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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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3/8

記憶の欠片:高校生活(1)

 少しずつ、絵の具の混ざりは規則的な形を作り出し始めた。


 それは景色になり、そこに人が現れ、動きはじめた。


 単に過去の映像が再生されているわけではなかった。ウスターソースの香ばしい匂いがする。涼しい風が吹き抜ける音がする。雲一つない空から降り注ぐ陽光の温かさが感じられる。


 まるで今この瞬間、桐馬がここに存在しているとでもいうようなリアリティだった。


「これが……記憶の中だって?」


 五感全てで世界が感じ取れる。悪魔との会話がなければ、これが現実だと錯覚していたかも知れない。


 ただし、この世界にはあの饒舌な悪魔の姿はなかった。どうやら悪魔は、走馬灯の中にまでは侵入してこられないようだ。


 ──だがこの方が好都合だ。俺の人生にあのおどけた調子でいちいち茶々を入れられていたら、殴りたくてたまらなくなっていただろうから。


 あの自称悪魔のおしゃべりに構っているよりも、桐馬にはやるべきことがある。邪魔が入らないに越したことはないだろう、と桐馬は息を吐いた。


 いったん気を落ち着けて、出来上がった状況を観察した。自分の記憶なのだから当然のことだが、視点は桐馬自身の一人称だった。


 桐馬がいるのは大秋高校の屋上だった。屋上の端に座って足を投げ出している。落下する直前の記憶かと思ったが、空が青く澄んでいることから時間帯が違っていることがわかる。ちょうど昼休みのようで、手元にはビニール袋と、そこから取り出したらしい食べかけの焼きそばパンがある。横には週刊の漫画本が置いてあり、風に煽られてパラパラとページが捲れている。


 天気の良い日で、胸がスカっとするようなロケーションだった。隣に友人の一人でもいればさらに青春らしかったろうが、一人黄昏れるというのもこれはこれで、なかなかに気分がいい。


 冷静に周りを観察している間にも桐馬の身体は独りでに動く。記憶を再現しているのだから、操縦者は当時の桐馬だ。焼きそばパンを頬張ろうとする桐馬に、後ろから声が投げかけられた。


「あのう……桐馬さん。ぼくたちそろそろ……」


 おどおどとした情けない男の声だった。声質からして、明らかに肥えた体型をしているのがわかる。

 記憶の中の桐馬はその声に、振り返って返事をした。


「あ?」


 たった一文字。どすの利いた低い声だった。


 背後にいたのは、案の定制服が上も下もパツパツの男子生徒だった。頭は丸刈りで、脂肪に潰されたような糸目には涙が浮かんでいる。安直にあだ名をつけるなら間違いなく『おにぎり』だろう。


︎︎声の数からいるのは一人だけかと思ったのだが、おにぎりに縋り付くようにして、対照的に色白でガリガリの眼鏡男子が声も出せずに震えていた。こいつは『モヤシ』といったところか。


 そんな食べ物コンビに対する視線を鋭くしながら、桐馬は立ち上がった。


「お前らさ、お使いもまともに出来なかったくせに、大人しく帰してもらえるとか思ってるわけ?」


「ひぃっ」


 モヤシが声にならない声を上げながら後ずさりをする。だが、それだけだ。


 桐馬がいるのは屋上の縁に近いところで、おにぎりやモヤシのほうが校舎内へと続く階段との距離が近い。


 モヤシはすぐにでも逃げたくてたまらない様子だが、実際に逃走を試みようとはしない。それはおにぎりも同じだった。ここから逃げ出すことはできるが、そんなことをすれば次に出くわしたときにどんな目にあわされるのか、身を持って知っているという風だった。


「焼きそばパンと漫画はいいよ。でもさ、俺はあとひとつ買ってこいって連絡していたはずだよな? メールにも文面が残ってるから間違いない。なのにどうして届いたのがこれだけなんだ? おかしいとは思わなかったか?」


「そ、それは……お昼時だったから、ホットスナックは全部売り切れていて……」


 桐馬がゆっくりと詰め寄ると、まだ手も出していないのに、おにぎりの額から玉のような脂汗が吹き出した。


「だったら他にもやりようがあったろ。別のコンビニ回るなり、代わりになるものを買ってくるなり。つか、メールやら電話やらでお伺い立てるくらい、ガキでも思いつくだろ。お前さ、成長期の食欲ナメてんの?」


「そ、そういうわけじゃ……」


「大体、昼時にコンビニが混むなんて当たり前の話だろ。世間一般的にもこの時間は昼休みだろうからな。だったらホットスナックが売り切れることくらい予想がつくはずだ。午前の授業抜けてでも確実に買ってくるのが、ドレイとしての努めなんじゃねえの?」


「抜けっ……そんなことしたらボクらの単位が……大体、放課後までは学校から出られないのが校則で……」


「なんか言ったかチビ眼鏡」


 言葉を遮られたモヤシが涙目で息を呑む。それが原因になったのか、モヤシはひっく、ひっくとしゃっくりを始めた。


「お前らの単位なんかどうだっていいんだよ。校則だって知ったことか。重要なのは、お前らが俺の期待を裏切りやがったって事実だけだ。ったく、この年になってまともにお使いの一つもできねえのかよ。そんなだからいつまで経ってもドレイなんだお前らは──」


