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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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忘れ潮の浜

潮が引いた夜、黒い岩の間に細い道が現れました。


 忘れ潮の浜。


 そこは、波が名前をさらい、時に返す場所。


 ユノたちは、白い札の主を暴かないまま、海に預けられた名前の気配を探しに向かいます。

忘れ潮の浜へ続く道は、海の底から現れた白い筋のようだった。


 左右には黒い岩が並び、波がその根元を洗っている。


 潮は引いているはずなのに、海はまだ近かった。


 一歩間違えれば、足元の砂ごと名前までさらわれそうな気がした。


 ユノは胸元の黒い浜石を握った。


「ユノ。ルグナ。名を呼ぶ者」


 すぐにミアが続く。


「ミア。ルグナ。記憶灯の守り手」


 カイ。


「カイ。ネリオとルグナ。守る者」


 リゼ。


「リゼ。ルグナ。星詠みの魔女」


 エルネ。


「エルネ。アイリシアの塔、谷の家、ルグナ。星約守り」


 五つの名が夜の海に響いた。


 波が一度、大きく寄せた。


 まるで聞いていたように。


 リゼが低い声で言う。


「波が名に反応しているわ。ここでは、必要以上に名を呼ばない方がいい」


 カイが少し緊張した顔で頷く。


「でも、忘れそうになったら?」


「その時は呼ぶ。呼びすぎず、忘れず。難しいけれど」


 ミアが記憶灯を胸に寄せた。


「白紙の野と似てるけど、違うね」


 エルネが海を見つめる。


「白紙の野は、名を内側へ閉じていました。でもここは、波が名を持っていく感じがします」


 ユノは頷いた。


 白紙の野は、消える静けさだった。


 忘れ潮の浜は、さらわれる音がある。


 波が寄せるたび、耳の奥で誰かの名前がほどけそうになる。


 砂の道を進むと、足元に白い貝殻が増え始めた。


 小さなもの。

 割れたもの。

 内側が淡く光るもの。


 ミアがしゃがんで一つ拾いかけ、リゼが止めた。


「待って。勝手に拾わない方がいい」


 ミアは手を止める。


「これも名前を預けたものかもしれない?」


「ええ」


 ユノは幻を思い出した。


 白い貝殻を拾う手。


 海へ向かって「返して」と言った誰か。


 この浜の貝殻は、ただの貝殻ではない。


 名前の入れ物かもしれない。


 波の音の中から、声がした。


 ――返して。


 五人は立ち止まった。


 声は近い。


 だが、誰のものか分からない。


 名前もない。


 ただ、強い願いだけが波に混じっている。


 カイが小さく言う。


「誰か、名前を返してほしいんだな」


 エルネは青白い糸に触れた。


「でも、私たちは誰の名か聞かない約束です」


 ユノは頷いた。


「名前は聞かない。でも、何が起きたのかは見届ける」


 さらに進むと、黒い岩が円を作る場所へ出た。


 岩の内側だけ、波が静かだった。


 まるで海の中にできた小さな部屋のようだった。


 中央には、大きな白い貝殻がひとつ落ちている。


 人の両手ほどもある貝殻。


 幻に映ったものと同じだ。


 ミアの記憶灯が強く揺れた。


「これ……」


 リゼが息を呑む。


「名前を預ける貝殻ね」


 ユノは貝殻の前に膝をついた。


 触れない。


 ただ、見つめる。


 貝殻の内側には、文字のような模様があった。


 けれど読めない。


 読むべきではない。


 名前を書かない壁の札と同じだ。


 勝手に中を覗いてはいけない。


 その時、波が黒い岩を叩いた。


 白いしぶきが上がり、貝殻の中へ落ちる。


 貝殻が震えた。


 声が聞こえた。


 ――返して。

 ――私の名ではなく。

 ――あの人の帰り道を。


 ミアが目を見開く。


「名前じゃなくて、帰り道……?」


 カイが眉を寄せる。


「どういうことだ」


 リゼは慎重に言った。


「名前を海に預けた者が、帰る場所を見失ったのかもしれない」


 エルネは静かに首を振った。


「それだけではない気がします。『私の名ではなく』と言っていました」


 ユノは貝殻へ向かって言った。


「あなたの名前は聞かない。あの人の名前も聞かない。でも、帰り道を返すにはどうすればいい?」


 貝殻はすぐには答えなかった。


 波が寄せる。


 引いていく。


 やがて、貝殻の内側に景色が映った。


 浜辺を歩く二人の影。


 一人は、白い札の幻に出てきた背中の人かもしれない。


 もう一人は、顔が見えない。


 二人は黒い岩の前で向き合っている。


 一人が白い貝殻を差し出す。


