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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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2/30

残り14メートル

 時間が止まっていた。


 比喩などではなく、少なくとも金澤桐馬(かなざわ とうま)が知覚する中では、確かに時が止まっていた。そう断言できるのは、桐馬自身の身体が宙に投げ出されたまま、ピタリと静止していたからだった。身じろぎしようとしたが、手足も固まって言うことを聞かない。


 顔や首すらも例外ではなかったが、視界にあるものははっきりと認識することができた。下を見れば空は夕焼けのオレンジ色が東の空から徐々に夜の闇に呑まれ始めており、上を見れば無骨なコンクリートの地面がそこにある。その中間には、見慣れた大秋(たいしゅう)高校の校舎が建っている。


 どうやら桐馬の身体は自由落下しているらしい。今まさに学校の屋上から転落しようとしている真っ最中のようだった。


 となればなおさらに状況が分からない。生身の人間が空を飛べる道理などなく、桐馬が空中に留まっている理由は不明なままだ。


 改めて上──地面の方を見てみるが、落下していく先に人影はなく、誰かに受け止めてもらう、などといった助けは期待できそうにない。


 桐馬の身体はうつ伏せ気味に上下が反転していて、無謀にも宙を泳ごうとするような、手足をばたつかせた姿勢で止まっていた。長い間こうしていると腰でも悪くしそうな体勢だ。せめて上下を元に戻そうともがいてみるが、相変わらず身体が一切動かない。


 とにかく何か掴まれそうなものを探してみる。しかし、手の届く範囲に足場として使えそうなものは見つからなかった。手を伸ばしても眼前にある校舎には触れることすらできそうにない。そもそも壁面には凹凸らしい凹凸もなく、仮に届いたとしても、掴まることはできそうになかった。


 臓器がふわりと浮いているような強烈な浮遊感に襲われながら、桐馬は記憶を探った。どうしてこんな状況になったのか。何かの拍子に足を踏み外してしまったのか、それとも誰かに突き落とされたのか。


 だが、どうも記憶が曖昧でぼんやりとしていた。転落した理由どころか、なぜ自分がこんな時間に屋上にいたのかすら思い出すことができない。ただ一つ心に残っていたのは、胸にぽっかりと穴が空いたような、心地の悪い寂寥感だけだった。


 ──一体何なんだ、この状況は。俺の身に何が起きている?


 心の中で呟くが、状況はなにも変わらない。重力が正しくはたらくことはなく、かと言ってなにか好転する要素があるわけでもない。桐馬はただただ困惑し、流れているのかも分からない時を漫然と消化することしかできなかった。


 一分、十分、三十分と、体感する時間だけが過ぎていく。それだけあれば夜の帷が空の侵食を進めそうなものだが、そこには変わらないオレンジと紫色のせめぎあいがあるだけだ。止まっているのは桐馬の時間だけではない、世界そのものが硬直してしまっているのだ。


 となると奇妙なのは、桐馬の思考はどうして止まっていないのか、という点だ。単に時間が止まっているのだとすれば、桐馬がそれを自覚し、こうして状況を分析できていることに説明がつかない。


 音も臭いもしない。落下に伴う風切音がやけに耳に残っている気がしたが、今は全くの無音だった。


 変化があったのは、全く唐突のことだった。

 視界の真ん中やや上方に、人影があった。いつから存在していたのか、桐馬にはわからなかった。見えている景色に意識を向け、周囲を探っていたときには存在していなかったはずだ。


 その人影は桐馬と同じように、重力を無視して空中にとどまっていた。だがその態度はまったく違う。まるで浮遊していることが当たり前であるかのように、動揺する素振りを少しも見せずにいる。


 いや、この存在も自分と同じで、身動きが取れないのだ。もし本当に時が止まっているのだとしたら、その方が説明がつく。突然現れた理屈は不明なままだが、おかれている状況は自分と同じなのではないか。


 そんな推測は、すぐに破られた。


「やあ」


 そいつはさも当たり前のように片手を上げた。挨拶のつもりらしい。姿そのものにもやがかかっているかのようで、顔ははっきりと見えない。だが、相手はこっちをじろじろと見ているという直感があった。


 ──誰だ、こいつは?


「誰だと思うかい?」


 ──質問を質問で返すな。


「最近の人は定型文のようにそう言うけれど、君はどうしてそれがいけないのか理解したうえで言っているのかい?」


 ──自分を賢いと思ってる間抜けが言いそうな台詞だ。


「感情的な論点ずらしだね」


 ──いきなり現れておいて、やけに突っかかってくるやつだな。


 ──というか、こいつはなんで俺のモノローグに反応している? どうして止まった世界で片手を上げ、言葉を発することができている?


 ──あれか? 死に際に現れる非現実的な存在なのか? 天使とか悪魔とか、俺を死後の世界に導く類の存在なのだろうか?


