第1章 黒羽と水晶の眼
第一幕:霧と血の匂う夜
ロンドンの霧は、決して純粋な白ではない。
そこには常に、吹きすさぶ鉄くずと腐敗の混じり合った濁った臭いが漂っていた。まるでこの街が、人目に触れさせたくないすべての罪深い秘密をその冷たい夜色に溶かし込み、何食わぬ顔のまま通行人たちの肺へと吐き戻しているかのように。
特に、「霧鴉街六番地」の近辺における深夜は、その臭いが一段と濃くなる。鼻腔を突く塩気を含んだ生臭い鉄の味が、舌の根へと嫌に広がるほどであった。
「コルヴォス、目標が入ったぞ。三時の方角、廃肉類加工工場だ」
その声は、人間の喉から発せられたものではない。コルヴォスの脳内へと直接響いたその声は――低く、しゃがれており、鳥類特有の乾いたカサついた質感を帯びていた。
コルヴォスは、その加工工場の向かいにひっそりと佇む、崩れかけた屋根の下に立っていた。
身に纏う着古した黒のロングトレンチコートの襟を極限まで高く立て、その顔の大部分を深い陰影の中に隠している。ただその露わになった右目だけが、通りの向こう側にある、歪んだトタンの古い扉をじっと射貫くように見据えていた。
夜風が砕けた冷たい雪を巻き込んでレンガ壁の隙間をかすめ、まるで獣のようなかすかな唸り声を上げているが、彼は微動だにしない。
彼は緩やかに右手を挙げ、そのしなやかな指先で、自らの右目をそっと覆った。
その手掌が眼の周囲の皮膚に触れた瞬間、彼の端正な眉間に、微かな幽藍の光がふわりと浮かび上がった――それは、右目に深く埋め込まれた特異な魔具「水晶の眼」が完全に覚醒した合図であった。
魔力が一瞬で脳内と同調し、コルヴォスの視界が一変する。
水平だった肉眼の視界が空中へと強制的に引き上げられ、上空を舞う魔物の複眼視界へと瞬時に転換された。
暗視、動体捕捉、さらには空気中に微かに残留した魔力の痕跡までもが、肉眼で見える具現化した紫色の煙となって、彼の目の前を緩やかに流れていく。それはまるで、夜空に幾重にも漂う蜘蛛の糸のようであった。
――それこそは、彼の相棒である魔鴉「クロード」の双眼であった。
その時、クロードは加工工場の広大な天井裏の空中で優雅に旋回していた。
羽先をほとんど動かさず、冷たい気流にその身を完全に任せて滑空する。割れた天窓の隙間を通して、工場内部のあらゆる細やかな動向が、鮮明な映像となってコルヴォスの脳内へと直接送り届けられてくる――。
床に散乱した重い鉄鎖、風化した黒ずんだ血の痕、そして部屋の隅に転がる、恐怖に震えながらも微かに息をする弱々しい体温。
「下級の『ブラッドハウンド・デモン』が一体……それと、古い椅子に縛り付けられた人間の少女が一人か」
コルヴォスは、氷のように冷徹な声で呟いた。
「どうやら、見事に見計らったちょうど良い時間に着いたようだな」
彼は、そっと右手を下ろした。
コートの引き締まった襟を引き下げた瞬間、そこに露わになったのは――。
人間らしい感情の揺らぎを一切感じさせない、晶瑩にして冷徹な、青く輝く「水晶の義眼」であった。
瞳孔の収縮もなく、まばたきすらすることなく、ただ暗い眼腔に嵌め込まれた冷たい宝石のように、一定の幽光を放ち続けている。