 しかもお前らさあ、と桐馬は続ける。


「あの漫画のオマケ? 付録? 知らねえけど、切り取ってからよこしやがったな?」


「そ、それが……? 桐馬さん、付録のカードなんていらないでしょ」


 モヤシが苦し紛れに反駁してくるが、桐馬は足を踏み鳴らしてそれを叩き潰した。


「誰がお前らの手垢ついた漫画なんか読みてえんだよ。ああ本当にくだらねえ。なんで買ってこいって言われたものは買ってこられないくせに、こういう余計なことには余念がねえんだか。おら、大人しく腹出せ」


 桐馬の言葉に、おにぎりとモヤシはビクリと震え上がった。


「と、桐馬さん、お願いだからお腹は勘弁して……」


「ちゃんとお使いが出来ないお前らが悪いんだろ? お前らに拒否権なんかねえよ。さっさと覚悟決めろや」


 問答無用、と桐馬は拳を固めて勝ち気に笑った。それを目の当たりにし、二人の顔がさらに蒼白になる。


 記憶は恐ろしいほど鮮明に、まるで今現実にそれが起きているかのように再生されている。五感を通して入り込んでくる情報だけでなく、その時の感情すらも今の桐馬へと流れ込んできていた。そのおかげで、桐馬は少しだけ自分のことを思い出した。


 金澤桐馬はろくでなしだった。ろくに授業にも出ず、日がな一日を屋上でダラダラと過ごしていた。昼前に閉じた校門を乗り越えて登校し、机に向かう生徒たちの姿を横目に廊下を闊歩し、読みたくもない漫画を読んで時間を潰して、日が暮れてからは適当に街をぶらついていた。ドレイと称してこの二人を小間使いにし、気に食わないことがあれば暴力を振るう。そんな典型的な不良だ。


 なにがしたかったのかと言われれば、別に目的があったわけでもない。


 強いて言うなら自分の欲望に素直だった。怠いと感じたものから逃げ、楽しいと感じたものだけを受け入れるように生きた結果がこれだ。こうして自分の記憶を見ていれば、同級生を使い走りにして文句をつけることの何がおもしろかったのか見当もつかないが、この時は確かに、この歪な構図を桐馬は楽しんでいた。


 端から見てみると、それはなんとも滑稽な意地っ張りの姿だった。他にも不良グループはあったと記憶しているが、桐馬はその連中とすら関わろうとしなかった。むしろ徹底的に避けていたと言ってもいい。そのグループがやる遊びは、よってたかって女をマワしたり、その様子を録画しておいて脅迫し、さらにエスカレートした行為を強要したりという方向に偏っていた。それが趣味に合わないという部分に関しては、当時の自分に同意できる。


 ヤツらが旧校舎を主な根城にしていたことは知っていたので、桐馬はそこから道のり的に一番遠いこの屋上を、サボり場所として選んだのだった。


 桐馬が思い出したことを並べ立てている間にも、記憶の映像は進んで行く。後ろで手を組んだ二人が顔を青くしているのを満足気に眺めたあとで、桐馬は無防備な腹に目一杯体重が乗った拳を叩き込んだ。無論親指を握り込み、中指の骨が突き出ている状態でだ。鳩尾に打撃を受けたおにぎりは膝をつき、びしゃりと胃液を撒き散らした。それを見たモヤシがカチカチと歯を鳴らす。そんなモヤシの腹にももれなく、桐馬の拳がめりこんだ。モヤシはうずくまってビクビクと震え、なにかを求めるように手を動かしている。求めているのは酸素だ。呼吸が出来ないらしい。


「しゃっくりが止まって何よりじゃねえか」


 桐馬はそんな二人の様子をよそに、元いた場所に戻って煙草に火をつけ、漫画本の適当なページを開いた。


「……つまんねえな、これ」


 週刊の漫画雑誌は気が向いたときに買って来させているので、いつも話がぶつ切れだ。ゆえに読み切り掲載の作品に目を通すことが多いのだが、今日は食べ物コンビの手癖が悪かったせいで興が削がれた。桐馬は漫画を屋上から放り捨てると、代わりに懐に入っていた文庫本を取り出した。


 桐馬の懐には、いつも一冊文庫本が入っている。作品もジャンルもまちまちだが、制服の内ポケットに入るサイズだということだけは共通していた。


 似合わないことは承知の上だが、長い時間を潰すという目的においては、漫画よりも小説に軍配が上がる。そもそも週刊連載の詰め合わせである漫画雑誌自体が受け付けない。一冊で完成されていない物語に魅力を感じないのだ。単行本ならある程度理解はできるが、コンビニの小ぢんまりとした書棚には、どこで連載しているのか、誰に需要があるのかも分からない作品ばかりが並んでいる。その中からあの使えないパシリたちに、桐馬の心を満たせる作品を選び出すことができるとは思えなかった。かといって自分で買いに行くのは論外である。


 直射日光が降り注ぐ屋上ではページが日に焼けてしまうので、桐馬は日陰に入った。屋上を出入りするための階段に続く塔屋があり、この時間の屋上で陽の光を凌ぐにはその影に入るしかない。薄暗くなっているそこは周囲よりも気温が低く、座り込むとコンクリートが冷たくて気持ちよかった。


 とはいえこの楽園も、二時間もすれば太陽が天頂に到達し、あっけなく失われてしまう。それまでに読めるところまで読み進めてしまおうと考え、桐馬は栞を頼りに本を開いた。

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