 そして、声にならない声で言った。


『ここに預けよう。名前を追われないように』


 もう一人が首を振る。


『名前を預けたら、帰れなくなる』


『帰る道だけは覚えている』


『本当に?』


『君が呼ばなくても、灯りを置いてくれたら戻れる』


 幻が揺れる。


 白い貝殻が閉じる。


 その瞬間、波が二人の足元をさらった。


 一人は浜へ残り、一人は海の霧の向こうへ消えた。


 ミアが口元を押さえた。


「帰る道だけ、波に取られたの……?」


 リゼが記録帳を開きかけ、また閉じた。


「詳細はまだ書かない方がいいわね」


 ユノは頷いた。


 これは白い札の主の記憶に近すぎる。


 誰かの秘密を、勝手に記録してはいけない。


 ただ、必要なことだけを胸に置く。


 帰り道を返す。


 名前ではなく、帰り道。


 エルネが言った。


「待ち灯りと関係があるかもしれません。『灯りを置いてくれたら戻れる』と言っていました」


 カイが顔を上げる。


「ルグナの待ち灯り?」


「似たものが必要なのかもしれない」


 ミアは記憶灯を見た。


「浜に灯りを置く?」


 リゼは波を見つめた。


「ただの灯りでは波に消されるわ。名前を呼ばず、帰る場所だけを示す灯りが必要」


 ユノは胸元の黒い浜石を握った。


 帰る場所。


 ルグナ。


 白紙の野では、三つの名が必要だった。


 自分の名。

 帰る場所の名。

 誰かに呼ばれた名。


 ここでは、そのうちの一つ、帰る場所がさらわれている。


 名前を隠すために海へ預けた結果、帰る道が波に飲まれた。


 ユノは静かに言った。


「名前を聞かずに、帰る場所を呼べばいいのかな」


 リゼが考える。


「本人の名ではなく、帰る場所の灯りを置く。可能性はあるわ」


 エルネが青白い糸を取り出した。


「星約では、名前を伏せた旅人へ帰路だけを結ぶ術があります。名ではなく、場所と灯りを繋ぐ」


 ミアが記憶灯を掲げる。


「灯りならある」


 カイが砂を踏みしめる。


「守るのは俺がやる。波が来たら止める」


 ユノは貝殻を見た。


「この貝殻の中の人が戻りたい場所は、ルグナなのかな」


 貝殻は震えた。


 波の音に混じり、答えが届く。


 ――灯りの町。

 ――名前を書かない壁。

 ――白い札。


 ユノたちは顔を見合わせた。


 帰る場所は、ルグナだ。


 白い札の壁。


 そこへ戻る道が、海にさらわれている。


 ユノは胸が痛くなった。


 白い札の主は、誰かの帰り道を待っている。


 名前を伏せたまま。


 呼びたくても呼べないまま。


 それでも、戻ってきてほしいと願っている。


 ミアは記憶灯の小さな火を、貝殻の前に置いた。


 だが、波がすぐに近づいてくる。


 カイが前へ出る。


「待て!」


 木剣で波を止められるはずはない。


 でも、彼は本気だった。


 守る者として。


 エルネが青白い糸を灯りの周りへ結ぶ。


 リゼが魔法陣を砂に描く。


 ユノが星灯りの剣を細く出し、波に絡む黒い糸を見つけた。


 波そのものではない。


 帰り道をさらった忘れ潮の糸。


 ユノはそれを斬らず、まず見た。


 糸の先は貝殻へ入り、もう一方は海の霧へ伸びている。


 その糸を無理に斬れば、帰り道そのものが切れるかもしれない。


「斬れない」


 ユノが言うと、リゼが頷いた。


「ほどくのね」


 ミアが灯りを守る。


 エルネが糸を結び直す。


 カイが波に向かって立つ。


 ユノは星灯りの剣の先で、忘れ潮の糸を少しずつほどいた。


 波が唸る。


 ――返さない。

 ――預けられた名。

 ――預けられた道。

 ――潮のもの。


 海の声がした。


 カイが怒る。


「預かったなら返せよ!」


 海は答えない。


 波が強くなる。


 ミアの記憶灯が消えかける。


 エルネが叫ぶ。


「名前ではなく、帰る場所を!」


 ユノは貝殻へ向かって言った。


「ルグナ!」


 その名を呼んだ瞬間、灯りが強くなった。


 ミアも続ける。


「ルグナ!」


 カイも。


「ルグナ!」


 リゼも。


「ルグナ!」


 エルネも。


「ルグナ!」


 五人の声が、忘れ潮の浜に響いた。


 個人の名ではない。


 帰る場所の名。


 灯りの町の名。


 名前を書かない壁のある町。


 その名を受けて、貝殻の内側に小さな光が生まれた。


 白い札の壁の灯り。


 待ち灯り。


 それが海の霧の向こうへ伸びていく。


 波が激しく岩に砕けた。


 ユノは忘れ潮の糸をほどく。


 一本。

 また一本。


 斬らない。


 切り捨てない。


 預けられたものを、返す道へ戻す。


 やがて、海の霧の向こうから、足音が聞こえた。


