さんの口から「みわちゃん」という言葉が出た。僕は倒れそうだった。なんで、知っているんですか。なんで「みわちゃん」って言うんですか。どうして、どうして、佳子さんが言うんですか。

 すると、佳子さんはさらに淡々と続けた。

「もう新聞やテレビに出てるよ。みわちゃんのお父さんの会社のこと。」

「えーっ!」

 そこまで知っているんですか。でも、なんで知っているんですか。たくさんの疑問が湧いた。まず、みわちゃんに聞かないと、と思った。でも、それと同時に、みわちゃんには悪いけど、僕の直感で、佳子さんの方が正しいことをきちんと話してくれそうな気がした。みわちゃんは、僕に何かを隠しているような気がしたからだった。

 僕は、佳子さんに、電話越しに頭を下げた。

「佳子さん、じゃあ、あの、今夜、会っていただけますか」

「今夜?」

「はい。今夜仕事が終わったら」

「何言ってるの。急ぐでしょ」

「あ、はい」

「じゃあ、今すぐね。善は急げだから」

「え、あの、今すぐって」

「どういうことになっているか、今すぐに知らなくていいの?」

「いえ、あの、そ、それは困ります」

「じゃあ、今すぐね」

 僕はこの後の仕事をどうしようか迷ったが、僕の選択の余地は、もうなかった。

「わ、わかりました」

「じゃ、今すぐ来て」

「あの、佳子さん、今、どこにいるんですか」

「まだ峠の上よ。だって、手伝っているんだもん」

「ええ、箱根?」

「そう。今すぐ来て。今すぐよ」

「わ、わかりました。今すぐ、支度します。」

 僕は風邪をひいても、他人に仕事を頼むのは極力しない。だってめんどくさいから。頼むのもめんどくさいし、仕事の内容を説明するのもめんどくさい。

 でも、きょうはめんどくさいなんて言っている場合ではなくなってしまった。先輩や後輩に「急用ができた」ということを、思い切って話した。僕が急に仕事をとりやめるなんて、父が亡くなったとき以来だ。僕は急用の理由をあれこれ聞かれるかと思ってひやひやしたが、意外なことに、急用の理由は誰にも聞かれなかった。こんなもんなのだろうか。いや、僕は普段余計な心配をしているということなのか。

 しかし、よく考えたら、逆の立場になって、僕が「急用があるから」と言われたら、何も聞かずに仕事を代わっていただろう。だって、他人が聞いてはいけない理由なのかもしれないから。それと同じか。

 ああ、僕はなんで自分を他人の立場に置き換えて考えることが出来ないんだろう。四十歳にもなって。情けない。

 ただ、何はともあれ、仕事の引き継ぎはできたので、僕は急いで坂の上テレビを出て、新宿駅に向かった。

 新宿駅では、ロマンスカーの切符売り場に行く時間も惜しかったので、僕はICカードで改札を通り、ホームにあるロマンスカーの自動券売機で指定券を買い、五分後に発車するブルーのロマンスカーに駆け込んだ。

 箱根から帰ってきた翌日に、また箱根に行くなんて、もちろん初めてだ。箱根駅伝復路の翌日に、また往路があるなんて、普通は誰も考えない。でも、佳子さんと再会してからは、こうした考えられないことに、よく出会っている。佳子さんは、つくづく不思議なことを引き寄せる人だと思った。 

 ブルーのロマンスカーは、平日昼のけだるい雰囲気を載せて、走り始めた。乗客はまばらだった。懐かしい代々木の予備校の付近は一瞬で通り過ぎた。自動音声の無機質な車内放送が始まった。

「停車駅は、新百合ヶ丘、相模大野、本厚木、秦野…」

 うわ、ずいぶん途中の駅にたくさん止まるロマンスカーだなあ。今急いでいるのに。急いでいるときに限って、よく止まる電車に乗ってしまう。僕は少しいらいらしていた。それは、今すぐ佳子さんに会いたいのに、時間がかかりそうだということと、佳子さんとみわちゃんの関係や、今何が起きているかの全体像がわからないという多重のマイナスからくるものだった。

 でも、いらいらしても仕方ない。いらいらして解決するものだったら、いくらでもいらいらするけど、いらいらしていたら、かえって解決の邪魔になるからやめる。僕は予報士を十五年近くやってきて、いらいらが予報の邪魔になるということを知り、何年か前から、いらいらするのを論理的にやめてきた。

 しかし、きょうという日は、さすがにその論理を突き通すのは難しかった。僕は少し感情的になっていた。苦しいよ。これは。佳子さんへの恋心で苦しいのとは、全然違う。

 やっぱり、世の中はマイナスの苦しさに満ち溢れているんだな。ああ、プラスの苦しさだけならいいのに。僕はそんな仕方のないことを考え続けていた。

 ふと、窓の外を見た。ロマンスカーは新百合ヶ丘に到着するところだった。進行方向に向かって右の窓側に座っていた僕は、ちらりとロマンスカーが入るホームの隣のホームを見た。支線の多摩線のホームだった。僕は高校時代、多摩に住んでいたので、代々木の予備校からの帰り道は、この新百合ヶ丘で、多摩線の各駅停車に乗り換えていた。当時と同じように、新百合ヶ丘始発の多摩線の各駅停車が、ホームでドアを開けっぱなしにして、静かに待機していた。ドアの中の人は、まばらだった。さすが多摩線。人が少ない。

「あっ」

 その様子を見て、僕は急に記憶がよみがえった。


 僕が代々木の予備校に通っていた高校三年の夏のことだった。 僕はその日の夜、夏期講習を終えて、新百合ヶ丘で始発の多摩線の各駅停車に乗り換え、出発を待っていた。出発まで少し間があったので、携帯ラジオをつけた。当時僕はヘッドホンステレオなどという、しゃれたものは持っていなかった。当然スマホはない。ラジオだけが、僕の頼りだった。野球も音楽も好きなので、ラジオがあれば、当時は生きていけた。その日も、プロ野球巨人戦のナイトゲームの中継を聞こうと、ラジオをつけた。すると、手が滑って、普段使わないテレビの音声を聞くモードに変えてしまった。一チャンネル、NHKの総合テレビが入った。すぐに元に戻そうとしたが、鈴木健二アナウンサーの声が聞こえた。僕は中学生のとき、鈴木さんのベストセラーになった本を読んで面白いと思ったので、鈴木さんが何をしゃべっているのかが、気になった。

「小学生にも人気があったのですか、あの番組は」

 何のことだろう、と思っていたら、今度は若い女優さんが

「そうなんです…それでは、みなさんに歌っていただきましょう。番組でよく歌われました懐かしい歌です。涙をこえて!」

と言ったので、僕は驚いた。

「え、涙をこえて!?」

 僕は中学一年のときに、隣のクラスの合唱曲として「涙をこえて」に出会い衝撃を受けたけれど、僕の実家はかなりの田舎で、レコード屋も遠かった。だから、「涙をこえて」をレコード屋で捜すことはなかった。僕の知っている「涙をこえて」は、田舎の中学生の下手くそな声の塊に過ぎなかった。その歌をこれから歌手が歌う。本物の「涙をこえて」が聞ける。高校生の僕は、突然の幸運に驚いていた。

 僕は耳を澄ませた。快活で滑舌のよい澄んだコーラスと、ソフトロックの活気ある演奏に惹かれた。最後の「アーッ」「アーッ」「アーッ」というコーラスのところでは、鳥肌が立った。そうか、「涙をこえて」って、本当はこんな曲だったのか。

 中一のとき出会ってから、五年経っても、ようやく本物の「涙をこえて」に出会えた。そうか、この歌、本当はロックだったんだ。僕はうれしく、巨人戦のことはもうすっかり忘れていた。その後もこの番組をラジオで聴き続けたところ、NHKの「第二十五回思い出のメロディー」だということがわかった。

 家に帰ると、たまたま父親がビデオにこの番組を録画していたので、僕はそのビデオの「涙をこえて」の部分を再生して、ラジカセでカセットに録音し、勉強の合間に、カセットが擦り切れるくらい聞いた。このカセットと、それから何と言っても佳子さんの存在が励みになり、僕は、あまりにも長時間の受験勉強、そして母親を突然亡くしたさみしさを、乗り越えることができた。もし、この多摩線のさみしい電車の中で本物の「涙をこえて」に出会っていなかったら、僕は一体、どんな人生を送っていたのだろう。

 こんなに大きな思い出をいつの間にか忘れていたのも不思議だが、新百合ヶ丘のホームと多摩線の各駅停車を見て、急に思い出がよみがえったのも、また不思議だ。人間の記憶は、やはりどこかにすべて眠っていて、きっかけの連鎖で突然思い起こされるされるものなのか。不思議だ。そして、自分の人生の節目節目に「涙をこえて」が何度も出てくるのは、もっと不思議だ。


 そう言えば、以前、坂の上テレビの先輩に言われたことがある。

「石井、いいか。人間ってのは、縁がある人やものにはとことん縁があるんだ。転勤や転職をしても、縁のある人には何度でも出会う。逆に、縁のない人には、同期であっても、一生会わない。だから、縁のある人とは、絶対に決定的な喧嘩をしちゃダメだ。仮に、何年も会っていないとしても、安心はできんぞ。縁のある人とは、簡単に切れないから、何年か経った後に、急にまた出会うことがある。ものもそうだ。縁があるものは、どこでまたひょっこり出てくる。不思議だよなあ」 

 僕の場合で言うと、佳子さんは、間違いなく縁のある人だ。もう、二度と会えないと思い、心のどこにもいないと思って、ものすごく長い間何も思わずに過ごしていたのに、彗星のようにニアミスを繰り返した結果、ついに衝突し、今では僕の心の大部分を占めるまでになっている。

 そして、「涙をこえて」にも縁がある。もうずっと忘れていたのに、去年急に僕の前で返り咲き、そして、佳子さんとの再会で、さらにこの歌との縁は増幅され、佳子さんの家族ともこの歌は縁があることも知り、忘れていた僕の高校三年の夏の思い出まで引っ張り出された。

 思えば、「涙をこえて」の「なくした過去に泣くよりは」という歌詞は、ついこの間までの僕の中では「なくした佳子かこに泣くよりは」という意味を持っていた。しかし、佳子さんは、二十三年の時を超え、「涙をこえて」と共に戻ってきてくれた。そして今、これ以上ない縁を感じさせてくれている。

 縁のある人、縁のあるものの力って、とんでもないんだな。縁のある人とものが融合すると、さらにとんでもないんだな。

 僕は、二十代三十代のうちはまったくこんなことに気づかなかった。四十代になって、縁の不思議さや、人間の出会いの奥深さ、そして歌のもつ力に圧倒されている。それは、スマホばかりの世界にはない世界だ。僕は今まで、こういう大事な縁とか思い出とかを、無視して生きてきたのではないか。スマホという便利屋が、僕を縁や思い出がなくても暮らせるような錯覚に陥れたのかもしれない。もちろん、スマホにはものすごく世話になっている。でも、世話になっているからと言って、それだけを頼るのはよくない。

 それに、スマホ以外の世界を無視するのは、もっとよくない。世の中は、地層のような積み重ねで成立している。スマホは確かにその一番上の目立つ層で存在感を発揮しているけれど、それより下にある、縁や思い出は、正に縁の下の力持ちとなって、今の自分や世の中を支えてくれている。しかも、ずっと黙りながら。僕はその寡黙さに甘えているのに過ぎない。そんな構造に、僕は初めて気がついた。

「僕は、まだまだなんだ」

 ブルーのロマンスカーは、すでに本厚木に近づいていた。僕は打ちのめされたような気がしていた。そういえば、おとといの往路のロマンスカーで佳子さんが鼻歌を歌っていたな。あれも、ひょっとしたら、「涙をこえて」なのかもしれない。サビの部分だけ、かいつまんだようなハーモニーだった。

「タン、タン、タン、タン、タンタ、タンタタン」

 たぶん、そうだ。つながるなあ。いや、今までもひょっとしたら、こういうつながりのある世界は、実はどこかで展開されていたのかもしれない。でも、僕はこうした有機的なつながりに目を遣るよりも、自分の世界に浸れるスマホに逃げ込んでいたような気がする。生きるためのヒントは、他人の中にこそあるのに、僕はその他人から目を逸らし、スマホの中に逃げ込んでいたのではないか。僕は自分のここ数年の生き方を、恥じた。

 そして、早く佳子さんに会いたくなった。それは、自分の欠けているものを教えてくれる師匠に会いに行くような感覚だった。でも、あんなにかわいい師匠がいるのか。それでも現実は、僕よりはるかに佳子さんの方が人間的に上なので、現実に従うしかないと思った。


 箱根湯本からバスに乗って、峠の上に着いたのは、すでに午後三時に近かった。山の夕暮れは早く、もうなんとなく日が傾き始めているような気がした。僕は急ぎ足で坂道を駆け上がり、ホテルに向かった。

