第3章 海月精霊は仕掛ける。③
ナジュムの圧に、ナーディルはしぶしぶと椀に口をつけた。
まぶたをきつくつむったまま、一口飲み込む。すると、その目が見開かれた。
一拍おいて、ナーディルはごくごくと甘湯を飲み干した。
勢いがよすぎて、咳き込んだナーディルの背中をナジュムは思わず、さすった。
それがきっかけになったのか。
ナーディルの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
ナジュムはさりげなく姿勢を変えて、ナーディルの顔を周囲から隠した。
壁際の卓でよかった、と思いつつ、手がナーディルの頭に伸びそうで、困った。
――そこから、ナーディルに事情を聞きだす合間に、どうにか、粥を半分ほど、食べさせた。おかげで、少しだけ血の気が戻ってきたようだ。
しかし、重い口から語られたその内容は――
――ナーディルは、「迷宮書楼」を知らなかった。
王宮では、その名は禁句だったということすら、ナーディルは知らされずにいたという。
なぜなら――
――我らは、呪われているから、と皆、思っていたのだ――。
その言葉に、ナジュムは息を飲んだ。
――ピラールは、屋敷の奥の居室にひとり、こもっていた。
天蓋から垂らした幕が光を遮り、昼間だというのに、寝台の中は真っ暗闇だ。
ピラールには、慣れた暗闇だ。
この暗がりと、白い壁が、ピラールの記憶の初めだった。
―― 幼い日。
わたしは、世界のはてを知っていた。
世界のはては、白い壁。
ぐるりと囲むそれは、ひんやりとした手触りで。
見上げれば、天井には十重二十重の薄い紗が張り巡らされて。
今、思えば、それは繭のようだった。
わたしは、繭の中に産み落とされ、繭の中でまどろみ――
いつか、繭の中でおわりをまち続けるのだと。
わたしは、知っていた。
そして、なにも知らなかった。
わたしの周囲は、いつも静かだった。
わたしの他は、誰もそこには長くとどまらない。
弱められた光が、ようやく届くその空間は薄暗く。
色とりどりのモノで満たされていた。
わたしには、その鮮やかさがわからなかったけれど――
わたしを囲んでいたモノは
“優しさ”だった、と思う。――今なら。
太陽の光のもとで生きることができない子どもに、外の世界を知らせないこと。
外への“憧れ”を持たせないこと。
――それは、思いやりだった、と思う。
身動きもできない、優しい繭の中の日々。
「……ねえさま……?」
そのとき、扉の外からひそめた声がした。
「ここだよ。」
ピラールは、すぐに応えた。
ユスフには、そう答えてきた。
ずっと、「いないよ」と言えば、自分は本当に世界から消えてしまうのだと思っていた。
足音を忍ばせて、ユスフが寝台の幕の端をそっとめくった。おたがいの紫の目が、暗がりの中で静かに向かい合った。
「……ねえさま。具合、悪い……?」
ピラールは小さくかぶりを振った。
「ううん。大丈夫だよ。」
ごそごそと寝台に上がりこんだユスフは、ピラールの横に並んで寝ころんだ。
「……心配なの?お師匠様のこと……」
「……」
ピラールは天蓋に目をむけた。
言葉をさがす。
二人の静かな息遣い。
目を瞑っても、ピラールもユスフも、消えたりはしない。
あたりまえのこと。――だが、幼いピラールには、それがわからなかった。
――それを知ったのは、
「……わたしを外に連れ出してくれたのは、ユスフだったね。」
「それで?」とユスフの眼が続きをうながしてきた。
「……ずっとね。ものの本当の色が、わからなかったの。色の名前も、違いも、なにも知らなかったの。」
ピラールが体を起こすと、髪が肩から滑り落ちた。
小さく、ため息をもらす。
「知らないってね、知らないことさえ、知らないことがあるんだよ。」
「お師匠様はね。本当の色の名前も知ってる。外の世界も、みんな知ってる。」
「……でも、外に出られなくなって。
あの迷宮書楼の中で、なにもかも忘れてしまって…
ううん。忘れようとしている。なにもかもから、目を背けて。暗がりに、閉じこもり続けようとしてる。
……わたしね。
ここから出なかった頃、目を瞑って、声を出さない間は、わたしは世界からいなくなってしまうんだと思ってた。」
ユスフが、息を飲んだ。
「――わたし、お師匠様に、消えてほしくない。
だから、呪いをときたいの――」




