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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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記憶の欠片:金澤優馬(2)

 離婚との前後関係だけを考えれば、金澤優馬が桐馬と父母を同じくしている可能性はゼロではない。それでも、桐馬がそう信ずるに値する証拠は一つたりとも存在しなかった。


 あれだけ喧嘩がちで、顔を合わせることも稀だった両親の間に子供ができるはずがない、と桐馬は確信していた。それに父親だけでなく母親も浮気をしていたのであれば、その拍子に子供が出来てしまうのも十分に有り得る話だ。母は優馬の出自について告げなかったが、それが逆に桐馬の疑いに拍車をかけることになった。桐馬が優馬のことを腹違いの弟だと結論づけるのも無理はない。


「優馬の面倒をみてほしいの」


 母は桐馬に赤ん坊を抱かせると、言い聞かせるように告げた。


「乳児も預かってくれる保育園があるの。行きはお母さんが送るから、桐馬には学校帰りにお迎えをお願いしたいの。ミルクをあげて、おむつを替えてくれたら、あとはお母さんが帰るまで寝かせておいてくれればいいから」


 お母さんが帰るまで。簡単に言うものだと、桐馬は眉をひそめた。桐馬が寝る時間になっても帰ってこないことなどしょっちゅうあるのに、よくもまあいけしゃあしゃあとそんなセリフが吐けるものだ、と内心侮辱的な感情すらも湧いてきていた。


 ──ああ、この母親も、逃げた父と同じような性根しか持ち合わせていないのだ。それならばどうして逃げだしたのだろう、これ以上なくお似合いの二人だというのに。


 そもそも小学生の桐馬が迎えに行って、保育園側はまともに取り合ってくれるのだろうか? 幼児と呼べる年齢ならばまだしも、優馬はまだ言葉で自己主張も出来ない乳児だ。子供に任せてなにか問題が起きたとなれば、保育園側にも責任問題の手が及ぶことは想像に難くない。ましてや他所で作ってきた子供の世話をやらせるなど、押し付けがましいにもほどがある。


 とはいえ、桐馬が納得せずとも弟は泣き喚く。隣人からの抗議が壁を揺らす。世話をする以外に桐馬の選択肢はなかった。他人の声を求めていた桐馬だが、赤子の泣き声に心を落ち着けていられるほど図太くはない。この時ばかりは、桐馬はテレビがやってくる前の静寂の日々を懐かしく思った。


 意外にも、保育園側はすんなりと桐馬による迎えを容認した。予め根回しをしていたのだろう、桐馬が迎えに来ても、保母さんは不思議がることなく優馬を受け渡した。子供ながらに疑問を抱かずにはいられなかったけれど、ここで揉めて余計な時間を食うことになるよりはマシだと自分に言い聞かせることで、桐馬はどうにか正気を保っていた。


 優馬はとにかく自由だった。ミルクは少しでも温度が気に食わなければ哺乳瓶を壁まで放り投げるし、ようやく寝かせたと思えば、桐馬が本を開いた僅かな音で目を覚まし、泣き声を響かせる。案の定母親は夜遅くになっても帰ってくることはなく、桐馬はしばしば夜通しでの子守を強いられることになった。


 そこには愛情も何もなかった。自分がやらなければならないという使命感が僅かにあったのと、残りの大半を占めていたのは、優馬とドアの向こう側で騒ぎ立てる隣人の両方を黙らせないことには、桐馬に安寧の時間が訪れることはなかったという自分本位な理由だ。少しでも多くの時間を本の世界に捧げるため、桐馬は優馬をいかに素早く眠りにつかせることができるかに腐心した。学校で授業を受けている時間が、桐馬にとっては唯一心が休まる時間になった。


 優馬が普通の食事を食べられるようになった頃から、母親からの惣菜供給は脈絡なく途絶えた。相変わらず帰りも遅く、桐馬が食料品の買い物に行かざるを得ない状況になった。


 これを使え、とばかりに、ちゃぶ台には通帳とキャッシュカードが置かれていた。メモに書き添えられた暗証番号の四桁は桐馬の誕生日。通帳を開いてみると、月二回の振込があることが分かった。