「とりあえずはそういう認識でも構わないよ。どちらかと言えば悪魔のほうが近いかな」


「悪魔、ねえ……」


 それにしては、ずいぶんと人間に近い姿形をしているものだ。全身がもやでてきているかのようで、その容姿がくっきりとは見えるわけではないが、見たところ身長や体型は桐馬と変わらない。一般的に悪魔のイメージとして挙がるような、黒い羽根や角が生えているわけでもなければ、それらしい武器を持っているわけでもない。


 悪魔の声に聞き覚えはなかった。どこか情けないような、へにゃへにゃとした声質。口調は遠回しだが、悪魔と名乗った割には明確な悪意を感じるわけでもなく、なんだかんだで桐馬の問い掛けに応じる意思を見せている。いきなり危害を加えてくるというつもりでもないようだ。


「おい悪魔、お前はこの状況がなんなのかわかるってのか?」


「わかるとも。というか、それは君にだってわかっていることだと思うけどね」


「なに……?」


「状況を整理して、順に挙げていってみなよ。そうすれば君も答えにたどり着けるはずだ」


 状況の整理。そんなことは悪魔が現れる前からやっていた。なにせ他にできることがなかった。


 桐馬は指を折る──ことはできないので、頭の中で箇条書きにするようにして、現在わかっている事柄を改めて言葉にしていった。


「時刻は夕方、場所は大秋高校。俺は屋上から落ちてる最中。身体は動かない。このままだと地面に叩きつけられて死ぬ。が、なぜか世界の時間が止まって空中にいる」


「うん、その通りだ。情報はそれだけで十分。そこから紐解いて考えていけば、この状況の理由を君自身で説明できるはずだ」


 悪魔を名乗るそいつは、授業中に問題の答えが分からない生徒を少しずつ正解へと導く教師のように、腕組みをして桐馬に考えることを促してくる。他にやることもないし、悪魔は自分から答えを開示する気はないらしいので、桐馬は思考を前に進めることにした。


 このままでは、桐馬の運命は落下死できまりだ。つまり今は死に際ということだ。死に際といえば、見ている映像がスローモーションになり、昔の記憶が蘇ってくるという話を耳にしたことがある。今まで生きてきた時間の中で蓄えた記憶が、一瞬のうちに次々とフラッシュバックする、いわゆる走馬灯というやつだ。走馬灯とは単に思い出を振り返っているわけではなく、記憶の中から現状を打開するための知恵を引っ張り出すために、脳が限界に近い速度で駆動しているがゆえに起こる現象らしい。そんな話を何かで読んだような気がした。


 記憶のフラッシュバックはまだ始まっていないが、世界が止まっていると勘違いするほどにスローモーションになっているのは確かだ。


 ──つまり、答えは走馬灯か。


「正解。言わば、脳における火事場の馬鹿力みたいなものだね。君の脳は今、最後の力を振り絞って必死に思考を巡らせている。屋上から転落し、掴まれるような場所もなく、落下は止まらない。そんな絶望的な状況をひっくり返すためのキーを探し出すために与えられた時間。それが、今だ」


 悪魔は饒舌に、得意げに解説している。


「ちなみに、君が何かで見聞きした『走馬灯』という答えにたどり着いたこともまた、走馬灯による賜物だといえるだろうね。状況を理解するために、君は過去の断片的な記憶を掘り起こして思考し、そうして正しい答えにたどり着くことができた。ここから生き残る方法を探るには、まず状況を正しく理解しないといけないからね」


「……つまり俺は、今から記憶を遡って生き残る方法を探し出すってことか? 地面に叩きつけられるまでの時間で頭を回して、どうにか死を回避しろって? このどうしようもなさそうな状態からなにをひっくり返せるってんだ? 記憶の中からパラシュートでも持ち出してこられるんなら、この世から転落死って概念はなくなってる」


「さあ? それはやってみなくちゃわからない。ここから先は君次第だ」


「第一、お前は悪魔なんだろ? だったら俺が死んだほうが都合がいいんじゃないのか。デケェ鎌で魂を狩るとか、俺の首根っこを掴んで地獄まで引きずってくとか、そういう類の存在だろ、お前は」


「想像力がたくましくて素晴らしいね。その調子で頑張ってくれ」


 悪魔は二度、三度と拍手をした。やはりこの悪魔は、この状況でも好き勝手に動き回れるらしかった。異質な存在だ。


 悪魔が最後に大きく手を鳴らし、それは桐馬の耳には仕切り直しの手拍子のように聞こえた。


「さて、時間は限られている。校舎の高さは約十四メートル、空気抵抗を考えないなら、地面に到達するまでの時間はおおよそ一・七秒といったところだ。それまでに状況を覆せなければ、君は時速六十キロメートルで地面に叩きつけられ、全身が砕けて死ぬ。──さて、そろそろいってらっしゃいだ、桐馬。君自身の記憶の旅へ」


 悪魔がそう告げると、周囲の景色が突然、ぐにゃりと歪んだ。空と地面の境目がなくなり、じわりじわりと色が溶けだしていく。


 絵の具をぐるぐるとかき混ぜるようにして、世界という絵は乱雑に、不規則にかき乱され、別の光景へと描き換えられていく。そんな世界の中に、桐馬はわけも分からぬまま身を投じることとなった。

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― 新着の感想 ―
なるほど。 走馬灯で一本書き上げたのは発想が凄いですね〜。シンプルにそこだけ突き詰めるのも潔い。 (・∀・) 文章もレベル高いし、もう少し伸びても良さそうに思います。 なんだろ? ジャンルとバトルが…
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