 ホテルに着くと、番頭さんらしき人が迎えに出てくれていた。きっと、佳子さんが差し向けてくれたのだろう。

「どうも、ようこそいらっしゃいました」

「いえ、あの、すみません。わざわざ表に」

「いえいえ、いいんですよ。お嬢様がお待ちですので、どうぞ」

 僕は番頭さんに案内されて、ホテルのロビーに入った。ロビーのソファーに、佳子さんは座って待っていた。

 今日の佳子さんは、仲居さんと同じような和服だった。白っぽい柔らかな地に紅梅があしらわれた、早春の雰囲気が漂う和服だった。佳子さんの和服姿を見るのは、初めてだ。髪は硫黄泉に入った後と同じようにアップにしてあり、和服の雰囲気と合わせるようにしていた。なんでもないときだったら、「きれいだ」「かわいい」と素直に思えていただろう。佳子さんの新たな魅力に、胸を躍らせていただろう。でも、今はそんな余裕は僕にはなかった。

「佳子さん」

「あ、おつかれ」

「あの、僕」

「あ、話は中に入ってからしようね」

 佳子さんはそう言って、あわてる僕を制した。そして、佳子さんは、仲居さんに目配せをして、僕を奥の洋間に案内した。

 洋間に入ると、仲居さんはお茶やお菓子をまったく出さずに、下がった。おそらく、佳子さんにすぐに下がるように言われているのだろう。僕はひとつ、大きく息をついた。

「あの、僕」

「びっくりしたでしょ?」

 佳子さんは、僕が「びっくりしました」とか「驚きました」というより先に口を挟んだ。僕は、うなずくしかなかった。

「あ、はい。そうです。」

「ほらまた敬語」

 こんな場面でも、佳子さんの突っ込みは健在だ。佳子さんは、そっと僕の耳に顔を近づけ、小声で話した。

「ここにきたら、彼氏のふりをしてくれないと、あたし困るの」

「ええ、昨日の話、まだ続いてるんですか」

「当たり前でしょ。じじが来たら、どうするの?」

「そっか」

 確かに、昨日と一昨日の二日間、じじに、彼氏ができましたという前提で話をしているわけだから、急に敬語に戻ったら、おかしいと思われるはずだ。

「そ、そだね」

「じゃ、またワンコちゃんね」

 僕は、佳子さんの狛犬に一日で復帰することになった。こんな状況でなければ、またワンコに復帰できてうれしい、と思うところだが、今はそれどころではない。

「あの、佳子さん」

「なあに、ワンコちゃん」

「なんで、みわちゃんのこと、知ってたの?」

 僕は、全体像を早く知りたかったので、いきなり直球を投げた。佳子さんは、何も表情を変えずに、言った。

「みわちゃんはね、あたしの教室の生徒さんなの」

「ええっ!」

 そんなこと、聞いたことないよ。

「え、でも、みわちゃんがダンスを習っているなんて、聞いたことないなあ」

「ダンスじゃないわよ、ヨガ」

「え、佳子さん、ヨガも教えているの?」

「そうよ。ワンコちゃんにロマンスカーの中で言わなかったっけ?」

「うーん、覚えてないなあ」

佳子さんは少し笑った。

「ま、とにかく、みわちゃんはだいぶ前からあたしの生徒なわけよ」

「それって、いつごろから?」

「もう、だいぶ前よ。四年くらい前かなあ」

 四年前というと、僕はまだみわちゃんと付き合っていないころだ。坂の上テレビの近くでヨガを教えているところを探していたら、佳子さんの教室が見つかった、ということなのだろう。

「わりと前だね」

「うん。あたしがダンスとかヨガとか教え始めたときに入ってきた生徒さんなの」

「へえー、そうなんだ」

「そう。だから、あたしもみわちゃんには結構思い入れがあって、わりと気も合ってたから、わりと早い時期から、レッスンが終わった後、一緒に飲みに行ったりして、いろんな話をしていたのよね」

「あ、じゃあプライベートな話もしてたの?」

「そう。ちょうど彼女が前の旦那さんと別れる、別れないみたいな話をしているときだったから、相談に乗ってほしかったんだと思うな」

 佳子さんは、みわちゃんの離婚の話も、僕よりだいぶ前に聞いていたわけか。

「で、佳子さんに相談したけど、別れたんだ」

「そう。でもね、彼女かわいそうだった。十歳も年上の女に浮気されて、離婚なんてね」

 これは、みわちゃんから先日聞いた話とぴったり符合する。でも、あの佳子さんの口から「浮気」「離婚」なんて言葉が出てくるなんて、想像できなかったので、僕は少し驚いていた。

「僕も、その話、聞いたよ」

「ああ、ワンコちゃんに言ったんだ。ま、普通言うよね。大事なことだから。」

 いや、聞いたのはつい先日で、つきあってから一年三か月も僕は知らなかった、と言おうと思ったけど、最近まで知らなかったことが恥ずかしくて、割愛した。

「じゃあ、そのあと僕と付き合いだしたときも、話を聞いていたんだ」

「ううん」

 佳子さんは意外な返事をした。ひょっとして、佳子さんは、僕とみわちゃんがつきあっていることを知らなかったのか?

「付き合いだす前から、ワンコちゃんの話、聞いてたの」

「え?どういうこと?」

「みわちゃんね、今度は絶対に失敗したくないから、失敗しない男を選ぶって言っていたんだよね。そしたら、石井さんって人が見つかったって、言いにきたの。で、いろいろ話を聞いてみたら、どうも、予備校で会った、あの石井くんかもって気がしてきたのよね」 

「それで、どうしたの?」

「まず歳を聞いて、風貌を聞いて、それから、性格を聞いて、いろいろ根掘り葉掘り、みわちゃんに聞いたの。で、そのたびに、ああ、あの石井くんなんだなって、段々と確信したのよね」

「それで?」

「もちろん、昔、石井くんのこと好きだったことはあるけど、今はもう時代が違うし、それに、石井くんも若い女の子の方がいいんじゃないかなって思ってたから、あたしの出る幕じゃないなって思って」

 ええ。佳子さん、そこは佳子さんの出る幕ですよ。どうしてみわちゃんから僕を奪おうとしなかったんですか。僕はもう少しでこれらの言葉が口から飛び出してしまいそうだった。しかし、飛び出す前に、佳子さんがまた新たな話を繰り出した。

「でもね、しばらく経って、これってよくないって、あたし思い始めたの」

「なんで?」

「だってね」

 佳子さんはそう言うと、一息ついて、洋間の庭に面した大きな窓に向かった。その後姿には、一昨日の夜、ビールを飲んだ後に見た、言い知れぬ大人びた雰囲気が漂っていた。僕は急に緊張した。

「みわちゃんは、ワンコちゃんじゃなくて、ワンコちゃんの財産を見ていることが、だんだんわかってきたのよ」

 え?あの、佳子さん、僕、財産なんて、ないですよ。何を言っているんですか。父親はしがない薬屋さんだったし。父が亡くなってからも、もらった財産なんて、ないよ。実家ももう処分しちゃったし。僕がそう言おうとすると、佳子さんは僕を鋭い視線でちらりと見た。そして、また僕より先に口を開いた。

「あ、知らないんだ。やっぱり。根本的なこと」

 その一言で、僕は、言い知れぬ不安の淵に、突き落とされた。僕は、吐き気がしそうだった。

「あの、な、何が」

「えっとね」

「う、うん」

「坂の上テレビに、副社長さんがいるでしょ」

「うん。あの、土地とか、社内資産を管理してる人、がいるね」

「そう。その人はね」

 佳子さんは一回息を吸った。僕は、息が止まった。

「ワンコちゃんの、お兄さんなんだよ」

「ええ?」

 あのう、僕、兄弟はいないんですけど、そう言おうとすると、佳子さんはまた機先を制した。

「あたしが言うのも何なんだけど、ワンコちゃんは、大変残念なんだけど、亡くなったご両親の子じゃ、ないのよね」 

 佳子さんは、あまりにも衝撃的なことを言った。僕の父と母は、父や母じゃなかったってこと?それって、あまりにも歴史を覆しすぎじゃないか?僕は何を言っていいのか、わからなかった。

「ワンコちゃんは、実は、代々、坂の上テレビの社長をしている家に生まれたのよね。でも、当時の坂の上グループはお家騒動がひどくて、ワンコちゃんの二つ年上のお兄さんが継ぐのか、ワンコちゃんが継ぐのかをネタに上層部がもめてね。ワンコちゃんの本当のお父さんが争いをやめさせるために、ワンコちゃんを赤ちゃんのときに養子に出したの」

「よ、養子」

「そう。当時、坂の上の若手だったワンコちゃんの本当のお父さんが親しくしていた薬屋さんの夫婦になかなか子供ができなくて、そこに預かってもらう、ということになったのよね。それがワンコちゃんというわけ」

「え、じゃあ僕は家を出されたってこと?」

「うん。残念ながら、そういうことね」

「そ、それで?」

「でもね、社長さんは、お家騒動に巻き込まれたワンコちゃんが不憫で、家からは出したんだけど、財産だけは譲ってあげたいと思って、遺言に、自分が死んだらワンコちゃんにも財産を渡すって書いてあるんだって」

「ええっ!」

 早稲田の法律の授業で習ったが、確かに、妻や子への相続とは別に「遺贈」と言って、第三者に財産を無償で与えることができる制度がある。おそらく、佳子さんの話は、この遺贈のことを言っているのだろう。

 しかし、それにしても。僕が坂の上テレビの社長の息子?財産? 亡くなった父や母は、実は他人?僕は想像を絶する話が続いていて、吐き気を通り越して、もう倒れそうだった。

 でも、佳子さんがあまりにも淡々と話すので、僕はなんとかついていくことにした。

「でも、なんで佳子さんがこんなに詳しく知ってるの?」

「みわちゃんが、詳しく教えてくれたのよ」

「みわちゃんが?」 

「そう。みわちゃん、受付をやってて、役員室とか、秘書室とかよく行っているから、そこで流れていた噂をつかんでいたのね。それで、言い方は悪いけど、ワンコちゃんだったら、財産も将来もらえそうだし、悪い人でもなさそうだから、ターゲットに絞った、というわけ。ターゲットって言うと、ちょっと変だけど。ごめんね、言い方が悪くて」

 ターゲットに絞った。僕は、みわちゃんの存在が、急に遠くなったような気がした。

「もちろん、みわちゃんだって、最初は悪気があってそんなことをしたんじゃないと思うよ」

「そうなの?」

「うん、だって、もう二度と結婚で失敗したくないから、財産的にも、性格的にも間違いのない人にしたいって言うのは、女だったら、やっぱり考えるのよね。まして、みわちゃんの家は不動産関係だから、土地の値段とかで不安定になることがあるわけでしょ。そしたら、財産のない人よりある人の方がいいじゃない」

 そういうもんなのか。

「でもね、みわちゃんはワンコちゃんと付き合い始めてしばらくしたら、ちょっとおかしくなって、財産の話ばかり、あたしにしてくるようになったのよね」

「え、なんで」

「あたしに調べてほしかったんでしょ。もらえる財産規模がどれくらいとか」

「でも、佳子さん、そんなことできるの?」

「簡単よ。だって大王子観光は、坂の上テレビの番組のスポンサーをかなりやってるからね。いつもうちは坂の上テレビの役員さんと交流があって、みわちゃんも、あたしの家が大王子観光だって誰かに聞いたみたいで知ってて、それで何か情報がないかって聞いてくるようになったの」

みわちゃん、佳子さんにそんなことしてたんだ。

「で、佳子さんはどうしたの?」

「もちろん、答えなかったわ」

佳子さんは、眉を右上に上げ、きっとこちらを見た。

「あたし、誰かの力を借りるのは反対じゃないけど、その前にまずワンコちゃんに、自分がどういうつもりでいるのかとか、つまびらかにすべきじゃないかって、思うの。それに、ワンコちゃんが坂の上の社長の息子だってこと、自分は知っているのに、ワンコちゃんには知らせずにいるわけでしょ。もちろん、こんな重い話を簡単には説明できないから、説明しなかったっていうことなのかもしれないけどね。でもね、核心部分がズレたままの男女って、絶対そのうち大きくズレて、決定的にうまくいかなくなるわ。みわちゃんは、それをズラしたまま、なんだかごまかそうとして過ごそうとしていたから、あたし、だんだん許せなくなってきたの。それに、大事な人に、核心をきちんと打ち明けられないって、あたし、間違っていると思うの!」

 佳子さんの口調は、熱を帯びた。

「そ、それで」

「もうこれは、あたしがワンコちゃんにほんとのことを言ってあげなきゃ、ってね、去年ぐらいから思っていたのよね。でも、あたしもやっぱりみわちゃんに遠慮があって、なかなか踏み切れなかったのよ。そしたら、今年に入ってすぐ、偶然、ワンコちゃんの手帳をバスで拾ったの。ああ、これで始まったんだなって、思って。でも、最初から、みわちゃんに邪魔されたら困るから、みわちゃんがヨガの新年会に行ってて確実に家にいない日に、あたし、新年会を早めに失礼して、ワンコちゃんに電話したのね。」

 あの電話には、そんな背景があったのか。みわちゃんがいないのを見計らってかけてきたのか。ものすごい話だ。

「ええ、でもそしたら、なんであんなにまだるっこしい展開にしたの?最初の電話から、言ってくれればよかったのに」

「最初から言うのは、さすがにためらわれたのよ。だって、あたしとワンコちゃん、二十三年も離れていたじゃない。いきなりすごい話をしても、うまくいかないって思ったから、だから、場面を作って作って、少しずつ少しずつ近づいて、だんだん違和感がなくなるようにしたかったの」

