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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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エルネの帰る場所

エルネは、長い間ひとりで約束を守ってきました。


 けれど今、アイリシアの塔とルグナの星灯坑が繋がりました。


 帰る場所は、一つだけではなくていい。


 このページでは、エルネが“守る場所”と“帰れる場所”の違いを知っていきます。

エルネがルグナで迎える初めての朝は、黒麦パンの匂いから始まった。


 彼女は黒麦亭の二階の小さな部屋で目を覚ました。


 窓の外では、人々の足音がする。


 炭鉱へ向かう男たちの低い声。

 井戸端で水を汲む女性の笑い声。

 子どもたちが誰かの名前を呼ぶ声。

 そして遠くから、リリアの歌が聞こえてくる。


 ――朝は、名を忘れぬ者の上に来る。


 エルネは布団の中で、その歌を聞いていた。


 谷の家では、朝はいつも静かだった。


 風の音。

 古い壁がきしむ音。

 夜通し星を見ていた後の、自分の呼吸。


 誰かが自分の名を呼ぶ朝など、ほとんどなかった。


 けれど、ここでは違う。


 階下から黒麦亭の女将の声が響いた。


「エルネ! 起きてるかい? 冷める前に食べな!」


 エルネは目を見開いた。


 名前を呼ばれた。


 朝一番に。


 それだけのことで、胸が詰まった。


 彼女は小さく答える。


「……います」


 声は部屋の中でかすれた。


 下には届かなかったかもしれない。


 けれど、もう一度呼ばれた。


「エルネー!」


 エルネは慌てて起き上がり、扉を開けた。


「います!」


 階下から女将が笑う。


「なら降りといで!」


 エルネは胸に手を当てた。


 います。


 そう答えられる朝。


 それは、彼女が思っていたよりずっと温かかった。


 食堂には、ユノたちがすでに集まっていた。


 ユノは父と話している。

 ミアは記憶灯を小さな布で磨いている。

 カイはパンを二つ持っている。

 リゼは記録帳を読みながらスープを飲もうとして、女将に「こぼすよ」と注意されている。


 エルネが降りてくると、ミアが笑った。


「おはよう、エルネ」


「おはようございます」


 カイがパンを差し出す。


「これ、うまいよ」


「ありがとうございます」


 女将がスープを置く。


「遠慮しない。ここでは食べる人が正しい」


 エルネは戸惑いながらも椀を受け取った。


 温かい。


 手の中に、ちゃんと重さがある。


 谷の家で一人で食べていた固い保存食とは違う。


 誰かが自分のために器へよそってくれた食事。


 エルネはひと口飲んだ。


 優しい味がした。


 目に涙が浮かぶ。


 女将が少し慌てた。


「口に合わなかったかい?」


 エルネは首を振った。


「違います。温かくて……」


 それ以上言えなかった。


 ミアがそっと笑う。


「ルオの食卓だね」


 リゼが頷いた。


「名前を失った人や、帰る場所が分からない人に、温かい食事を」


 エルネは椀を見つめた。


「私は、名前を失っていたわけではありません。でも、帰る場所が分からなかったのかもしれません」


 ユノが静かに言った。


「今は?」


 エルネは少し考えた。


「まだ、分かりません。でも……ここは、温かいです」


 女将は満足そうに頷いた。


「なら食べな」


 その一言で、食卓に笑いが広がった。


 朝食の後、エルネは星灯坑へ向かった。


 ルグナの町を歩くのは、まだ慣れなかった。


 通りすがりの人々が名前を呼ぶ。


「エルネ、おはよう」


「星約守りさん、昨日はお疲れ」


「アイリシア、今日も見えてるね」


 そのたびに、エルネはぎこちなく返事をした。


「おはようございます」


「ありがとうございます」


「はい、見えています」


 カイが隣で笑う。


「全部丁寧に返してたら疲れるぞ」


「でも、呼んでもらったら返したくて」


「分かる」


 カイは少し照れたように言った。


「俺も最初、ネリオって呼んでもらうたびに泣きそうだった」


「今は?」


「今もたまに泣きそうになる」


 エルネは思わず笑った。


 カイも笑う。


「泣いてもいいんだって、ミアが言ってた」


「はい」


 星灯坑では、空と地の星灯りの台座が静かに光っていた。


 青白い光は細く空へ伸びている。


 エルネが近づくと、台座の光が強くなる。


 ――エルネ。


 アイリシアの声。


 エルネは胸に手を当てた。


「います」


 星灯坑の奥で、アイリシアの名が揺れる。


 エルネは台座の前に膝をついた。


「アイリシア。私は今日、ルグナの町を覚えます」


 ――ルグナ。

 ――温かい町。


「はい」


 ――エルネの帰る場所?