そして、その黒いコートの左袖口からは、重々しい機械ギアの精緻な噛み合い音が「カチ、カチ……」と低く、不気味に響いていた。それはまるで、暗い地中で獲物を狙う潜伏怪物の、静かな鼓動のようであった。
この冷たい身体の構造こそが――あの血塗られた悪夢の夜が、彼に遺した消えぬ「烙印」にほかならなかった。
十年前。
予兆もなく、突如として彼の家を襲撃した無数の魔物たち。
あの夜の、耳を劈く凄惨な悲鳴、ドス黒い血の海に倒れた両親の無残な姿は、今なお彼が毎夜の睡眠の中で反復して噛み締める、逃れられぬ悪夢だった――。
たとえどれほど深い睡眠の淵に沈み込もうとも、あの焦げた肉と血の入り混じった生臭い悪臭が、狂いもなく彼をガバッと叩き起こすのだ。
あの時、通りかかった謎の魔術師が偶然にも手を差し伸べ、魔物を討ち取ってくれなければ、彼は疾うに冷たい枯骨と化していたはずだった。
かろうじて命だけは生き残ったものの、彼はその代償として、自らの左腕と右目を永久に失ったのである。
その時、目の前に立った魔術師は、冷酷にこう告げた。
――『これはお前への贈り物ではない、コルヴォス。これは、お前が自らの手で闇へと復讐を果たすための……痛ましい代償なのだ』
第二幕:滅魔砲の閃光
「コツ、コツ、コツ……」
コルヴォスは、重い革ブーツの踵を石畳にしっかりと踏み鳴らしながら、加工工場の腐朽した木製の重扉をドンと押し開いた。
古びた蝶番が、歯の浮くような耳障りな悲鳴を上げ、堆積していた錆の粉が彼の肩へとパラパラと降り注ぐ。
工場内の薄暗がりの中では――。
体長二メートルを超え、全身が醜悪な腐肉と鋭い骨刺で覆われた異形の犬型魔物が、床に怯えてうずくまる少女に向かって、気味の悪い粘り気のある唾液をたらたらと垂らしていた。
その喉の奥からは、これから手に入る生きた獲物を前にして、喜びをかみしめるような低いグルグルという野太い唸り声が響いている。
突然の開門の音を聞きつけると、魔物は不意にその巨大な首をギュッと巡らせた。
血のように赤い双眸でこの不審者を死に物狂いで見据えると、その大きな鼻翼をピクピクとひくつかせ、空気中に漂う見知らぬ人間の匂いを敏感に嗅ぎ取る。
「――魔物探偵事務所、コルヴォスだ」
彼は淡々と歩を進めながら、緩やかに左手の黒い革手袋のボタンを指先で外した。その語調は、これから死地に向かう者とは思えぬほど、まるで役所に自分の名前を事務的に記帳するかのように淡々としていた。
手袋がスルリと滑り落ち、その下から露わになったのは――生身の人間の皮膚などではなかった。
それは、重厚な暗金色の魔法金属によって精巧に鋳造され、その冷たい表面に無数の複雑な錬金符文が刻み込まれた、禍々しくも美しい「機械義手」であった。
彼がさらに一歩を踏み出すにつれ、その義手に刻まれた符文がひとつ、またひとつと危険な赤光を妖しく灯し始める。
それはまるで飢えた野獣の低い鳴き声のような駆動音を立て、金属の指関節同士が擦れ合って、細かな「カチ、カチ、カチ……」という乾いた機械音を響かせた。
魔物は、目の前の人間から放たれるただならぬ脅威を本能で察知した。
狂暴な咆哮を喉から爆発させると、その強靭な後肢でコンクリートの床を激しく蹴り砕き、黒い残像となってコルヴォスめがけて一気に襲いかかった!
鋭利に尖った巨大な爪が、彼の細い喉元を真っ直ぐに狙い撃つ!
