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第1章 海月精霊は誘う。②

 港の市場から大きな通りを隔てた辺りで、ナーディルは馬車を下りるよう促された。

 王城出入りの商人から借り上げた馬車である。残念ながら、調達したのはナーディル自身ではない。

 それほどの才覚は、王城生まれ・王城育ちの一四才にはなかった。そもそも歩いていけるはず、と思い込んでいたので、その手配など思い付きもしなかったのだが。


 微行(おしのび)を決めて、さっそく鍛錬用の稽古着に着替え、財布がわりの布袋を懐にしまいこみ、ナーディルはいそいそと自室から抜け出た。

 王太孫であるナーディルの部屋の隣には、取次役の侍従のための控えの間があって、出入りする者は、皆そこを通過しなくてはならない。無論、ナーディル自身もだ。手立てが必要だ。

 

 が、稽古着姿のナーディルに、侍従は軽く会釈しただけで、あっさりと通してくれた。心の中で用意していた言い訳はどうやら不要だった。

 

 最初の関門を難なく越えた、と思ったのも束の間。

「おや、殿下。なにやらご機嫌ですな」

 ふいに背中から声をかけられて、ナーディルはぎくりと固まった。


 コツコツと床をうつ聞きなれた杖の音。

 振り向きたくはなかったが、振り向かないわけにもいかないナーディルはそこに、朗らかな表情の老爺を見出した。「……じい」


 白髪に白い髯をたくわえた浅黒い顔に浮かんだ、からかうようなその表情に、「ご機嫌なのは、じいのほうだろう」という言葉をナーディルはのみこんだ。

 

 どこにでもいるようなありふれた風貌の老人だが、ナーディルは勝てる気がしなかった。

 なにせ、自分が生まれたときから世話になってきた相手だ。なにもかも知られすぎていて分が悪すぎる。


「おでかけですかな」

 直球すぎる言葉に、ナーディルは迷わず白旗を上げた。

 判断は早いのだ。


 全面降伏したナーディルは、海月精霊の飾り物の計画を打ち明け、じいに導かれるまま、稽古着から別の服に着替えさせられ、じいがいつの間にか手配した借り物の馬車に乗せられていた。


 こうして心躍る小さな冒険は、保護者同伴の「おでかけ」になってしまった。


 ナーディルにとってじいは手強い。

 だが、そのぶん、頼りになる味方でもある。

「肝心なところで迷ったら、じいの言葉を聞きなさい。」

 と姉王女にも、つねづね言い聞かされている。


 姉王女はさらに続ける。

「今はまだ、あなたは間違って当然です。間違いは恥ではありません。そこから学ぼうとしないことが恥なのです。」


 本当に十代の姫君だろうか。年を三十歳ばかりごまかしてはいないだろうか。

 ——ときどき、本気でそう思う。

 

 現実逃避のように、そんな思惟をめぐらしているナーディルの向かいには至極当然のごとく、じい——名をビーナームという——が座を占め、この辺で馬車を下りますぞ、などと指図していた。

「天気がようございますな、ぼっちゃん。おでかけ日和でなにより」

「……なぜ、そんな呼び方をする」

「微行でございますぞ。今日のあなた様は、商家の跡取り息子。厳しい家庭教師の目を盗んで市場へ遊びへ行かれる途中。忠義に篤いこのじいめがお目付け役として同行しておる次第」

 ナーディルは口をとがらせた。

「これでは、世間知らずの子どもが子守りされているようではないか」

 ビーナームはすました表情で深く頷いた。

「よくおわかりで」

 

 馬車から降りた途端、潮を含んだ独特の空気がナーディルを包んだ。

 回数こそ多くはないが、王太孫としての市井への訪問のたびに、この匂いはナーディルの胸を高揚させてきた。

 海を渡り、この地へと根付いた遠い祖先の血だろうか。


 ビーナームの先導で市場へと足を向けると、潮の匂いに混じって、雑多な匂いがどっと押し寄せてきた。

 その一つ一つを嗅ぎ分けることはナーディルにはできないが、それが人々の生活によるものだということはわかる。

 道を行きかう人々の姿もさまざまだ。王宮の貴族や使用人たちのように華やかな衣装ではないが、そのかわりに皆、生き生きとした活力に満ちている。

 通りすがりの男同士の怒鳴りあうような会話にナーディルは目を瞠り、その後すぐに笑って肩をたたきあう姿に目を丸くする。

 並べられた品物を売ろうと声をはりあげる若い女に「ぼっちゃん」と呼びかけられ、どう返事しようとまごつくナーディルの背をビーナームがぐいぐいと押して進む。

 

 気をひかれるものを目で追うのに忙しいナーディルの視界の端をふと、白い影がかすめた。

 反射的に振り返ると、ふわふわとした白い塊がひらひらとはためきながら、ちょろちょろと走り回っていた。

 なんだ、これは?とまじまじと観察するナーディル。

 一つ発見すると、市場の雑踏に他にもちらほらと小さな布の塊が混じっていることにすぐ気づいた。みんな、もぞもぞと動いているが、誰も気にはとめていないらしい。

 

 二、三体が集まったその群れの中から、甲高い歓声を響かせた一体が振り返る。

 と、布に囲まれた小さな子どもの笑顔がのぞいた。


 どうやら子どもが頭からすっぽりと大きな1枚布をかぶり、顔だけを出す格好をしているらしい。

 さらに見守っていると、その子どもが、ゆらゆらと体を揺らし始めた。すると、他の子どもたちも、一緒になって、ゆらゆらと左右に揺れる。タイミングがずれて、隣同士でぶつかり合ったりしている。

 それが面白かったのか、ふたたび笑い声が弾けた。


 つられて顔がゆるんだのは、ナーディルだけではなかった。

 近くの出店の者が、子どもたちに声をかけた。

「おや、かわいらしい海月精霊さんたちだ。ふざけすぎて、転ばないようにおしよ」


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