「え、それでロールプレイングゲームみたいなことになったの?」

「そう。もちろん、何か危ないことになったら、すぐやめて全部お話しするつもりだったけどね。幸い、昨日までは危ない展開にならなかったから、そのままにしてたの」

「え、じゃあ、みわちゃんのお父さんの会社が危ないとわかったのは、いつ?」

「危ないとわかったのは、もうだいぶ前ね。でも、危ないということが世の中に出るとわかったのは、昨日の朝よ」「え、昨日の朝?」

「そう。朝ごはんを食べ終わったところで、仲居さんから耳打ちが入ったの。サンガの件、明日、新聞に出ることになりましたって」

 そう言えば、確かに、昨日朝食を食べ終え、スリッパを履こうとしたところで、仲居さんが佳子さんに寄り添っていたな。あれは、佳子さんの吐き気に配慮して、じゃなくて、佳子さんに情報を突っ込むため、だったのか。スパイみたいだな、大王子観光。

 だから、情報が入った佳子さんは、すぐに僕に解散を命じた。サンガが危ない話が世の中に出るんだから、みわちゃんが何か話をするはず。早く帰って、まずはみわちゃんに会ってきなさい。そういう意味だったのか。

 僕は、佳子さんが僕が思いも寄らない視点から僕のことを気遣ってくれていたことを知り、驚くと同時に、深い感謝を覚えた。

「そうだったんだ…」

「そう。でも、みわちゃんからは今に至るまで、ワンコちゃんに自分が本当に考えていることを話した雰囲気はなかったし、このままワンコちゃんがみわちゃんに押し切られたら、ワンコちゃんが本当に不憫になると思うの」

 そう言うと、佳子さんは僕の目を見た。

「だから、今日、ついに直接、手を出しました」

 僕には、返す言葉が見つからなかった。今の気持ちを言うのが、精いっぱいだった。

「いや、ほんとにびっくりだよ」

「ごめんね。本来であれば、あたしなんかから話すことじゃないけど」

「ううん。教えてくれて、本当にありがとう。それに、今、ショックだけど、いつかは知らないといけないことだったと思うし」

「うん」

「じゃあ、これから、みわちゃんに、話、するよ」

「うん」

「がんばって」

 昨日も佳子さんは別れ際に「がんばって」と言ってくれた。僕はそのとき、漠然と「仕事をがんばって」くらいのエールだったと思っていたが、それはまったく違って、近いうちにこういう展開になることを察知してのエールだったのだろう。そして、それは実際にそうなった。今日は明確に「みわちゃんとの話、がんばって」というエールだ。

 僕はもう一度「うん」と答えて、立ち上がり、ホテルの玄関に向かった。

 玄関にはすでに、ホテルのワンボックスカーが用意されていた。これも、佳子さんが用意してくれたものだろう。

「また車を用意してくれたの?ありがとう」

「急ぐでしょ」

「うん」

「がんばって」

「ありがとう、本当に、ありがとう」

 僕は、佳子さんに頭を下げると、車に乗り込ませてもらった。乗り込むと、車は勢いよく発進した。

「ありがとー」

 辺りは、もう薄暗かった。しかし僕は、見送ってくれる佳子さんの顔を、見えなくなるまで、見つめていた。

 すると、車の中で、僕はふいに涙をこぼしてしまった。この世は、あまりにも知らないことばかりで、僕は、打ちのめされてばかりだ。知らなかった事実の大きさと重さにただ茫然とすると同時に、今までの自分は何だったのだろうという思いがあふれ、涙を流してしまったような気がした。

「石井さま」

 暗くなった前方の席から、運転手の男性の声がした。聞き覚えのある声だった。

「お目にかかりました、湯守でございます」

 ああ、一昨日、露天風呂に来てくれた湯守さんだ。運転手も兼ねているのか。

「騒動に巻き込まれていると、伺っております」

 もう湯守さんも知っているのか。ふと、湯守さんがおととい露天風呂で言っていたことを思い出した。

「いえ、あの、この間湯守さんがおっしゃっていたとおり、佳子さん、ほんとに見かけによらず、すごい人だなって、思いました」

「そうでございますね。どうしたら、あのようにいろいろできるのか、いつも感服しております」

「そうなんですか」

「はい。今回の石井さまの件では特に、気持ちが入られているようです。これは、大事な物語だから、と私も伺っております」

「も、物語?」

「はい。私どもも、物語と言うのが、いったい何を指しているのかはわかりませんけれども…石井さまの件で、物語と、おっしゃっていました」

「そうなんですか」

「はい。ただ…ひとつわかっていることがございます」

「何ですか?」

「涙をこえて行け、ということです」

「涙をこえて行け?」

「はい。ご存知かと思いますが、お嬢様は、先代、つまりお嬢様のお父様から常々『涙をこえて』を聞かされてお育ちになりました。そして、何か難しいことがあったときは、いつも、『歌と同じだ。涙をこえて行け』と言われていたそうでございます。今回も、石井さまがこちらに来られる前にぽつりと『涙をこえて行け、ね』と独り言をおっしゃっていました」

 そうなのか。「涙をこえて行け」か。僕は、こぼした涙をふいた。

「わかりました。がんばります」

 僕が湯守さんにそう伝えると、湯守さんは暗闇の中でゆっくりとうなずいた。

「ご武運、お祈りしております」

 湯守さんは、力強く、そう言ってくれた。

 車はすっかり暮れた箱根山中の暗闇の中を飛ぶように走り、あっという間に箱根湯本の駅に着いた。駅の明かりがまぶしいくらいだった。僕は湯守さんに丁寧に礼を言うと、急いで切符を買って、ホームに向かった。

 ホームで待っていたロマンスカーは、数あるラインナップの中で一番古い、赤いロマンスカーだった。まだこのロマンスカー、走っていたのか。僕は少し驚いた。僕が小学二年生のとき母親と一緒に乗ったあの思い出のロマンスカーは、この型だ。僕は箱根によく行くけど、この型のロマンスカーはもうあまり数がないからか、大人になってからは乗ったことがなかった。

 車内に入ると、車端の壁に「ブルーリボン賞 一九八一 鉄道友の会」という丸いエンブレムが飾ってあった。一九八一年は、昭和五十六年。まさに昭和のロマンスカーだ。平成も三十年になろうとしているのに、昭和のロマンスカーに乗れる。僕はなつかしさを胸に、着席した。

 ああ、子供のときと同じ風景だ。もちろん、当時とは違い、車体は汚れ、華やかなお姉さんがよそで淹れたオレンジジュースを持ってきてくれることもない。しかし、昭和の雰囲気を味わうには十分だった。僕はその雰囲気を味わいながら、いろいろなことを思い出していた。

 

 僕の母親が、祖母に常に強い負い目を感じているように見えたのは、子供が産めずに、僕を養子に迎え入れたからに、違いない。ようやく母と祖母の関係のなぞが解けた。母が祖母のご機嫌を伺っていたのも、時に悔し涙を流していたのも、きっとそこにつながっているのだろう。ひょっとしたら、母が若くして突然亡くなったことと身ごもれなかったことに、何か関係はあるのか。これは、わからない。 

 そう言えば、佳子さんに母親の話をしたときに

「お母さん、きっと、すごく苦労してたんだと思うよ。生きてたら、よかったのにね。」

と言って、目に涙を浮かべていたのは、全体像を知っている佳子さんが、養子を迎え入れた僕の母の立場を慮ったからだろう。

 ここで僕はふと気づいた。 僕の本当の母親って、誰なんだろう。坂の上テレビの、あの禿げ上がった頭の社長が実の父だというのもなんだかしっくりこないが、社長の奥さん、つまり僕の産みの母であろう人というのは、見たことがない。ぜひ一度、産みの母に会ってみたい。僕のお母さんは、どこにいるのか?ひょっとして、佳子さんと同じように、突然どこからか復活してくれるのか?

 また、僕は地方のテレビ局を渡り歩いて気象予報士をしていたけれど、名古屋のしゃちほこテレビにいたとき、キー局である坂の上テレビの人から突然職場に電話が入り、

「名古屋での活躍、この間出張した時に拝見しました。ちょっと東京に来て、いろいろ見てみませんか」

と誘われたのが、東京に帰るきっかけだった。ひょっとしたら、実の父か母か兄か、誰かが僕を呼んでくれたのか。僕は高校生のときに母親を、しゃちほこテレビにいるときに父親を亡くして、一人になった。養父母が両方ともいなくなったというタイミングで、それを知った坂の上テレビが僕に声をかけてきたのかもしれない。

 次に、みわちゃんの件か。

 みわちゃんは、本当に、佳子さんが言っていたようなことを考えていたのか。うそであってほしい。でも、どうやら佳子さんの話にうそはない、という感じが僕にはしていた。だとすると、みわちゃんは、僕の実の父、つまり坂の上テレビの社長の財産目当てに僕に近づいてきたということか。

 確かに、みわちゃんとの出会いはやや不自然だった。受付から偉いお客さんを現場に案内してきたみわちゃんが、いっぱい僕に視線をくれたのが始まりだったが、別に僕になんか挨拶しなくていい上に、わざわざLINEのIDを手書きした名刺をくれて、連絡してほしい感じがありありとしていた。初対面の男性に、いきなりLINEのIDを書いた名刺を渡したりする子もいるんだ、くらいに思っていたけど、それくらい無理して近づきたかったということか。

 よく考えたら無理はもうひとつあって、IDをもらった翌日、僕が結構遅い時間に、坂の上テレビの玄関を出ようとしたところ、突然みわちゃんが物陰から現われ、「あら、偶然ですね」と言われて、しばらく一緒に歩いて、ぜひLINEでメッセージを送ってほしいと言われた。僕はあまりLINEに慣れていなかったけど、みわちゃんが絶対楽しいから、と言って勧めてくれたのでしぶしぶ始めた。 

 そこから、みわちゃんに会う約束をした。会ってからもみわちゃんは積極的で、すべてみわちゃんが先攻で、僕たちはあっという間につきあうことになった。同棲も、彼女が転がり込んできたようなものだ。

 そうした節目のたびに僕は「ああ、みわちゃんって、変わってるなあ」「なんでこんなつきまとってくるんだろうなあ」くらいしか思っていなかったが、どうしても僕とくっつきたい事情があった、と考えれば、こうした行動もうなずける。みわちゃんはモテモテで、いろいろな男、つまり僕よりいい男たちに言い寄られているにもかかわらず、僕に近づいてきたわけだから、よく考えたら、おかしいはずだ。

 今の今まで、あまりこうした点を気にしなかった僕はおめでたい人間だ。いや、単にめんどくさかっただけだと思う。めんどくさくなく、つきあえるんだったら、多少変でもいいや、となんとなく思っていたのだろう。

 女性にアプローチして、好みを考えてデートの場所を選定して、話を重ねて、ご機嫌もうかがって、という対応を重ねるのは結構な手間だ。別にそんな手間をかけなくても今の世の中、楽しいことはいっぱいある。一人でも十分暮らせるような気がする。だから昔に比べて、男女交際をする人が減っているのだろう。

 昔は男女交際が大いなる娯楽であり、ほかに娯楽の選択肢も少なかったため、男女交際にみんな流れた。ところが、今はこんなめんどくさいことをしなくてもいい。もし、めんどくさくなく、できるんだったら男女交際してもいい。

 僕も、いつの間にか、そんな考え方になっていたのだろう。 そしてそこに現れたのが、便利なみわちゃんだったというわけか。みわちゃんは、便利な上に、かわいくて、若くて、男性を楽しませる要素をいくつも持っている。僕にとっては、ありがたい存在だった。

 つまり、僕もみわちゃんを利用していたということか。それなら、みわちゃんを一方的に責めることはできないな。

 僕がそんなことを考えていると、あっという間に、ロマンスカーは新宿に近づいていた。

 さあ、みわちゃんにどう言おうか。そして、何を聞こうか。僕の頭は、フル回転だった。


 午後六時半前。赤いロマンスカーは新宿駅に着いた。僕は、スマホのLINEを開き、みわちゃんに「ちょっと早いけど、帰るよ」とメッセージを送った。みわちゃんからの返信は、なかった。いつもだったら、仕事中であってもこっそり抜け出して、わりと早めに返信してくれるのに。

 僕は、新宿駅から歩いて自宅に向かった。しばらく歩いて、もう一度スマホを見たが、やはり返信はない。大丈夫だろうか。僕は少し不安になった。

 そうこうしているうちに、マンションに着いてしまった。部屋のドアを開けると、真っ暗だった。僕は電気をつけた。すると、白いニットのセーターと、たくさんプリーツのついた黄土色のスカートのまま、床に這いつくばるようにしている、みわちゃんがいた。僕は恐る恐る声をかけた。

「みわちゃん」

「どうしたの?」

「大丈夫?」

 返事はなかった。

 もう一度、名前を呼んだ。

「みわちゃん?」

「…うん」

 みわちゃんは、か細い声で返事をした。そして、もぞもぞと起き上がった。黄土色のスカートには、かなりシワがついていた。まるで、黄砂にまみれている感じがした。

「あの、僕」

「うん」

「新聞、見たよ」

「見たんだ」

「うん」

 僕がそう言うと、みわちゃんはそれをトリガーにしたかのように、二、三度、しゃっくりをするようにしたあと、「あーん」「あーん」と言いながら号泣を始めた。嗚咽ではなく、揚げていたタコが飛んで行ってしまったときの幼子のような号泣だった。