 エルネは答えに詰まった。


 帰る場所。


 谷の家もある。

 アイリシアの塔もある。

 でも、ルグナもそう呼んでいいのだろうか。


 その迷いを、リゼが後ろから静かに受け止めた。


「帰る場所は、一つでなくていいわ」


 エルネは振り返る。


 リゼは記録帳を抱えて立っていた。


「私は長い間、帰る場所を持たないと思っていた。でも今は、ルグナに戻る。星灯坑にも、仲間のところにも」


 リゼは台座の光を見る。


「守る場所と、帰る場所は違う。でも、重なることもある」


 エルネはゆっくり繰り返した。


「守る場所と、帰る場所……」


「アイリシアの塔は、あなたが守る場所。谷の家は、約束が眠っていた場所。そしてルグナは、あなたの名を呼び返す場所になれる」


 エルネの目に涙が浮かんだ。


「私の名を、呼び返す場所」


「ええ」


 リゼは少しだけ微笑んだ。


「それを帰る場所と呼んでもいいと思うわ」


 エルネは台座に手を置いた。


「アイリシア。私は、ルグナも帰る場所にしたいです」


 青白い光がやさしく揺れた。


 ――覚えた。

 ――エルネの帰る場所。

 ――塔。谷の家。ルグナ。


 エルネは涙をこぼしながら笑った。


 その日、エルネはルグナを案内された。


 最初は広場の名を書く壁。


 ミアが説明する。


「ここには、戻った名前とか、探している名前を書くの。ふざけて書くのは禁止」


 壁にはたくさんの名前があった。


 ネリオ。

 ベルフィア。

 リリア。

 ノア。

 ダリオ。

 サリア。

 アイリシア。

 アリナ。

 エルネ。


 エルネは自分の名を見つけ、立ち止まった。


「私の名前……」


 カイが胸を張る。


「俺が書いた」


「カイさんが?」


「うん。ちょっと字が曲がったけど」


 ミアが横から言う。


「ちょっとじゃない」


「読めるからいいだろ」


 エルネはその少し曲がった文字を、指でなぞった。


 エルネ。


 谷の家の古い記録ではなく、ルグナの広場に書かれた自分の名前。


 それは不思議だった。


 自分がこの町に来たことが、本当に記録されたようで。


「ありがとうございます」


 カイは照れたように目を逸らした。


「別に」


 次に、北の丘の墓地へ向かった。


 老女が花を供えていた。


 エルネが自己紹介すると、老女は優しく頷いた。


「星約守りさんかい。遠くからよく来たね」


「エルネです」


「そうかい、エルネ」


 老女は彼女の名を丁寧に呼んだ。


「ここでは、名前が戻らない墓にも花を置くんだよ」


 エルネは墓地を見渡した。


「名前が戻らなくても?」


「そうさ。戻ってから大事にするんじゃ遅い時もある。分からないうちから、大事にしていい」


 その言葉は、エルネの胸に深く入った。


 彼女はずっと、自分が何を守っているか分からないことを恥じていた。


 でも、分からないまま守ることにも意味があった。


 谷の家が、そうだった。


 エルネはリリアの墓に花を供え、静かに言った。


「リリア。私はエルネです。あなたの歌を聞きました」


 風が柳の葉を揺らす。


 返事のようだった。


 黒麦亭へ戻る途中、羽墨屋にも立ち寄った。


 姉弟はエルネに筆を一本渡した。


「星約守りの記録用に」


 エルネは驚いた。


「いただいていいんですか?」


 姉が笑う。


「星の名前を書くんでしょう? なら、いい筆が必要です」


 弟が続ける。


「オルの誓い。筆は名前を閉じ込めるためじゃなくて、残すために」


 エルネは筆を両手で受け取った。


「大切に使います」


 そして午後、エルネは星灯坑で初めて自分の手で記録を書いた。


 アイリシアの塔。

 空と地の星灯り。

 星約守りエルネ。

 ルグナへの初通信。


 筆を持つ手は震えていた。


 セレノが隣で見ていた。


「急がなくていい」


 エルネは顔を上げる。


 セレノは淡々と言った。


「記録は速さではない。偽らず、残すことだ」


 エルネは頷いた。


「はい」


 セレノは少し間を置いて言った。


「帰る場所が増えると、記録も増える」