 濡れた砂を踏む音。


 五人は息を止めた。


 霧の中から、人影が現れた。


 顔は見えない。


 名も分からない。


 けれど、幻で見た背中の人とは別の人だった。


 その人は胸元に白い貝殻を抱いている。


 足元は波に透けていて、完全にこちらへ戻っているわけではない。


 ミアが泣きそうな声で言う。


「戻ってきてる……」


 リゼが小声で注意する。


「名前を聞かないで」


 ユノは頷いた。


 人影は貝殻の前で立ち止まった。


 そして、声にならない声で言った。


 ――灯り。

 ――まだ、あった。


 ユノは答えた。


「ある。ルグナにある。名前を書かない壁に、灯りがある」


 人影は震えた。


 ――名は、まだ出せない。


「出さなくていい」


 ――帰っても、いい?


 カイがすぐに言った。


「いいに決まってる」


 ミアも。


「帰る道、灯してる」


 エルネも。


「名前を伏せたまま戻れるようにします」


 リゼが言った。


「あなたの名は、あなたが望むまで記録しません」


 人影は、砂の上に膝をついた。


 波がその身体を引き戻そうとする。


 ユノは星灯りの剣で、最後の忘れ潮の糸をほどいた。


 その瞬間、白い貝殻が開いた。


 中から、灯りが一つ飛び出した。


 名前ではない。


 帰り道の灯り。


 それはルグナの方向へ伸びる。


 人影はゆっくり立ち上がり、その灯りを見た。


 ――帰る。


 声は小さい。


 でも確かだった。


 忘れ潮の波が一度、大きく寄せた。


 人影が消えそうになる。


 カイが叫ぶ。


「ルグナ!」


 五人が再び呼ぶ。


「ルグナ!」


 帰る場所の名が、波を押し返した。


 人影は完全には浜へ戻らなかった。


 けれど、海の霧から少し離れた。


 貝殻の中に、帰り道の灯りが残る。


 リゼが息を吐いた。


「今夜はここまでね。完全に戻すには、白い札の灯りと繋ぐ必要がある」


 ユノは頷いた。


「ルグナへ持ち帰る?」


 エルネが白い貝殻を見る。


「貝殻そのものを持ち帰るのは危険です。名前が入っているかもしれない。代わりに、帰り道の灯りだけを写しましょう」


 ミアは記憶灯を近づけた。


 貝殻の中の灯りが、記憶灯へ小さく移る。


 名前は移らない。


 帰る道だけ。


 それが大切だった。


 人影は海と浜の間で揺れている。


 ユノは言った。


「ルグナで灯りを強くする。名前は聞かない。札も開かない。それでも、帰れるようにする」


 人影は静かに頭を下げた。


 ――ありがとう。


 その声は、波に混ざって消えた。


 潮が戻り始めた。


 忘れ潮の浜の道が狭くなる。


 リゼが叫ぶ。


「戻るわ!」


 五人は来た道を急いだ。


 背後で波が黒い岩を叩く。


 白い貝殻は浜の中央に残った。


 人影も霧の向こうへ薄れていく。


 けれど、完全に消えたわけではない。


 帰り道の灯りが、ミアの記憶灯の中で揺れている。


 浜を出た時、潮はほとんど戻っていた。


 ユノたちは黒岩の上に座り込み、息を整えた。


 カイが空を見上げる。


「名前を呼ばずに、帰り道だけ戻すって……すごい難しいな」


 リゼが頷く。


「ええ。でも、できた。少しだけ」


 ミアは記憶灯を大切に抱えた。


「この灯りを白い札へ戻せば、あの人、もっと帰れるかな」


 エルネは答えた。


「きっと」


 ユノは暗い海を見た。


 忘れ潮の浜。


 名前をさらい、時に返す場所。


 けれど今夜、返したのは名前ではなかった。


 帰る道。


 名前を書かない壁へ続く、灯りの道。


 白い札の主が誰かは、まだ分からない。


 戻ろうとしている人の名前も、分からない。


 それでいい。


 今は、それでいい。


 ユノは胸元の浜石を握り、ルグナの方角を見た。


「帰ろう」


 ミアが頷く。


「灯りを持って」


 カイも。


「名前を聞かずに」


 リゼも。


「記録しすぎずに」


 エルネも。


「帰る道を守って」


 夜の海は、まだ波の音を響かせていた。


 けれど、その音の中に混じっていた「返して」という声は、少しだけ弱まっていた。


 忘れ潮の浜で、帰り道の灯りが一つ、波から返されたのだった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 忘れ潮の浜で、ユノたちは名前ではなく“帰り道”を返す灯りを見つけました。


 名前を聞かず、札を開かず、伏せたまま守る。


 次のページは『帰り道の灯り』です。

 浜から持ち帰った灯りを、名前を書かない壁の白い札へ届けます。

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