「みわちゃん」

「パパの会社、つぶれる」

「そんな」

「明日、警察の人が実家に来ることになったの」

「ええ」

 捜査の手が、みわちゃんのお父さんに及ぶということか。

「みわちゃん」

「もう、だめかも」

 そう言うと、鼻と涙で顔を乱したみわちゃんは、鼻をすすりながらこんな一言を言った。

「でも、私は石井さんがいるから大丈夫」

「僕がいるから?」

「そう」

「僕、何もできないよ」

「そんなことないよ、私のそばにいてくれるだけで、安心なの」

 みわちゃん、しおらしい。僕は少しうれしくなった。

 しかし、次の一言が強くひっかかった。

「だから、早く一緒になって。明日朝、婚姻届もってくるから。パパが警察に連れて行かれる前に、パパに見せたいの」

 ちょっと待ってよ。パパ基準かい。そりゃ、みわちゃんのお父さんは大変な状況だけど、でも、だからと言って、お父さんが警察に連れて行かれる前に婚姻届を見せたいって、それは変だろう。それは、カネの証文をとりましたよ、というのと同義ではないか。僕は所詮、証文野郎なのか。もっと言えば、僕がいなくても、カネの証文とカネがあれば、それでいいのではないか。 

 僕はこう考えたので、みわちゃんに、冷たい一言を言ってしまった。ドーンと、ストレートに。

「みわちゃん。申し訳ないけど、それは、間違っているよ」

「間違っている?」

 今まで哀願するような涙目をしていたみわちゃんが、急に僕をにらみつけた。今まで味方だったくせに、裏切りやがったな、というような目で。僕はますます不審を感じた。

「どうしてパパが警察に連れて行かれる前に、婚姻届を見せないといけないの?」

「それは、石井さんと私が愛し合っていることを形として見せたいためよ。愛があれば、何でも乗り越えられるから」

 みわちゃん、何てこと言うんだ。佳子さんが言っていたとおり、核心がズレたことを隠したまま男女が話を進めようとすると、やがてそのズレは決定的になる。

 僕とみわちゃんのズレは、今、決定的になったと思った。

「みわちゃん」

「なに?」

「愛があれば、じゃなくて、カネがあれば、なんじゃないの」

 僕はついに、決定的に冷たいことを言ってしまった。

 僕は常々、「いつもあたたかく いつもあたらしく」という気持ちを心がけているつもりだが、これだけ核心を隠したまま言われると、もはや冷たく言わざるを得ない。

「カネ!?」

 涙を流すのをやめたみわちゃんは、隣の隣の部屋位まで聞こえるような大声で、言った。それはまさに、みわちゃんが今気にしていることだから、声が大きくなった、と僕は思った。でも、みわちゃんはなおもズレた発言を続けた。

「カネって、どういうこと?失礼じゃない!あたしが、カネのために結婚するってこと?それ、すごい失礼よ!結婚って、女の子にとって、神聖なんだからね!」

 みわちゃんは、僕が箱根に行って連絡を取らなかったとき以上の剣幕で怒り始めた。一方で僕は、その剣幕に対抗するように、静かに言った。

「神聖なら、なんであわてて結婚しようとするの?」

「だって、パパが捕まっちゃうから!」

「じゃあ、みわちゃんは、パパのために結婚するんだね。結婚って、神聖なんでしょ?神聖って、まず相手を思うことから始めるんじゃないの?」

 すると、みわちゃんは恐ろしいことを言った。

「石井さんのことは、散々思ってるわよ!あたし、石井さんに全部合わせてて、苦しかったんだからね!それにパパの会社がつぶれちゃうじゃない。なんでこんな目に合わないといけないのよ!そろそろ見返りがないと、あたし、やってけないじゃん!」

 見返り。もはや神聖とは間逆の世界だ。みわちゃんは、興奮すると、つい、本音が出てしまう癖があるが、ここまで露骨に言われるとは僕も想像していなかった。

 でも、僕は淡々と反応し続けようと思った。露骨に対し、興奮したら、相手の土俵ですべてが進んでしまう。自分の土俵で勝負するために、僕は短く、穏やかに発言した。

「見返り、ね」

 僕が短く、穏やかにそう言うと、みわちゃんは、ようやく自分がとんでもないことを言ったと気づき、困惑の表情を浮かべた。

「あ、あの、言い方悪かった」

 みわちゃんは少し申し訳なさそうにした。しかし、もはや僕は、その程度では許せなかった。

「言い方の問題じゃないな。本当にそう思っているから、こういう大事な話のときに、口に出たんじゃないかな。僕は、みわちゃんがどうして、僕に近づいてきてくれたのか。僕に何を求めていたのか。それを、もっとちゃんと聞きたかったな」

 僕がそう言うと、みわちゃんは一瞬黙って、何かに気づいた表情をした。

「ひょっとして、誰かから、何かを聞いた?」

 僕はここでどう答えようか、迷った。ただ、みわちゃんに核心がズレないよう求めているのだから、僕も核心を明らかにしないといけない、と思った。

「聞いたよ」

「何を聞いたの?」

「僕が、本当は坂の上グループの家の生まれであること。僕のことを不憫に思った社長が遺言で財産を僕に譲ってくれそうだということ。そして、みわちゃんが、その財産を期待して、僕に近づいてきたということ。さらに、山河建物が危なくなったから、急いで僕と結婚しようとしていること。以上、四点。」

 僕は、まるでスーパーのレジ係のように、淡々と要点を言った。僕はさらに続けた。

「みわちゃん、四点のうちの、後半の二点、つまり、みわちゃんに関する部分は本当ですか。僕は本当であってほしくないと思っているけど、もし本当であったら大変だし、うそだったら、これを教えてくれた人に抗議しようと思っているので、本当のことを答えてください」

 みわちゃんは、僕をにらみつけたまま、黙った。    

「あたし、石井さんのこと、愛してる」

 みわちゃんは、矛先を変えてきた。僕はそれを許さなかった。

「愛してくれてるの」

「もちろんよ」

「ありがとう。じゃあ、質問に答えてね」

 僕がにべもない対応をすると、みわちゃんは怒った。

「ひどいじゃない!」

「何が?」

「あたしのこと、散々、コケにしたでしょ!」

「してないよ。質問しているだけ」

「だって、あたしが困る質問ばっかりじゃない!」

 困る質問か。これが、ほぼ答えだと思った。やはり、人間は、問うに落ちず語るに落ちる。質問の直後の答えではなく、その先の会話に、本音が出てくる。

「困るんだ。じゃあ、やっぱり、財産なんだね」

「財産だけじゃ、ないって!」

 財産を認めつつも、みわちゃんはさらに抵抗した。ここで僕は質問を変えた。

「じゃあ、僕が坂の上テレビの社長の家の出だってこと、なんで言ってくれなかったの?」

「そ、それは、石井さんが当然知ってて、言わないだけだと思っていたから」

「そうかな。だって、同棲するくらいなんだから、そんな大事な話、僕が隠している方がおかしいんじゃないかな」

「そんな、大事な話だったら、同棲していても、隠すって!」

 みわちゃんがまた本音を言った。同棲していても、みわちゃんは離婚歴があることはずっと黙っていた。もちろん、なかなか言えなかったというのはあるだろう。しかし、もし、僕が佳子さんと会わずに、みわちゃんとの間の流れを変えないままだったら、みわちゃんはずっと黙っていたのではないかと思う。

「僕は、大事な話なら、するな。だから、みわちゃんと僕は、感覚がズレているんだと思う。確かに僕も、このズレをずっとそのままにして、放っておいたのは、よくなかった。僕も、悪かった。でも、こんなズレた感覚のままでは、僕はみわちゃんと一緒になれない」

 そう言うと、みわちゃんは、うなだれた。

 そして、次の瞬間、顔を上げた。みわちゃんは、また、何かに気づいたようだった。

「ひょっとして、その、教えてくれた人って、田中先生?」

 田中、というと誰だっけという感じだが、佳子さんの踊りの名字であることは、僕はすぐに思い出した。僕は一瞬考えた後、言った。

「違います」

 僕はここで、全体像を教えてくれた佳子さんの許可を得ずに佳子さんから聞いた、とは言えなかった。仮に、佳子さんから聞いたと言ってしまうと、みわちゃんの怒りは佳子さんに向かうだろう。そうすると、佳子さんに申し訳ないし、みわちゃんが、佳子さんに何をするか、わからない。僕は、情報源はなんとしても守ろうと思い、やむなく嘘をついた。

「じゃあ、誰」

「誰でも、いいじゃん」

「よくないわよ!だって私の予定、めちゃくちゃじゃない!」

 みわちゃん、私の予定って、自分のことばかり考えすぎじゃないか。僕は、静かにあきれてきた。

「みわちゃん、自分のことばかり考えすぎだよ」

「そんなことない。あたしは、パパのことを思ってやってるんだから」

「そんな、財産目当てに結婚して、本当にいいの?」

「だってパパだって、財産があればまた商売が出来るから、なんとしても、石井君に来てもらおうっていっていたのよ」

「そしたら、僕じゃなくても、カネづるがあればいいんじゃないか」

「でも、石井さんには愛情が」

 この期に及んで愛情という。みわちゃんの愛情とは一体何なのか。

「みわちゃんへの愛情は、僕はもうなくなりました」

 僕は、決定的なことを言ってしまった。

 でも、仕方がなかった。

 すると、みわちゃんが、激高した。

「石井さん、石井さんが、そんなひどい、冷たい人だとは、思わなかった!人がこんなに大変な思いをしているのに、なんて仕打ちなの!もう、坂の上にいられないようにしてやるからね!明日、秘書室と役員室で、あることないこと、言って回るからね!もう、アンタなんか、クビよ!変態!死ねば?」

 みわちゃんは、エスカレートした。何なんだろう、この豹変振りは。僕は驚くばかりだった。


 すると突然、インターホンが鳴った。僕はインターホンには普段から出ない。しかし、何度も何度もインターホンが鳴らされた。僕はやむなく、応答ボタンを押した。

「はい」

 カメラに、初老の男性の映像が映し出された。

「あの、山河でございます」

 みわちゃんの、お父さんだった。

「ああ、ああ、お父様ですか」

「いま、よろしいでしょうか」

「あ、はい」

 僕はあわてて解錠キーを押した。

 それからまもなく、みわちゃんのお父さんが、お母さんを連れて玄関に入ってきた。驚いたのは、みわちゃんだった。

「パパ、ママ、なんで…ここに来たの?」

 僕は玄関に突っ立ったままのお父さんに

「あの、お上がりください」

と言った。

「いえ、ここで、結構です」

 みわちゃんのお父さんは、土足で立ったまま、話を続けた。

「このたび、私どもの会社の不始末で、石井さんも巻き込んでいろいろと娘を通じて申し上げてしまい、申し訳ありませんでした」

 あれ?お父さんも早く婿がほしいと言っていたんじゃないかな。なんで謝っているんだろう。お父さんは続けた。

「大変お恥ずかしいことに、石井さんの、いえ、正確に言いますと、石井さんの実のお父様のお力添えがあれば、私どもは事業を続けられる、などと身勝手なことを思っておりました。ところが、先ほど、石井さんの実のお父様から直接お電話をいただきまして、こういう無理をするとは思わなかった。当然、結婚など認めない、というご連絡をいただきました。大変な剣幕でございました。すべては、私どもが間違っておりました」

「パパ」

「すでに、ご存知かと思いますが、私は明日、警察の取り調べを受け、そのまま身柄を持っていかれると思います。ついては、身柄を持っていかれる前に、石井さんに、どうしてもお詫びをしなければならないと思い、突然、馳せ参じました。このたびは、そして、これまで、大変、申し訳ありませんでした」

 そう言うと、みわちゃんのお父さん、それにお母さんは、深々と頭を下げた。みわちゃんは、どうしていいかわからないという困惑の表情を浮かべていた。

「つきましては、これまでのご厚情はありがたいのですが、私どもといたしましては、娘を引き取って、一からやり直したいと思います」

「パパ」

 みわちゃんがお父さんを哀願するような目で見つめた。

「これで、娘を連れて帰ります。今日まで、ありがとうございました。そして、だますような形になってしまい、本当に、本当に、申し訳ありませんでした」

 そう言うと、みわちゃんはまた、幼子のように号泣した。

 しかし、みわちゃんのお父さんは、それを無視するかのように、淡々と、みわちゃんを諭した。

「みわ、石井さんにこれ以上お世話になるのは、できない。もう失礼だ。帰るぞ。」

「パパア、パパア」

 みわちゃんは、玄関先に座り込んだまま、号泣を続けた。その涙は、一敗地にまみれた涙だった。


 それから少しして、みわちゃんは涙を流しながら最低限の身支度をした。別れ際、靴を履いたみわちゃんはこんなことを言った。

「あたし、負けた。」

「負けた?」

「うん、きっと、田中先生に、負けた。」

僕は即座に言った。

「違うよ」

「じゃ、何?」

「みわちゃんは、自分に負けたんだよ。自分の欲とかに、ね。」

 かなり冷たい一言だった。ストレートな一言だった。

 しかし、これだけ自分のことばかり考えて加熱するみわちゃんには、それくらいの冷たいストレートな対応をしないと、みわちゃんは永遠にダメになってしまう。ずっと自分の事しか目の行かない人になってしまう。そう思った僕は、あえてそう言った。

