第2章 海月精霊は企む。①
王宮への帰りの馬車に乗り込むと、ナーディルは深く息を吐いた。
夕闇が王都に迫る中、馬車は静かに進んでいく。
向かいの席のビーナームが声をかけた。
「お疲れになりましたか」
「いや……
――そうだな。少し。
今日は、いろいろあり過ぎた。」
――アル=ナシーム家の商館での歓待は、急な来訪にも関わらず、ナーディルの目から見ても行き届いたものだった。
「殿下、お茶と果汁、どちらがお好みですか!?」
「南国の珍しい果実もあるのですが、牛の乳を発酵させて甘味をつけたものもあるのです!これが、シュワッとするのです!」
「シュワッ?」
紫の眼をきらきらと輝かせ、ユスフが選択を迫る。
困惑するナーディルに、ピラールがとりなすように声をかけた。
「ご紹介をお許しください。
これは、我が弟、ユスフと申します。アル=ナシーム家の次男にございます。
……わたしどもの護衛についておりますのは、ナジュムと申します。
ご覧の通り、我が一族の者にございます。」
ナジュムが無言で目礼をした。
ここまでの様子から気づいていたが、ナジュムは「兄さま」と呼ばれているものの、実の兄妹ではないらしい。
が、ユスフとピラールの態度を見るにその関係はかなり近しいようだ。
ナーディルは用意された果汁も発酵させた飲み物も、すすめられるまま、ビーナームと共に一通り味見をした。
――なるほど、泡立った飲み物は、口の中でシュワシュワと弾けていた。
結局、二人ともさっぱりした風味のお茶を選び、渇いた喉を潤した。
人懐っこいユスフは、その発言の通り、いたって食欲旺盛だった。
自分で食べるだけでなく、その合間にナーディルにもしきりに茶請けをすすめてきたものだから、すっかり満腹になってしまった。
……外交に向いているかもしれない。
王宮には、ナーディルより年下の子どもはいない。
たまに、貴族の子弟にご機嫌伺いされるが、滅多に年下には会うことがない。
――姉王女からは、自分はこんな風に見えているのだろうか。
そう思うと、どこかくすぐったかった。
「ユスフ殿。尋ねてもよいか?」
「なんでしょう?殿下」
ナーディルは咳払いをした。
「――巷に、“海月精霊”の話がある、と耳にしたのだが……」
ゴフッ、とむせた音がした。
ナジュムだった。
ユスフが心得顔でうなずいた。
「ああ、姉上のことですね。
あの魔術外衣で、海で溺れた男の子を助けたら、『海月の精霊が出たー!』って騒がれて…」
「魔術外衣?」
聞きなれない言葉に、ナーディルが聞き返すと、ピラールが先ほど脱いだ被り物を軽く持ち上げた。
「これのことです。つい最近、完成したものですが――
魔術技術で開発された、身につける魔法陣、とでも言いましょうか。
わたしのために作られたこの衣装は、外部の影響から――特に、太陽の害から、身体を守ってくれます。
――わたしの肌は、陽光を浴びると、灼けただれてしまうのです。」
さらりと語られた告白に、ナーディルは返答につまった。
精霊を思わせるピラールのその色彩が、美点などではなく、太陽の恩恵から見放された結果なのだと悟ったのだった。
その空気を無造作に払ったのは、やはりユスフだった。
「『海月精霊』の噂なんですけどね?」
「しょうがないかなーとは思うんですよねー。
この魔術外衣って、水に入ると丸く膨らむんですよ。水の上に出たとこだけ。
……ええっと、こう、お風呂とかで布を広げて、そおっとお湯につけるっていうか……」
ユスフが懸命に仕草で説明しようとしているのが伝わってきた。
幸い、というべきか、ナーディルもそれは覚えがあった。
姉王女が侍女とともに、幼かったナーディルの入浴の世話をしてくれたことがあった。
理由はおぼえていない。ナーディルが我がままをいったのだろうか。
そのとき、姉王女がやって見せてくれた記憶がある。
「で、それが海月そっくりで。
その上、なんでか、姉さまのまわりに、本物の海月が、わらわら集まってきちゃったらしくて…
――あ、その子も姉さまも刺されなかったんですけど。
もう、次の日から、『海月の精霊』とか、『海月のお姫様』とか評判になっちゃったんです。」
ユスフの説明の間、「ほうほう」と相槌を打っていたビーナームは、しまいには遠い目になっていた。
そして、さきほどむせていたナジュムは、今はうつむいて肩を小刻みに震わせている。
やめてほしい、とナーディルは思う。
――我慢できなくなるではないか。
先ほどの、ゆらゆらと歩くピラールの姿が、海でわらわらと寄ってきたという海月の群れの主のようにしか思えなくなってきた。中身の印象が負けてしまう…。
ナーディルは、必死に違う話題を探した。
「海月精霊」の話題を挙げたのは迂闊だった。
だが、この外出はもともと、姉王女へ海月精霊の飾り物を買う目的だったのだ。
それ以外に、なにか話題は……
そこで、ピラールが口を開いた。ナーディルの苦悩には気づかないのか。
「不夜祭のモチーフも、海月精霊になってしまいました。
取り仕切っている叔父のラシードが、
『流行っているなら好都合だ』と言い出しまして……」
言いかけて、ふっと耳をすます仕草を見せた。
「……ちょうど、来たようですわ。ご挨拶をさせて下さい」
使用人の取次によって、入室してきたその人物に、ナーディルは見覚えがあった。
アル=ナシーム家の当主と共に、表敬訪問を受けた記憶がある。
たしか――
声をあげたのは、ビーナームだった。
「これはこれは。蒼鯨船団の船団長、ラシード殿」
恭しくも快活な動作で、礼をとったのは、背の高い貴公子だった。
ピラールやユスフとの血縁を感じさせる紫の眼に、光が踊っていた。
――この状況を、面白がっているのか。
「これは王太孫殿下。ご機嫌麗しく――。
アル=ナシーム家当主が弟、ラシード・アル=ナシームにございます。
我が姪たちがいたくご迷惑をお掛けしたとか…。
本来なれば、当主自らが礼を尽くすべきところではありますが、生憎と叶いませず、この愚弟がまかり越しました次第。汗顔の至りにございます。」
言葉ほど恐縮してはいない。だが、嫌味も感じられない。
「殿下におかれましては――」
「いや、ラシード殿」
滔々と続くラシードの口上をナーディルは、そっと押しとどめた。
「我は、微行ゆえ。仰々しい礼は無用に願いたい。」
「――恐れ入ります。」
ラシードの返答は当然だが、ナーディルは、少し落ち着かなかった。
――気づけば、この場の流れはラシードのものだった。
ふわり、とナーディルの傍らに座を占めたラシード。
とたんに、なごやかな空気が生まれた。それにナーディルは驚いた。
――身のこなしだけで……?
あと、実はもう一点、気にかかっていることがある。
ラシードが座に向かう途中、ナジュムの後ろを通ったとき――その頭に触れたように見えたのだ。
というか、“小突いた”。
されたナジュムは、一瞬、まばたきをしただけだった。
黙っている。我慢、とも見えない。
さりげなく、その後もナジュムの様子を見ていたが――
むしろ、刺々しさが抜けたように思えた。なぜか。