「――遅い」
空中にいる相棒・クロードの上空視界による完璧なサポートのもと。
一見すれば神速に見える魔物の突撃の軌道も、コルヴォスの「水晶の眼」には、隙だらけの滑稽な動きにしか映っていなかった——。
重心のわずかな偏り、筋肉が爆発的に緊張する前の前兆、そのすべてが紫色の魔力軌跡によって、あらかじめ彼の脳内に描き出されていたのだ。
彼は最小限の動作で的確に身をかわす。魔物の鋭い爪は彼のコートの裾をかすめて空を切り、背後にあった古い木箱を木端微塵に粉砕した。乾いた木屑が、まるで雪のようにあたりへ激しく飛び散る。
すれ違いざまのコンマ一秒の隙を利用し、コルヴォスは流れるような身のこなしで身を翻した。
そして、ずっしりと重い金属の塊である左腕の義手を、そのまま魔物のガラ空きの腹部へと真っ直ぐに押し付けた!
義手の五指がガチリと強く握り締められ、内部の精巧な金属関節が甲高い爆音を立てる。
「滅魔砲——フルチャージ!」
刹那。
周囲の空間に漂っていた遊離魔力が、狂ったように彼の左手へと一点集中で吸い寄せられていく。
暗金色の機械腕の上に刻まれた無数のルーン文字が、眩いほどの純白の光を爆発させた。
工場内の温度がわずか一瞬で急激に上昇し、強大なエネルギーの波動が周囲の大気を激しく、歪に捻じ曲げる。それはまるで、煮えたぎる分厚いガラス越しの世界を見ているかのような錯覚を引き起こした。
魔物は、ここでようやく自らの逃れられぬ死の恐怖を悟った。
その赤い瞳に激しい狼狽の色を走らせ、巨体を後ろへ引こうとあがいたが——すべては、すでに手遅れだった。
「——消え失せろ、雑魚が」
「轟――――――ッ!!」
耳をつんざくような破壊の轟音が、夜空を切り裂いて響き渡る。
眩いほどの白色の光束が、すべてのものを飲み込む破壊的な濁流と化し、一瞬にして魔物の強靭な巨躯を芯から完全に穿ち抜いた。
聖性と毀誉褒貶が同居する複雑な魔力を伴ったその凄まじい衝撃波は、わずかマイクロ秒の内に魔物の肉体を体内の核ごと綺麗に蒸発させ、一滴の血すらこの世に残さなかった。
眩い光がスーッと消え去り、焦げ付いたコンクリートの地面には、一筋の黒煙が虚しく立ち上るのみとなる。
空気中には、焼き焦がした砂糖のような、奇妙に甘く、そして生臭い魔物の残り香が満ちていた。
コルヴォスは、わずかに熱を帯びた左腕を軽く一振りした。
内部の機械ギアが「カチリ」と心地よい音を立て、再び完全なる静寂へと戻っていく。
彼はその場に歩み寄り、怯えて震える少女の縄目を、右手の指先で優しく、丁寧に解きほぐした——その動作はあまりに慎重で、まるで数多の魔物を冷酷に屠ってきたその己の手が、目の前の怯える少女を少しでも怖がらせてしまうのを、心の底から恐れているかのようだった。
彼は、先ほどまでの冷徹な声色をスッと緩め、どこか温和で、しかし少々の疲労を滲ませた優しいトーンへと切り替えた。
「もう大丈夫ですよ、お嬢さん。……依頼は、これにて完了です」
その時。
夜の帳のように漆黒の羽をまとった一羽のカラスが、頭上の割れた天窓から静かに舞い降り、彼の暗金色の魔具義手の上にしっかりと留まった。
クロードは愛らしく首をかしげ、しゃがれた声でカーと低く鳴いた。
まるで、今日の自らの完璧な偵察の功績を、主人の前で誇らしげに誇示しているかのように。
コルヴォスは、青く冷たい水晶の眼で、窓の外に広がる重い夜空を見上げた——。
霧は依然として晴れる気配を見せず、遠くの教会の尖塔から、夜を告げる鐘の音がかすかに届き、重々しく十二回を数え終えた。
この世界から、魔物が尽きることはない。
彼の果てしなき復讐と、孤独な探偵の日々は——今、再び音を立てて動き出したばかりであった。