 それに対し、みわちゃんは、何も答えなかった。それはそうだろう。だってみわちゃんはまだ、わかっていないのだから。 

 でも、わかっていなくても、言わなければならないことはある。それに、きょう役に立たなくても、あす、あさって、いや、一年後、五年後、十年後に、ようやく役に立つようなことを言ってあげないと、人間は必ずダメになる。人生は学校のドリルとは違い、今日勉強したから、明日百点がとれるなどという即効性のあるものばかりではない。むしろ即効性のないものがほとんどだ。でも、今の世の中、とりわけ、みわちゃんのような人は、即効性、つまり、自分の欲をすぐに確実に満たしてくれるものばかり捜す。だからうまくいかないのだ、と僕は思う。

 僕のこの一言が、いつか、みわちゃんの役に立ちますように。

 僕はそう願い、みわちゃんと、みわちゃんの両親が乗ったタクシーを見送った。

 ふと振り返ると、タクシーから少し離れたところには、視線の鋭い男たちが何人もいた。後でよく考えたら、私服の捜査員だった。タクシーがいなくなると、その男たちは紺色の車に乗り込み、タクシーを少し後から追いかけていった


 翌日。新聞各紙は社会面で「山河建物社長 きょう事情聴取」「強制捜査へ」の見出しを打った。昼過ぎには、ニュース速報で「山河建物本社などを一斉に家宅捜索 粉飾決算の疑いで」という一報が流れた。そして夕方には「山河建物社長ら 逮捕」というニュース速報が、流れた。

 坂の上テレビの受付に、みわちゃんの姿はなかった。数日後にわかったのだが、一身上の都合で突然退職届が出た、という。

 そして、僕のところには引っ越し屋から電話があった。みわちゃんからの発注、ということで、指定されたものを引き取りたいという。僕は指定に従い、ダンボールにみわちゃんの服や化粧品を二日かけて詰め、引っ越し屋に引き渡した。ダンボールは二十箱にもなった。

 僕はよほど、社長や副社長、つまり実の父や兄を訪ねていこうかと思った。でも、やめた。今行ったら、単に迷惑のような気がしたからだ。それにいつか、時期が来たら、会えるのだろう。あわてる必要はないし、会うべき時期というのが、きっと来るはずだ。僕と佳子さんのように。

 なお、人づてに聞いたところ、社長の奥さん、つまり、僕の実の母親は、十数年前に亡くなったと言う。さらに人づてに、社長の家の墓所はどこか尋ねた。墓所は案外簡単にわかった。海の近くの、潮風の薫る町の高台にあるという。今度の彼岸には、そっと墓参りに行きたい。 


 再び、僕は腑抜けの日々を送ることになってしまった。

 ただ、佳子さんには一言お礼がしたいと思い、着信履歴をたどって電話をかけた。

「もしもし」

「はい。もしもし」

「あの、石井です」

「あら、ワンコちゃん」

 峠の上でもないのに、ワンコちゃんと呼ばれた。

「あの、今回は本当にお世話になりました。ありがとうございました」

「ううん、大変だったね」

「いえ、僕は全然ですけど、みわちゃんは、ずいぶん大変だったと思います。お父さんも捕まってしまったし」

「あら、あんなにだまされていたのに、ワンコちゃん、ずいぶんやさしいのね」

「いえ、だって、だまされていたのは僕にも原因があって、ちゃんとみわちゃんの話を聞かずにめんどくさいって思って、日々過ごしていたからだと思います」

「そう?」

「はい。僕、大人になってから、めんどくさいことを避けてきたんです。それを今回、思い知りました」

「そうそう。面倒くさいのを避けても、結局はもっと面倒なことになるからね。今回は本当におつかれさま」

「はい。ありがとうございました。お世話になりました。失礼しました…」

 僕がそう言って電話を切ろうした。

 すると、佳子さんが遮った。

「ちょっと、待って」

「…何ですか?」

 僕が少しいぶかしげな返事をすると、佳子さんは、一息ついてから、言った。

「おつかれさま会、しようよ」

「おつかれさま会、ですか?」

「そう。ワンコちゃんに、会いたいし」

 ええっ、また会ってくれるんですか。僕はうれしかった。

「じゃあ、また峠の上に来てくれないかな。おもてなしするから」

「え、いいんですか!ありがとうございます!」

「えへ、喜んでるね。子供だねえ」

 ずいぶん前に言われたような台詞をまた言われたが、僕はまったくかまわなかった。また、佳子さんに会える。それだけでうれしかった。そして、日時を約束した。僕が泊まりが当たっている日の翌日。たまたま佳子さんもダンスの教室が休みだという。

「うん、この日だったらお日柄もいいわ」

 お日柄?何のことだろうと思ったが、佳子さんは立て続けに言った。

「天気もよさそうだから、楽しみね」

 ああ、お日柄って天気のことか。僕はそれくらいの受け止めだった。でも天気のことだったら、予報士の僕に言わせてください、とも思った。何はともあれ、また佳子さんに会える。僕はその日を、楽しみに待った。


 その日の待ち合わせは、新宿駅にした。ここ最近で、三回目の箱根の往路。三回のうち、一番気が楽で、楽しみな往路だ。佳子さんは定刻に、うすい桜色のワンピースで現われた。

「あ、あの、きれいですね」

「うふ、ありがと」

 僕たちは、白いロマンスカーに乗り込んだ。一回目の往路と違い、今度は最初から二人並んで座る、ロマンスシートだ。ロマンスカー

でロマンスが実現して、うれしい。僕は顔が自然にほころんだ。

「あら、ワンコちゃん、何がうれしいの?」

「あの、ロマンスカーでロマンスだから、です!」

「あ、一回目の箱根に行くときに言ったこと、覚えててくれたんだ!」

「はい。すごく昭和な感じで」

「そうそう、昭和二十年代にあった映画のロマンスシートがロマンスカーのモチーフなんだよね」

 やっぱり佳子さんは、ロマンスカーの名前の由来を知っていた。さすが鉄道好きだ。知っているかもと思っていたことが当たると、やはりうれしい。佳子さんと僕だけの世界が、展開されているようだった。

 ロマンスカーは、ミュージックホーンを鳴らして、軽快に新宿を出発した。

「今回は、ほんとにおつかれさま」

 佳子さんは、さっそくねぎらいの言葉をかけてくれた。

「あ、ありがとうございます。佳子さんにもほんとにいろいろお世話になって」

「大変だったでしょ」

「はい。でも、みわちゃんのお父さんお母さんがお詫びに来て、びっくりしました」

「ふふ。まあ、ああでもしないと、みわちゃん、強情だから決着しなかったかもね」

 あれ、佳子さん、みわちゃんのご両親がうちに来たことを知っているみたいだ。

「あれ、なんでみわちゃんのご両親が来たこと、知ってるんですか」

「あの日ね、あのままにしておいたら危ないと思って、大王子観光の首脳陣から、坂の上テレビの社長室に連絡してもらって、こんなこと起きてて、養子に出した息子さんが大変ですよ、社長の財産も狙われていますよ、このままだと修羅場になるから、社長からみわちゃんのご両親にすぐに連絡して、みわちゃんをすぐに引き剥がさないと、坂の上に累が及びますよって、言ってもらったの」

「ええ、佳子さん、そんなことまでしてくれたんですか」

「うん。問題解決は最後までしないと、ねっ!」

 また出たよ、この手の台詞!

 しかし、僕は佳子さんにはこれだけの決め台詞を言う資格が、十分にあると思った。どこまでやらないと解決しないのか。どんな影響があるのか。そして、それを誰にどういったら一番効果があるのか。それを見定めた上で、手を打つ。大王子観光の娘らしい、力量の高さをまざまざと見た。

 人間の力にはいろいろあるが、中でも「問題を解決する力」というのは、どんな時代にあっても必要なものだ。今はネット全盛で、何か困ったことがあるとすぐにネットを見てしまうが、今回のような問題の解決方法は、ネットを検索してパッと出てくるものではない。知恵とか、知識とか、蓄積とか、思考とか。いろいろな人間的なものを重ね合わせて、解決しなければならない問題は今の時代にもいっぱいある。それを鮮やかに解決する佳子さんに、また新たなまぶしさを覚えた。

「でも、なんでこんなに苦しいことが起きるのか、いまだに釈然としません」

「そうねえ」

 佳子さんは、窓側の席で、頬づえをつきながら答えた。

「ネットがものすごく発達しちゃって、人と人、モノとモノ、いろいろな組み合わせが、簡単に、たくさんできる時代になっちゃったのよね。コラボっていう言い方もあるけれど、もうすでにコラボだらけよね。こういう世の中って、便利で、一見つながりがあるように見えるけど、本当につながっているかどうかは、実は心が決めるものなのよね」

「うーん、確かにそうですよね」

「物理的なつながりが精神的なつながりとは限らないし、むしろ、つながっていないことがすごい多いと思うの。皮肉な状態よね。まるで早稲田の現代文の入試みたい」

 また、皮肉と現代文の話になった。

「もちろん、組み合わせがたくさんできるようになったおかげで、女性と女性、男性と男性も組みやすくなったのよね。垣根が低くなったのよね。夫婦を超えてゆけ、なんて歌も去年出てきたじゃない。それはそれでよくって、好きな者同士はそれでいいのよ。だって正しい変態であるうちは、他人に迷惑をかけていないからね」

「あ、正しい変態、出ましたね」

「うん。あたしも、正しい変態でありたいな。あたしは、男女で、ねっ」

 佳子さんまたうれしいことを言ってくれる。男女の男って、誰ですかあ。僕が質問しようとすると、佳子さんがまた機先を制した。

「あと、組み合わせはたくさんできるけど、やっぱり大事なのは、縁ね。全部の組み合わせなんて、とても体験できないし、する必要もないけど、でも、何度も出会ったり、すごく印象深く出会ったりする組み合わせってやっぱりあるでしょ。それって、神様がそれを勧めてくれているわけだから、そういう縁は大事にしないといけないなって思うなあ」

「僕、それ、今回の件でほんとに思いました。縁って大事なんだって」

「そう?」

「はい。佳子さんもそうですし、『涙をこえて』もそうです。僕は、二十代三十代のうちはまったくこんなことに気づかなかったんですけど、四十代になって、縁の不思議さや、人間の出会いの奥深さとか、あと歌のもつ力に圧倒されました。これって、スマホばかりの世界にはない世界なんですよね。スマホにつながりはあるけど、縁まではないと思うんです。僕は今まで、こういう大事な縁とか思い出とかを無視して生きてきたような気がします。世の中は、地層のような積み重ねなんですよね。スマホは確かにその一番上の目立つ層で存在感を発揮しているけど、それより下にある、縁や思い出が、まさに縁の下の力持ちとなって、今の自分や世の中を支えてくれている。ずっと黙りながら。そんな構造に、僕は今回始めて気づきました」

「そうね。縁、大事ね」

 すると、車内販売が近づいてきた。販売員の女性がワゴンを押していた。

「すみません、オレンジジュース二つ」

あ、また佳子さんがオレンジジュースを頼んでくれた。

「せっかくのご縁ですので、石井さんの分も注文させていただきました」

 一回目の往路と、同じ台詞を言ってくれた。このご縁、いいご縁ですか。僕はよほど聞きたくなった。

 しかし、佳子さんは、全く別の話題に切り換えた。

「ワンコちゃん、実はね」

「はい」

 佳子さんは、オレンジジュースをおもむろにテーブルに置いた後、ちらりと僕を見て、言った。

「あたしも、養子なんだ」

 え、初めて聞きました。これ、重要な話ですよね。なぜ今?僕がそう思うと、佳子さんは続きを話した。

「大王子観光の社長のところにも、ずっと子供ができなくて、世継ぎがいなかったのよね。それで、あたしは社長の弟の家で生まれたんだけど、小さいときに、社長の家に養子に出されたの」

「そうだったんですか」

 僕はそう言ってから、気づいた。

「そしたら、あの、じじ、おじさんが、佳子さんの本当のお父さんなんですか?」

「そう。実はね。でもね、あたしもワンコちゃんと同じように赤ちゃんのころにもらわれていったから、あたしは知らないことになっているの。いまだにね。でも、あたしはパパとの間に何か違和感を感じてて、それで、大人になってから雑誌の仕事で役所に行ったときに戸籍謄本を見て、事実を知ったのよね。今だったら、妊娠しましたとかみんなツイッターとかで発信できるからこんなことできないけど、昔は妊娠とか出産とかの情報ってそんなに出回らなかったから、あまり知られることもなく、できたみたいなのよね」

 そうか、それでじじは佳子さんに早く結婚しろとか言うわけか。 「でも、じじが本当のお父さんだって、知ってて言えないのって、つらくないですか」

「そりゃ、つらいわよ。でも、それを言っても仕方ないの。そういう設定で生きているんだもん」

 設定。僕は、佳子さんの人に言えない寂しさを、初めて知った。

「そうだったんですか」

「そう。しかも、私が養子に来てしばらくして社長の家に男の子が続けて生まれてね。あたしは疎まれたの。大王子観光は、弟たちの誰かが継ぐって決まったのよね。でも、弟たちが大人になってからは大王子観光を継ぐのがいやだって言ったから話はややこしくなって、結局あたしが継がないか、みたいな話になったのね。でも、何をいまさらって感じだから、今も断ってるのよ」