「そうですね」


「大変だが、悪くない」


 その言葉に、エルネは少し笑った。


「セレノさんも、ルグナが帰る場所ですか?」


 セレノは筆を止めた。


 長い沈黙。


 やがて、低い声で答えた。


「まだ、そう呼ぶには恐れ多い」


 エルネは静かに言った。


「でも、呼び返してくれる場所ではありますよね」


 セレノは彼女を見る。


 そして、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「そうだな」


 夕方、星灯坑の前で小さな練習が行われた。


 エルネがアイリシアの塔へ、初めて正式な星灯りの手紙を送る練習だ。


 宛先は、アイリシア。


 内容は短い。


 ――エルネです。

 ――今日はルグナを覚えました。

 ――黒麦亭のスープ、名を書く壁、北の丘の墓地、羽墨屋の筆、星灯坑の台座。

 ――ルグナも、私の帰る場所にしたいです。


 エルネがそれを書き終えると、ミアが記憶灯を添え、リゼが魔法陣を整え、ユノが星灯炭の光を繋いだ。


 カイは隣で名前を呼ぶ。


「アイリシア」


 エルネも。


「アイリシア」


 台座が青白く光り、手紙は光の粒となって空へ昇った。


 しばらくして、返事が届いた。


 短い返事。


 ――エルネ。

 ――ルグナを覚えた。

 ――エルネの帰る場所。

 ――私も覚える。

 ――アイリシア。


 エルネは手紙を胸に抱き、泣いた。


 ミアがそっと隣に座る。


 カイは少し離れて、泣いているのを見ないふりをしている。


 ユノは星灯坑の光を見ていた。


 帰る場所は、誰かが勝手に決めるものではない。


 名前を呼び、返事をし、食卓を囲み、記録を書き、また戻りたいと思う。


 そうやって少しずつ、場所は帰る場所になっていく。


 夜、エルネは黒麦亭に戻る前に、広場の名を書く壁の前に立った。


 自分の名前の隣に、小さく文字を書き足す。


 エルネ。

 星約守り。

 アイリシアの塔とルグナを繋ぐ者。


 そして、その下にもう一行。


 帰る場所は、二つあってもいい。


 ミアが横で微笑んだ。


「いい言葉」


 エルネは恥ずかしそうに笑った。


「リゼさんに教えてもらいました」


 カイが言う。


「三つあってもいいぞ。塔、谷の家、ルグナ」


 エルネは頷いた。


「はい。三つですね」


 ユノは空を見上げた。


 アイリシアが輝いている。


 地には星灯坑の光。


 その間に、ルグナの町がある。


 エルネはもう、一人で谷に閉じこもるだけの星約守りではない。


 彼女には、守る場所がある。


 帰る場所もある。


 名前を呼び返してくれる人たちがいる。


 その夜、黒麦亭の二階へ戻る時、女将がまた大きな声で呼んだ。


「エルネ、明日の朝もちゃんと食べるんだよ!」


 エルネは今度はすぐに答えた。


「はい!」


 そして、少し迷ってから付け加えた。


「おやすみなさい!」


 階下から女将の笑い声が返る。


「おやすみ、エルネ!」


 その声を聞きながら、エルネは部屋の窓を開けた。


 空にはアイリシア。


 遠くには、まだ見えないアイリシアの塔。


 そして足元には、ルグナの町。


 エルネは小さく自分の名を呼んだ。


「エルネ」


 空の星が答える。


 ――いる。


 階下から、誰かの笑い声がする。


 星灯坑の方角から、青白い光が揺れる。


 エルネは胸に手を当て、静かに微笑んだ。


 ここにも、帰ってきていい。


 そう思えた朝と夜が、彼女の中に新しく灯っていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 エルネは、ルグナにも帰る場所を見つけました。


 アイリシアの塔、谷の家、ルグナ。

 守る場所と帰る場所が繋がり、エルネは一人で約束を抱えなくていいと知ります。


 次のページは『第百ページの星』です。

 100ページ目として、これまで戻った名前たちを振り返る大切な節目になります。

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