プロローグ 嵐の夜の書楼
ペンネームを変更してから、初の投稿です。
『迷宮書楼の不夜祭』です。
よろしくお願いいたします。
日中から降り始めた雨は、夜も更ける頃には激しい風を伴う嵐へと変わっていた。
荒れ狂う風雨が外壁を激しく打つ。だが、堅牢な造りの書楼の内部は、その音を除けば静まり返っていた。
鎧戸を下ろした内壁に、手にした蝋燭の火影が頼りなく揺れる。
嵐による異状がないか確かめるため、ファーリスはひとり巡回していた。吹き抜けの螺旋階段を一歩一歩踏みしめていく。
そのときだった。
ふと、湿った空気に、かすかな異臭が混じた。
鉄のような、重い匂い。
ファーリスは足を止めた。
壁かけの燭台に蝋燭を灯して回れば、この暗闇をいくらか和らげることもできるだろう。
かつて王室の直下にあり、多くの使用人が行き来していた頃ならば、それも容易いことだった。
だが、今は違う。
仮にも王子である――今はまだ、そのはずだ、と彼は苦笑した――
王子自らが、嵐に備えて見回らねばならぬのだ。
再び、あの異臭が鼻を刺す。
……血だ。
それも、まだ生々しい。
無意識に脇へ手をやる。
――ない。
十三歳の生誕の日、軍へ奉職した折に授けられた剣だ。
兄王太子と父王の連名によるものだった。
それは、もうここにはない。
今の彼の手にあるのは、震える蝋燭の火だけだ。
ファーリスは躊躇うことなく、一息で蝋燭を吹き消した。
闇が降りた。
この書楼の間取りは、体が覚えている。
幼い頃から足しげく通った場所だ。
兄に会うために。
そして兄が垣間見せてくれた、知の世界への扉――
あの日、叱責を受け蟄居を命じられてからは、他に行き場もなく、ここに籠り続けているのだ。
誰にもひけをとるつもりはない。
嵐でなければ、吹き抜けの天窓から月明かりが差し込んでいただろう。
だが今、書楼を支配しているのは完全な暗闇だ。
刹那、稲光が闇を裂く。
一拍遅れて、雷鳴が轟く。
梁の陰が、牢の格子のようにファーリスを囲んだ。
続けざまに閃いた稲光が、階上にくっきりと人影を照らし出した。
その影は反射的に腕をあげ、顔を覆った。
見覚えのない男だ。
咄嗟にそれだけを見てとると、ファーリスは身を低くした。
奴は頭上だ。
ファーリスは手の中の燭台を全力で投げつける。
狙い違わず、鉄製の燭台は男の脛に命中した。
鋭い悲鳴。
男の体勢が崩れる。
階を踏み外す。
次の瞬間、男の体は吹き抜けへ向かって落ちた。
落ちていく影を追って、ファーリスは闇へ身をのりだす。
そのとき、禍々しい異音が吹き抜けに響いた。
かつて討伐した魔獣の断末魔が脳裏をよぎる。
絶叫に世界が揺らぐかに思えた。
激しい眩暈に、たまらずファーリスは膝をついた。
それから、どれほどの時間、そこにうずくまっていたのか。
ようやく眩暈がおさまり、辺りの気配を探ったが、なにも感じられない。
先ほどの血の匂いもわからなくなっていた。
埃の匂いばかりが鼻をつく。
立ち上がったファーリスは愕然とした。
歩けない。
前に進もうとして、あるはずの階段がない。
見上げても、天窓の位置もわからなかった。
行くべき方向がわからない。
その恐怖に体がすくんだ。
雷鳴がかすかに轟く。
なのに視界は暗闇のままだ。
辺りの様子は一変していて、まるで知らない場所にしか思えなかった。
ーーやがて、ファーリスは悟る。
自身がここに置き去りにされたのだと。
彼は、その夜を境に、兄王太子とも父王とも、生きて再会することはなかった。
その夜、王太子アディールは王宮から忽然と失踪した。
父王は凶報を受けて倒れ、ほどなく崩御した。
その事実は、異母弟カーミルの慌ただしい即位の報せとともにもたらされた。
それから――数十年後。
ピラールは、薄い胸いっぱいに大きく息を吸った。
特に意味はない。
ピラールがまとっている魔術外衣は、水中でも呼吸ができる。
それはすでに実験済みだった。
ただ――彼女なりに、心の準備が必要だったのだ。
気合を入れる、というやつだ。
ピラールは、海面に向かって、地面を力強く、蹴った。
体が、軽やかに宙を舞った――はずだった。
実際には、奇妙な白い布の塊が落下したようにしか見えなかったが。
あわてなければ、自然に頭が水の上に出るのだ、と教えてくれたのはお師匠様のファーリスだ。
確かに、一瞬沈みかけた後、体はぷかりと浮かび上り、ピラールの顔は海面に出た。
それに安堵しつつ、あたりを見回す。
強い陽射しが、目を射る。
魔術外衣のおかげで害はないとはいえ、まだこの眩しさにはなれることがない。
あんなに憧れた太陽は、存外意地悪だった。
ピラールはそんなとりとめのない感慨の間も必死に、目をこらしていた。
幸い、すぐそばに激しい水しぶきを見つけた。
溺れかけている子どもだ。
ピラールは足をばたつかせながら、精一杯、その手を子どもに向けて伸ばした。
その動きが誘いになったのか。
いくつもの半透明の生き物が寄ってきていることに、彼女はまだ気づかない――
※本日、第1章③まで一挙投稿しています。