それもまたつらい話だ。養子に来たとたんに、実子ができて、疎まれて。でも、実子が継がないとわかったら、継いでくれと言われ、断る。 佳子さんの人生は、この若くかわいらしい顔とは裏腹に、とんでもない運命を背負っている、と感じた。

と同時に、もうひとつ、気づいたことがあった。

「あの、佳子さん」

「なあに」

「あの、ひょっとして、佳子さんは、自分も養子でつらい思いをしたから、今回、養子の僕のことを守ろうとしてくれたんですか」

「うん、それはね。そうなの。それは、すごくある」

「そうだったんですか」

「うん。これも縁ね。同じ境遇にいるワンコちゃんを、助けたいって思ったのよね」

 そして、佳子さんは、なつかしい一言を言った。

「私がなんとかしてあげるからって、思ったの」

 僕が代々木の予備校で、早稲田を目指していたときに、佳子さんがかけてくれた言葉と、全く同じ言葉だった。

 その言葉を、二十年以上たって、また言ってもらえた。しかも、違う状況で。まさに、これが縁だと思う。僕は、佳子さんに、心から感謝していた。


 オレンジジュースを飲み終え、一息つくと、ロマンスカーは相模大橋のあたりを通過していた。前回、寒々としていた桜の木は、ほんの少し、色づき始めていた。それは、孤独だった僕の心が色づくのに似ているような気がした。

 第一回の芥川賞を受賞した石川達三の「私ひとりの私」の中に、「私を知っているのは私だけで、人間は他人から完全に理解されるということはありえない」というようなくだりがあった。

 確かに、完全に理解されることはないだろうし、理解してくれたところで、孤独が消えるわけでもない。でも、それは仕方のないことで、理解したり共有したりできる、縁がある人と一緒にいるのがよりましなのではないか。僕はそんなふうに思い始めていた。


 ロマンスカーは、無事に箱根湯本に到着した。一回目の往路と同じように、僕は行き先を確かめて、バスに間違いなく乗った。

「ガイドさんがいると、助かります」

「いえいえ」

 これも前回と同じやりとりだ。でも、前回と同じだけど、前回とちょっと違って、僕を小バカにするのではなく、本当に頼っているような言い方だったので、僕はちょっと自分が成長したような気がした。四十にもなって成長するのも変な話だが、僕は足りていない人間なので、仕方ない。

 バスはほどなくして出発した。しばらく進むと、また、車窓から硫黄の香りが漂ってきた。硫黄の香りに「おかえり」と言ってもらえたような気がした。そして僕は、少し鼻をひくつかせると、隣の席に座っている佳子さんから漂うあの香りも、感じることができた。この香りが、僕の昔からの楽しみだ。

 でも、もうひとつの上の香りを、僕は知ってしまった。佳子さんが宿の洗面所で具合が悪くなり、支えたときに感じた、あの香りだ。その香りにも、また会えるかな。僕は少し期待していた。どうせ、緊張するくせに。

 すると、佳子さんは、にやついた僕の顔を見逃さずに、言った。

「こらっ、変なこと考えちゃいけないんだよ」

 また怒られた。どうして佳子さんは僕の考えていることをわかるのだろう。僕はやっぱり佳子さんの掌の上に乗る狛犬なんだな。そう思っていると、佳子さんはぽつりと小さな声で、追加の一言を言った。

「ここでは、ね。」

 ん?ここでは、ね?じゃあ、どこだったらいいんですか!

 僕はまたドキドキしていた。すると佳子さんは、僕の気持ちをはぐらかすかのように、また違う話を始めた。

「あたしたち、二十三年ぶりに再会したんだよね」

「はい。そうです」

「長かったのかなあ、短かったのかなあ」

「僕は長かったと思いますけど」

「そうかな。そりゃあ、これから二十三年っていうと、すごく長いような気がするけど、過ぎた二十三年っていうのは案外あっという間のような気がするのよね」

「そうか、そうですね」

「あと、二十三年ってまだまだ甘いのよ。織井茂子さんとか、高橋真梨子さんとかは、紅白歌合戦に返り咲くまで、二十九年かかったんだからね」

 織井さんは、NHKのラジオドラマ「君の名は」の主題歌のレコードを出した女性だ。なかなかめぐり合えない恋仲の男女のストーリーが空前の人気を博した。

「ああ、そういえば、あみんは二十五年ぶりの紅白返り咲きでしたね」

「そうそう。返り咲く前も後も、歌った歌は?」

 二人で同時に言った。

「待つわー」

 あまりにも細かい知識から生まれるユニゾンを、しかもバスの中でしてしまう、アラフォー男女。まったく世の中の大勢に影響はない。これぞまさに正しい変態だと思う。誰にも迷惑をかけていないし、本人たちは楽しいのだから、それが一番幸せだろう。僕は、言い知れぬ幸せを感じていた。

 バスは今日も、ぐいぐいと急な山道を登り、やがて僕たちはバスを降りた。一回目の往路ほどではなかったが、風はまだ冷たかった。道路の端にある温度を示す電光掲示板には「0℃」と表示されていた。「氷点下じゃないだけ、まだましよね」

 佳子さんは、強く冷たい風に黒髪をなびかせながら、僕に話しかけた。

「いえ、氷点下ですよ」

「え、だって〇度じゃない」

「〇度は、氷点下なんですよ、実は」

「え、そうなの?」

「そうです。氷点って、氷が水になる温度ですけど、〇.〇〇二五

一九度なんです。だから、〇度は氷点よりわずかに下で、氷の温度なんです」

「そうなんだ、知らなかった!」

「実は僕も、予報士になってからこのことを知って、びっくりしました。大人になっても学ぶことって、多いですよね」

「ほんとに。また、ワンコちゃんから、教わっちゃった!」

 そんなに大した話ではないのに、佳子さんは、うれしそうだった。佳子さんを見ていると、人間はつくづく、新たな発見とか、新しい見方ができることが大事なんだなと、僕は思った。   

 やがてホテルのガラス張りの玄関が見えた。そろいの半纏を着た、ホテルの従業員が男性五人、女性五人。ずらりと十人。玄関の前に並んでいる。一回目の往路と、まったく同じだ。そして、僕たちに気づくと「おつかれさまでございますーっ」と声を合わせた。これも同じだ。すかさず、佳子さんが僕に耳打ちする。

「じゃ、ここからワンコちゃんは、彼氏ね」

「うん」

 宿での彼氏役も、なんだか慣れてきたような気がする。玄関を入ると、じじが待っていた。

「おう、よく来たの」

「おじさま、またお世話になります」

 おじさま、と言いつつ、実の父親なんだ。僕はそのことを知ってしまった。佳子さんは健気におじさまと言っている。なんだか切ない。それにじじは、佳子さんが真実を知っていることを知っているのか、知らないのか。目の前にいる真の親子のやりとりを聞きながら、思った。

 佳子さんと僕は、また、ホテルの一番てっぺんの展望室に通された。ホテルの人たちが丁寧に、お茶だ、お菓子だと出してくれて、ひとしきり挨拶が済むまで、やはり今回も三十分くらいかかった。しかし、前回この部屋に来たときと違ったのはその間、僕はかなりゆったりとした心持ちでいられた。心細い足軽ではなくなっていた。いろいろ、全体像が見えたからだろう。

 さて、まずは硫黄泉か。僕がそう思っていたが、佳子さんは意外なことを言った。

「温泉は、あとね。きょうはまず食事から」

 あれ、温泉ではないんですか。でもまあ、人の家に来ているわけだから、佳子さんの言うとおりにしないと、申し訳ない。

 そこで僕は食事に向かう支度をして、鍵と財布とスマホを持った。

 一方、佳子さんは、何も持たない。あれ、先日は名刺入れのような何かのケースだけ持っていたけど、それもないのか。僕は念のため、聞いた。

「佳子さん、何も持っていかなくて、いいの?」

「うん、もう、いいの」

 僕には何が「もう」なのか、わからなかったけれど、佳子さんがいいと言ったので、それ以上は気にしなかった。前回と同じように、薄暗い廊下を歩き、スリッパをパタパタさせて広間に近づくと、まるで自動ドアであるかのように、広間の入り口のふすまが勢いよく開いた。

 中に入ると、三十畳ほどのだだっ広い広間にお膳が三つだけ、並べられていた。これも前回と同じだった。ほどなくして、じじが入ってきた。

「おう、待たせたな」

「いえ、今来たばかりです」

「どうじゃ、仲良くしとるか?」

 じじはまた、直球を投げてきた。恒例だ。すかさず、佳子さんが返した。

「はい。仲良くさせて、いただきます」

 前回と同じような答えをして、話は終わった。

 いや、あれ?「いただきます」ってなんだ?「いただいています」だったらわかるけど、なんで未来形?僕は少し気になったが、じじが返事をする前に、すぐに食事が運ばれてきた。それを見て、少し驚いた。山芋料理ばかりだっだ。オクラ入りのとろろ汁、山芋のたたきの磯辺和え、水菜と納豆と山芋のサラダ、山芋の豆乳シチュー、山芋のそぼろ煮。そして大きなどんぶりに並々と山芋がすられていた。

「きょうは箱根名物・山芋フェアじゃからな、存分に食べてな」

 こういう、ひとつの食材にこだわった夕食も出しているのか。僕は遠慮なくいただいた。佳子さんももりもり食べていた。

 ひとしきり食べた後、じじは、少し酒を口に含ませてから、口を開いた。

「そういえば、石井君は、気象予報士じゃが、大学では、何を勉強していた?」

「あの、法律です」

「法律?すると法学部か」

「はい」

「法学部を出て、気象予報士になるとは珍しいのう」

「あの、それほど珍しいわけではないですが、少ない、ですね」

「どうして文系を出て、予報士になろうと思ったんじゃ?」

「分野が違うことをやってみたかったから、です」

「分野が、違うこと?」

「はい。法学部を出て、弁護士になったり、検事になったり、金融の仕事で法律の知識を生かしたりするっていうのもあると思うんですけど、全然違う分野で、法律の勉強で得たものを生かせないかって考えたんです」

「具体的に、何か役に立ったことは、あるか?」

「はい。気象の世界は、気象業務法とか災害対策基本法とか、案外法律が多いですし、あと、予報をテレビで一般の人に伝えるには、わかりやすく、伝えないといけないんですけど、そのときに、法律を一般の人に順序だてて説明するやり方が役に立っています」

「なるほどな。異世界で、自分の分野を生かしておるわけだな」

「いえ、まだ道半ばです」

「そんなことはないぞ。石井君は立派にいろいろ話せておる。佳っちゃんは、ほんとにいい男を見つけてきおったなあ」

 佳子さんがとろろ汁をすすりながら言った。

「いいでしょう」

「うむ。佳っちゃんは、異世界だからな。よろしく頼むよ」

 佳子さんが、異世界。確かに、一般の人とは違う、たぐいまれな頭の良さをしていると思う。記憶力も抜群だし。この異世界を頼むと言われ、僕は少し身震いした。

「いえ、でも、僕には身に余る役で」

「身に余るところを詰めていくから力がつくのよ。石井君、しっかり頼むぞ。じゃな」

 じじはそう言うと、少し足元をふらつかせながら、あっという間に広間を後にした。

「じじ、ずいぶん早くいなくなっちゃったね」

「たぶん、気を遣ってくれたのよ」

「そっか、ありがたいね」

「そうね」

 気がつくと、佳子さんも食べ終わったようだった。


 僕たちは、部屋に戻った。十五畳の部屋の中には、前回と同様に、布団が仲良くくっつけて二つ並べられていた。僕は、今回は何も言わなかった。佳子さんも、何も言わない。

「じゃあ、温泉行こうか」

 佳子さんは、いつものように甘く、しかし、少し高めの声でそう言った。本当にわずかに、高かった。ひょっとして、佳子さんが緊張しているのか?僕はちょっと意外な展開に驚いた。

 でも、佳子さんに「緊張してるよね」というのはなんだかためらわれたので、僕はあえてそこには触れず、「うん」とだけ言った。

 そして僕はいそいそと支度をし、佳子さんと一階にある温泉に向かった。

「何時に、どこ集合?」

「ゆっくりでいいよ。僕の方が、早く上がって、待ってるから佳子「ありがと」

「じゃ」

 僕はそう言って、脱衣場に入った。

 内湯から、露天に抜けると、そこはもう漆黒の世界だった。いつの間にか、とっぷりと日は暮れている。この露天からは、近くの山々しか見ることができないため、日が暮れると、何の目印もない。明かりもない。ただただ、闇が広がっている。 

 闇というのは不思議なもので、奥行きがなくなったような錯覚がする。本当は何キロか先までの風景が広がっているはずだけど、闇の中には、それらの風景はすべて黒く溶け込んでしまい、まるで壁が近くにあるかのような感じさえする。山道を登るときは聞こえていた、はるか離れた自衛隊の演習場か らの爆音も、もう聞こえなくなっていた。闇と無音が支配するぽつねんとした空間に、ぽっこりと空いた、露天のほんのりとした明かりは、体だけでなく、心もほっこりと癒すものだった。


 闇と無音。最近、心の中に広がる闇と無音が人々を蝕んでいるような気がする。

 もちろん、世の中の見た目は明るい。スマホは、真夜中でも僕らの顔を明るく照らし出してくれている。ポータブルオーディオを使えば、いつでも好きな音のある世界に入っていける。

 しかし、心の中には逆に闇や無音が広がり、いい知れぬ不安がはびこっていないか。それは言うまでもなく、人の縁がかなり失われ、人々の心が、それぞれ孤立するようになったからではないかと思う。

 その孤立した世界に何とか生きようとしたのが、みわちゃんではないか。みわちゃんは、核心部分をズラして僕と付き合うことにより、財産という、目に見える安心感を手に入れようとしたのだろう。

 しかし、それは人間としてあざとかった。事情を話してくれれば、まだ何か余地はあったのかもしれない。しかし、佳子さんが手を出すまで、みわちゃんは核心をズラし続けてきた。きっと、めんどくさかったのだろう。

 もちろん、僕はみわちゃんを断罪できる立場にはない。僕も、核心がズレた状態を放置していた責任がある。それに、僕もめんどくさいと思って、みわちゃんの話を聞かず、みわちゃんとの縁が深まるような工夫もしなかった。僕も、罪は似たようなもので、たまたま断罪されなかっただけだと思う。僕は、たまたま運がよかったのに過ぎない。

 それにみわちゃんは、若くして離婚を経験し、きっと重荷や引け目、そして焦りというものがあったのだろう。焦燥した人間は、誰かが声をかけてやらないと、軌道修正がなかなかできない。

 昔だったら、変な様子の人を見たら誰かが声をかけていたのだろうが、今は個人的な話を聞こうとして声をかけると、ハラスメントと言われる場合があるから、みんなリスクをとらずに声をかけないままでいることが多い。それに、友達同士も顔を合わせるよりスマホを通じて会話している方が気楽なので、深刻な話をする機会は昔より少なくなっていると思う。

 みわちゃんも、誰かに諭してもらったことは、きっとないのだろう。その結果、坂の上に見つけた都合のよい財産という雲をめざして、突進していったのではないか。

 もちろん、それは昭和四十年代に発表された名作「坂の上の雲」のように、純粋な前向きな気持ちで上る有意義な坂ではなく、自分のことだけをひたすら守ろうとして上る、やましい坂だ。坂の上の雲がつかめないのを知らずに上っている、という点では同じだが、

 双方の心持ちの差は激しい。ある意味、みわちゃんは時代の犠牲者なのかもしれない。

 時代かあ。そういえば「坂の上の雲」は明治時代を描いた作品だ。明治時代は、初め前向きな世の中が広がっていたが、戦争や世界の動乱に巻き込まれて、やがて世の中は変質した。次の大正時代は、労働争議が激しくなったり、スラムが増えたり、米騒動が起きたりと、矛盾を抱える状況へとなっていった。そして、関東大震災が起きた。

 よく考えたら、矛盾や災害に苛まれる世の中という意味では、大正と平成は似ているのかもしれない。

 一方で、大正は、今も続く箱根駅伝や高校野球、東京六大学野球が始まったり、洋食が普及したり、一般向けの文学や映画が生まれるようになったり、ファッションを楽しめる世の中になった、という。暗いところもあれば、明るいところもある。それは、僕の目の前にある闇の中に、ぽっこりと存在する露天風呂のようなものだ。

 みわちゃんをはじめ、苦しんでいるそれぞれの人が、暗闇の中で、自分の明るい露天風呂のようなものを探せれば、もっと世の中は、希望があふれるのではないか。

 暗闇の中にも、必ず希望がある。それを、もっと多くの人に伝えていかないと、いけないな。僕はそんなことを思っていた。


「ワンコ、ちゃーんっ」

 あ、僕の希望さんだ。

「そろそろ、上がるよーっ」

 大きな壁を隔てた女湯から、ノボせたのか、少し上ずったような声が聞こえた。僕もすかさず答える。

「はあい。ワン!」

 気のせいか、僕の声も少し上ずった。いろいろなことを考えて、だいぶ長い時間硫黄泉に浸かっていたから、僕もノボせたのかもしれない。

 僕がいそいそと硫黄泉から上がると、半纏を身にまとった、初老の男性が露天に入ってきた。湯守さんだった。

「あ、先日はどうもありがとうございました」

 僕は、先日車で箱根湯本まで送ってくれた湯守さんに、礼を言った。

「いえ、とんでもございません。お湯加減は、いかがでしたか」

「ちょうどよかったです。ありがとうございました」

「それは、何よりでございます」

 そして僕は湯守さんに会釈をしてすれ違い、露天から立ち去ろうとした。

「あの」

 湯守さんが僕を呼び止めた。

「何ですか?」

「今後どうぞ、よろしくお願いいたします」

 何がよろしくなのか、僕にはすぐにわからなかったが、たぶん、彼氏のふりをしているから今後も来てくださいね、という意味なのだと捉えた。

「いえ、こちらこそ。よろしくお願いいたします」

 僕はまた会釈をした。

「これから、ですぞ」

 湯守さんは、念押しをするように、一言言った。

「…はい」

 なぜこう言われるのかよくわからなかったが、僕は短く答えて、露天を去った。


 浴衣を身にまとって、脱衣場を出た。すると、意外なことに、ほぼ同じタイミングで、佳子さんも女湯の脱衣場から飛び出してきた。この前に比べて、上がってくるのがずいぶん早い。

「おっ」

「あら」

「同じタイミングだったね」

「うん」

 そこで、僕らの間に少し間が生じた。

 次に何を言ったらいいのか、ノボせていたせいなのか、すぐに言葉が出てこなかった。突っ込みの早い佳子さんも、なぜか何も言わなかった。

「行こうか」

「うん」


 僕らは部屋へと向かった。しかし、この平凡な一言が、かえって僕と佳子さんの間に言い知れぬ緊張感をもたらした。なんでまた、緊張してきたのだろう。 

 その理由は、歩いているうちにわかった。僕が緊張しているというより、佳子さんが緊張しているからだ。佳子さんは普通、あごを上げずに話をするが、このときの佳子さんは完全にあごが上がっていた。長い廊下に、二人のパタパタという乾いたスリッパの音だけが響く。

 そして部屋に着いた。僕は鍵を開けようとした。しかし、うまく開かない。僕も、なぜか焦っていた。ガチャガチャ繰り返していると、「貸して」と言って、佳子さんが手を伸ばしてきた。

 佳子さんの右手が、僕の右手に、触れた。

「ひやっ」

 冷たくないのに、なぜかひやっとした、不思議な感覚がした。まるで、何かに飲み込まれるような感覚だった。体中に、震えるように電流が走った。

 佳子さんが鍵を開けると、僕たちは布団を挟んで少し離れた場所で背中合わせになり、無言で服を片付けた。


 片付け終わると、背中合わせのまま、僕はつぶやいた。

「寝ようか」

「…うん」

 佳子さんは、短く返事をした。その返事を受けて僕は、部屋の電気をふっと消した。

 非常灯のような行灯のほのかな明かりを残して、部屋はほぼ闇となった。僕と佳子さんは、大そうな掛け布団の中に、潜り込んだ。

「ねえ」

「うん」

 佳子さんは枕の上に頭を載せ、僕の方を向いた。僕も枕の上に頭を載せ、佳子さんの方を向いた。僕らの間の距離は、二十センチ足らずだったと思う。再会するまでにかかった年の数よりは小さくなったが、それでも、初めてこの部屋に泊まったときと同じくらいの距離にとどまっていた。この距離は、今夜さらに縮まるのか。僕は一瞬そう思ったが、別に今夜でなくてもいい、とすぐに思った。

 僕の希望は今夜かもしれないが、佳子さんの希望は今夜でないかもしれないからだ。相手のことを考えないと、どのみち、ズレていってしまう。僕はそう思ったので、佳子さんともう少し話をしたいと思った。

「佳子さん」

「なあに」

「僕、佳子さんにまた会えて、本当によかった」

「あたしも」

「もし、佳子さんに会えてなかったら、僕はダメだったと思う」

「そう?」

「うん。だって、人が生きていく上で大事な、縁とか思い出とかを

 佳子さんが気づかせてくれたから」

「そんな、あたしは大したことしてないわ」

「そんなことないよ。本当にありかどう」

「ふふ。でも、ワンコちゃん、よくあたしについてこれたよね」

「よく?」

「そう。だって『問題文は最後まで読まないと、ねっ』みたいなこ

とを何度も言われたら、普通はプライドズタズタなんじゃない?」

「うん。でも、僕のプライドなんて、佳子さんの前では大したことないから」

「まあ」

「こんなに一緒にいられて、うれしい」

 僕がそう言うと、佳子さんは黙った。

 あれ、何か変なこと言ったかな、と思っていたら、佳子さんは少し考えたような間の後に、急にきりりと口を開いた。

「じゃ、次の問題です」

「え、次の問題?」

「そう」

「あの、まだ問題があるの?」

「まだ、あるのよ」

「僕、佳子さんっていう問題文、ずいぶん長すぎるよ!難しすぎるよ!どこまで奥が深いんだよ!と思ってたんだけど、まだなの?」

「まだよ」

 僕は少しがっかりした。いったいいつになったら、佳子さんに手が届くのだろう。でも、がっかりしても先に進まないので、僕は前を向くことにした。

「じゃあ、問題出して」

「はい、じゃあ行くね」

 そう言うと、佳子さんは頭を少しだけ遠ざけた。

「今の時代、恋愛なんて、面倒くさいだけだという人もいますが、どうして人は人を好きになった方がいいのでしょう、か。」

 本当に問題文なんですね、と僕は感心してしまったが、なかなか難しい問題だ。でも、この問題に答えないと、僕の人生も先には全く進まないと、僕は思った。僕は、ありったけの思いを込めて、話すことにした。

「人間は、長く生きていると、どんどん過去が増えていきます。その分、未来が少なくなるんです。だから、過去を共有できた方が、楽しくていいんじゃないかと思います。一緒に過去を共有できる相手がいるかいないかで、人生って大きく変わってくると思うんです。それに、過去の教訓から、未来につながることがたくさんあります。だって、歴史は結構な部分が繰り返しなわけですから。今回、僕が気づいた縁の大切さも、きっと歴史の繰り返しの中で指摘されてきたことだと思います。だから、佳子さんの過去と僕の過去をつないで、ともに未来に進めれば、時には涙をするけれど、でも、きっと乗り越えられると思います」

 僕としては、結構いい答案を書いたつもりだった。

 しかし、佳子さんの採点は、厳しかった。

「それだけ?」

 え、これだけだとダメなのか。じゃあ、もうひとつ。

「いえ、まだあります。一人で感じる幸せって、僕は限界があると思うんです。楽しさは安定的だけど、楽しさの最高記録って、たぶん更新されることはないんですよね。それはたぶん、自分だけの好みのパターンの中にとどまっているからです。それが、二人でいると、自分だけの好みのパターンでは絶対出会えなかった、新たな楽しいパターンに出会えたりすると思うんです。もちろんそれでも一人の方が楽しいという人もいるかもしれませんが、二人を経験してみてから判断した方が、より選択肢が広がるのではないかと思います」

 さあ、どうだ。

「それだけ?」

 ええ、これでもダメなのか。僕は食い下がった。

「いえ、まだあります。愛は将来の保障がない、という点では、今の社会不安と同じみたいに見えますが、でも、愛って過去に裏打ちされ、それが将来にも利益をもたらすという点で社会不安とちょっと違う、プラスの要素を持っていると思うんです」

佳子さんは、なおも厳しかった。

「それだけ?」

 もうネタがないぞ。

「まだ、ダメですか?」

 僕は、すっかり高校生に戻って、チューターの佳子さんに教えを請うていた。敬語を使わないというルールは破ってしまったが、佳子さんはチューターで問題を出しているというようなシチュエーションだったからか、そこは突っ込んでこなかった。

「いまの三つは、ダメな話じゃないけど、誰にでも言える普遍的な話よね。あたしが聞きたいのは、どんな話か、わかる?もっと、具体的な、世界でひとつしかないような、話」

 さらに問題文の難易度が上がった。

 どうしよう、どうしよう。僕は心の中でオロオロし始めていた。

 しかし、ここでオロオロしても仕方ない。何を言えば、一番、佳子さんにヒットするのか。

 いや、そう考えるから、ダメなんだ。

 そうだ、僕と佳子さんだけにわかる話を、しよう。

 僕はそう思い、切り出した。


「佳子さんって、紅白歌合戦みたいですよね?」

「紅白?」

「そうです」

「どこが?」

「いまの紅白って、『今』と『昔』と『大事』で構成されているんです。昔の紅白は『今』だけで構成されていたけれど、いまは音楽の歴史が積み重なったし世の中も複雑になったので、『昔』がかすがいになることが、前より多くなりました。だから、紅白は『昔』という要素を入れて、共感を呼ぶようになりました。それはちょうど昭和から平成に変わった年からです。その上で、最近は『大事』という要素も入れて、歌を通じて大事なこと、たとえば災害からの復興とか人のつながりの大切さを伝えています」

 ここで僕は、少し息を吸った。

「僕にとって佳子さんは『昔』であり『大事』を教えてくれる存在であり、そして、『今』になりつつあります。僕はもともと紅白が大好きで、いつも年神さまを迎えるような気持ちで毎年見ているんですけど、佳子さんはまさに紅白、年神さまだと思います。僕の大事な、そしてこの世でたったひとりの、神様です!」

 僕は佳子さんに、思い切ってこんな話をした。

 こんなマニアックで、誰も考えないような話で、しかも恥ずかしげもない話でいいのか?と自問した。


 すると、佳子さんは大きく目を丸くした後、

「ふふふ」

と笑った。

 そして

「年神さまだなんて、やだなあ」

と、かわいくも嫌がる素振りを見せた。

 ここで僕は、何としても負けてはいけないと思った。

「いえ、佳子さんは、やっぱり僕の、神様です」

 佳子さんは、少し微笑んだ。

 そして、頭を載せた枕をわずかに僕の方に寄せて、言った。


「かみさまもいいけど…」

 佳子さんが、珍しく息を吸った。

「かみさんの方が、もっと、いいかな」


 暗がりの中、少し緊張した笑みを湛えた色白の頬が、一瞬にして赤く染まった。あざやかな場面に、僕は胸を焦がした。 

 すると、佳子さんの目には、笑っているのに、少しだけ涙が見えた。

「よく解けました。これで、入学ね。」

 僕は目を丸くして、佳子さんを見つめた。佳子さんも、僕をじっと見つめてくれた。

 僕は念のため、確認した。

「きょうは『ダア、シャリヤス!』は、ないの?」

「ない、よっ」


 その一言を合図に、僕らの距離は、ついにゼロになった。

 ニアミスを繰り返した末、神様が不手際で僕にぶつけてしまった佳子さんという彗星。その美しい、女神のような彗星の核心に、僕はついに到達した。それからまもなく、僕らの距離は、マイナスになった。二十三年という年月の積み重ねは、信じられない形に、昇華した。


 翌朝の訪れは、ずいぶん遅かった。

 僕が目を覚ますと、佳子さんも、目を覚ました。

「おはよう」

「おはよお」

 佳子さんは思ったよりもさらに色白だった。ふと見ると、佳子さんの白く深い胸元が、ちらりと見えた。

 なんだか、恥ずかしい。すると、佳子さんはもっと恥ずかしい話をした。

「ワンコちゃんって、あたしの匂い、好きでしょ」

「ええっ!」

「しかも、昔から」

「えええっ!」

 なんだ、佳子さんに、僕が佳子さんの匂いが好きってこと、見破られていたのか。しかも、昔、高校生のころから見破られていたのか。

「なんで?」

「そんなの、すぐわかるわよ。だって高校生のときから、私が近づくと、鼻をひくつかせていたじゃない」

「えっ、そんな」

 僕としては、バレないようにやっていたつもりだったが、佳子さんにはすっかりお見通しだったようだ。

「一月に再会したとき、代々木のバーガーでハンカチを渡したでしょ」

「うん」

「あのときも、ワンコちゃん、泣きながら、鼻をひくつかせていたのよね。その様子が、おかしくて、なつかしくて、あと、かわいくて。なんでこの人、こんなにあたしに一生懸命なんだろうって。思わずあたしも、泣いちゃった」

 え、あそこで滝のように泣いたときに、そんなことを思っていたんですか。

「そう、で、それもあって、鼻が利くイヌ、つまり、ワンコと命名したのよ」

「ええーっ」

 まったくもう、恥ずかしいったらありゃしない。僕が布団で顔を隠した。すると、佳子さんは、すかさずフォローを入れてきた。

「でもね」

「なあに?」

「あたしも、ワンコちゃんの匂い、大好きなんだよ」

「え?」

 僕は布団から顔を出した。

「そうなの?」「いつごろから?」

「予備校のときから、ずっと」

「ええっ」

「実はあたしも、ワンコちゃんの隣の席で勉強を教えるのが、楽しみでした」

 そうなんだ。そう思ってくれていたんだ。僕は急に、うれしくなった。

「そうなの?」

「うん」

「えっと、僕の匂いって、どんな匂い?」

「そうだなあ…お父さんに、抱っこされたときの匂いかな」

 「お父さん」というのが、亡くなった養父さんのことなのか、あるいは、じじのことなのかはあえて聞かなかった。でも、佳子さんが、僕をお父さんと重ね合わせて思ってくれていたことに、僕はほんのりとした喜びを感じた。

 昔、何かの本で読んだことがあるが、人は遺伝子レベルで惹かれる異性の匂いというのがインプットされているという。また、匂いに引き寄せられて、知らず知らずのうちに距離が縮まる男女もいるという。僕らはやはり、見えない糸で結ばれていたのかもしれない。

「あとね」

 佳子さんは続けた。

「声に、引き寄せられたような気がする」

「声?」

「そう。ワンコちゃんの声」

「そうなの?」

「うん。なんか、ワンコちゃんの声、響くんだよね、心に」

 それを言われて、僕は佳子さんの最初の電話のことを思い出した。少し甘く、かすかにかすれた声。それを聞いてしばらくしてから、僕は急に、悪寒がするような感じがした。突然インフルエンザにかかったような、あの悪寒だ。でもそれはよくない悪寒ではなく、あまりにもすごいものを聞いてしまったときに来る、いわば感動的な悪寒だった。近い表現に、鳥肌が立つというものもあるが、鳥肌どころではなく、全身がうち震えるような感覚だった。


「僕も、実は最初の電話で、佳子さんの声だってわかったときに、ものすごい震えた」

「そうなの?」

「うん。最初はあまりにも久しぶりでわからなかったけど、話しているうちに、急によみがえってね。声で佳子さんがよみがえってきたんだ」

「へえー」

 坂の上テレビのアナウンサーが言っていたが、声というのは、体中を隅々までめぐりめぐった血液やリンパなどとからみあった呼気が発するもので、人間が普段思っているよりも、はるかに生々しいものであるという。

 それはもう、肉体の一部と言っても過言ではなく、それがたまたま気化しているのに過ぎない。気化はしているものの、そこには魂が宿っていて、何か不思議な力を発揮するという。よく「言霊」というが、それはまさに、この不思議な力のことを言うのだろう。だから歌は感動的になるし、思いもよらない力を発揮することがある。

 今回で言えば、佳子さんの声から始まり、「涙をこえて」という歌の力に引き寄せられ、縁や思い出が支えになって、今、新たな人生が始まろうとしている。


「こ、ころーのー、なかでー、あしたがー」

 佳子さんが「涙をこえて」を歌い始めた。

 一節目のあと、ちらりと僕を見たので、僕が二節目を歌った。


「か、げりを、知らぬ、若い、こーこーろのなかでー」


 それから、一節ずつ、交互に歌った。

 そして、最後の節は二人で歌った。


「かーがやく、あしたー、みつめてー」


 「輝く明日」で二人で大きく手を挙げ、「見つめて」で下げて、上げて。そして、お互いを見つめた。

 いいなあ、この距離。この間合い。僕は、幸せだった。















 三か月後。


 新聞に「山河建物 事業継続へ」という記事が載った。粉飾決算が発覚した後、一時は会社がつぶれるだろうと言われていたが、その後、メインバンクのえびす銀行が最低限の融資を続けるなどしたため、事業はかなり縮小するものの、続けることができるようになったという。

 坂の上テレビの人に話を聞いたところ、大王子観光グループから、えびす銀行に対し、強力に融資の要請があったという。えびす銀行は当初難色を示していたが、大観光グループが関係企業にも説得に入り、理解が得られたため、最低限ながら融資は続けることになったという。

 「大王子観光グループからの強力な要請」ということは、佳子さんが関わっているんじゃないか、と僕は思った。最低限残すことで、みわちゃんが路頭に迷わないようにしたのではないか。

 もしそうなのであれば、すごい話だ。でも、佳子さんならきっとやる。僕はいつものことながら、佳子さんに感心していた。


 僕は相変わらず、気象予報士の仕事をしている。

 一方で最近、たまに母校の大学で講演をするようになった。「恋も仕事も、チャンスは一瞬」という題で、学生たちに、僕が経験したことをボランティアで話す。目を輝かせて聞いてくれる学生の姿が、とてもうれしい。「出会って別れて二十三年も経って、実る恋もあるんだよ」「長い恋の始まりは、この大学を目指したところだったんだ」なんて言うと、学生から歓声が上がる。学生たちにとっては、二十三年なんて、自分の人生より長いわけだから、驚くのは当然だろう。 

 学生のみなさん、人生において学ぶべきことの多くは、人の間にあるからね。それって、あまり教えてくれないけれど、若いうちに、それに気づいてね。そして、いろいろな人に、直接話をしようね。そこで初めて学ぶことはいっぱいあるからね。

 それと、縁とか、思い出とかっていうのは、大事だよ。まだみんなわからないと思うけど、人生深まってくると、縁や思い出の力が大事になるから、縁のある人を大事にして、思い出をいっぱい作ろうね、それが、みんなの人生を豊かにしてくれるはずだから。そんな話をしている。

 そして最後は、ギター一本で「涙をこえて」を歌う。

 この歌は、僕を支えてくれた歌だ。この歌の力で、僕の運命は開けた。歌の力はものすごい。人は誰しも、こうした歌や、支えになる縁、そして思い出が、どこかにあると思う。それは、はっきりと目に見えるものではないけれど、僕たちのことをどこかでそっと、しかし、しっかりと支えてくれている。

 人は生きていると、こういう見えないものの力を忘れてしまうことがあるけれど、見えないものにこそ、目を配るべきではないか。みんな、こういう目に見えないものを大切にしよう。みんな、何かに、そして誰かに、きっと支えられているんだから。支えられていることを忘れずにいると、きっと運が開けるよ。

 そんな話をして締めくくる。中には、涙を流して聞いてくれる子もいる。「ああ、うれしいな」と僕は思う。


 ちなみに僕は、佳子さんと一緒になることになった。

 交際期間はかなり短いし、周りはみんな驚いているけれど、僕たちはあまりにも内容の濃い時間を過ごしたし、それに、もう二十年以上も前から知っているわけだからこれ以上、だらだらとつきあっていても仕方がないと思った。 

 今後、どうやって生活していくのか。それを話すために、僕は佳子さんとたびたび会っている。

 きょうは赤坂見附のホテルに来た。このホテルは大きくて素敵なカフェがあり、僕も佳子さんも気に入っている。

 オレンジジュースを飲みながら、これからの話からマニアックな話までいろいろな話をした。マニアックな話ができる、正しい変態の時間は、僕にとっても佳子さんにとっても、とても貴重で、ここでお互いしか知りえないことを交換し合っている。

 あっという間に時間が経った。

「じゃ、行こうか」

「うん」

 僕と佳子さんは、席を立ち、店を出た。

 しかし、少し歩いたところで、足元がふらついた。佳子さんは、ホテルのふかふかのじゅうたんに、膝をついた。

「うう」

 どうやら、吐き気だ。僕はいつものように言った。

「鼻で、息して。すーっと」

 

 しかし、この日の佳子さんは、言うことを聞かなかった。

「いいの」

 僕はちょっと困った。

「どうして?」

「これは、いい吐き気なの」

 いい吐き気?鈍感な僕は、ちょっとわからなかった。

「あのね、ワンコちゃん」

 そう言うと、佳子さんはそっとみぞおちの下あたりに、やさしく手を当てた。それを見て、僕の頭は、真っ白になった。そして、顔が真っ赤になった。

 これが、涙をこえたということ、なのか。

 涙は、心の雨なのか。

 涙をこえたら、心の中に、虹が出るのか。

 君こそ命。涙をこえて、生まれる命。

 

 すると、披露宴を行っていた近くの宴会場から、「こんにちは赤ちゃん」の演奏が流れてきた。このタイミングで、なんて偶然なんだろう。この曲は―「涙をこえて」と同じ、中村八大先生の曲だ。ああ、今日も縁でつながれている。佳子さんもそのことに気づいたのだろう。笑った。


 「こんにちは赤ちゃん」は、まるで宴会場を突き抜けるような明るさで流れていた。旋律が、うねりのように聞こえた。

 僕は、輝く明日を、見つめたくなった。



(終)



 お読みいただき、ありがとうございました。


 私は小説など書いたこともなかったのですが、平成の終わりに起きたこの話の元になった出来事が、あまりにもまぶしかったため、書きたい、そして、誰かに読んでほしいと思い、書き始めました。書きたかったのは、縁の大切さ、スマホに過剰に頼る今の時代の危うさ、男性の甘さと軽さ、女性の美しさとしたたかさです。「スポーティ、スピーディ、セクシュアリティ」がテーマだった昔の紅白歌合戦と同じように、「軽快で、素早く、男女が激しくぶつかる、緊張感のある構成」を目指して書きました。


 平成も終わった今、昭和の歌に助けられる人がどれほどいるのかわかりませんが、歌や人の縁は、きっといつの時代も縁の下の力持ちとなって、一人一人を支えてくれているのだと信じています。それが少しでも伝わると、幸いです。


 ちなみに、タイトルに「。」がついている理由ですが、文中にも出てくる「君の名は。」にあやかったという点がひとつ。そして、縁で結ばれる話なのでタイトルも円、つまり「。」で結びたかった、という点がもうひとつの理由です。


 もし、感想などお寄せいただければ幸いです。ありがとうございました。



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[一言] すごく良かったです。
[一言] えっ?!これ男側浮気して浮気相手と幸せになって終わり?縁って言葉で綺麗事で片付けようとしてるけど明らかに最低なことしてる人が幸せになって終わるのが釈然としない。
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