 小説で読んだことがあった。子供がいる両親が離婚すると、養育費というものの支払義務が発生するのだ。その振込が二件。対する金澤家には父親に逃げられた哀れな息子が二人。桐馬と優馬が種違いの兄弟であることは、簡単に察しがついた。母──いや、あの女は子供をそっちのけで男遊びにかまけていた挙句、またしても相手に逃げられたのだ。そして今も家に帰らない生活を続けているあたり、まったく懲りていないらしい。つくづくどうしようもない。


 通帳の中には、毎日スーパーで弁当を買える程度の金額が入っていた。だが優馬のミルク代や消耗品などに充てる分を考えれば、パックご飯となめたけ瓶の生活から先に進むことは出来なさそうだった。当然服や靴に回すお金などあるはずもなく、桐馬の装いにはいつもどこかにぽっかりと穴があった。


 学校で経済的な格差を感じる機会も増えた。短くなった鉛筆を未練がましく使う桐馬を、周囲の子供は遠巻きに気味悪そうな視線で見ていた。ノートの代わりにチラシの裏面を使い、隅の方に穴を開けてタコ糸を通して綴じていた。


 桐馬の栄養状態を支えていたのは給食だった。特に欠席者が出た日が狙い目だ。ギラついた目でおかわりを狙っていると、他の子供は遠慮して器を片付け、一心不乱に食べる桐馬を置いてさっさと遊びに出てしまうのだった。取り残された教室で一人、すっかり冷めた食事を胃に詰め込むのはあまりにも虚しかった。余り物の惣菜を持ち帰っていた母親もこんな気分だったのかと、桐馬は少しだけ同情した。


 そんな生活が数年もの間続いた。


 優馬はそんな桐馬の苦労も知らずにすくすくと成長した。教えずともちゃぶ台を利用してのつかまり立ちを成功させ、少しずつ意味のある言葉を喋るようになった。桐馬が過度に構うことはなかったが、変わらずつけっぱなしのテレビを教育番組のチャンネルにしておくと、テレビの前を陣取って食い入るように見ていた。桐馬はその間に中学生になり、優馬もすくすくと成長した。だが気に入らないことがあれば癇癪を起こす悪癖だけは、いつまで経っても直ることはなかった。


 ある日、桐馬が初めて優馬をスーパーに連れて行ったときのことだった。


「おいてかないで! おいてかないで!」


 家を出ようとした桐馬を涙声で引き止めるので、桐馬は仕方なく優馬と手を繋いでスーパーに向かったのだ。


「おやつは買わないからね」


「わかった!」


 金澤家には相変わらず余裕がない。特におやつ棚に並ぶような商品など、桐馬の口にも入ったことがなかった。自分たちには手の届かない贅沢品なのだという認識があったので、桐馬は興味すら持っていなかった。


「おやつは絶対に買わないから、お願いだから店で騒がないでよ」


 桐馬が繰り返し釘を差すと、優馬はぶんぶんと首を縦に振った。


 もちろん桐馬が釘を差したその場所は、ずぶずぶの糠床でしかなかったのだが。


 パックご飯とおかずになる瓶詰をいくつかカゴに放り込んだ桐馬は、脇目も振らずにレジに向かった。商品を手に取ったタイミングのほかはずっと優馬と手を繋いでいたので、優馬がお菓子コーナーを目にするタイミングはなかった。


 だが、罠は思わぬ場所にあった。


「おにーちゃん! これほしい! たべたい!」


 優馬が差し出してきたのは、日曜の朝にやっている戦隊ヒーローの絵柄がついたスナック菓子だった。優馬はその番組を見るため、日曜だけは早起きに余念が無い。


 レジの横に特売品として並べられていたのだ。今まで買おうとしたこともなかったので、桐馬の目には入っていなかった。


 お菓子コーナーは子供にとって夢の国だ。足を踏み入れれば優馬が心変わりするのは目に見えていた。だからこそ優馬を近づけないよう気をつけていたのに、思わぬところに落とし穴があった。桐馬はまんまとそれに引っかかった形だ。


 無駄であることを理解しながらも、桐馬は使い古された常套句を手に毅然と立ち向かった。


「買わないって約束したでしょ。戻してきて」


「やだ! かうの、かうの!」


 お菓子の袋を胸いっぱいに抱えた優馬がじたばたと暴れ始めた。周囲の目が痛い。親はどこだ。やかましい。早く黙らせてくれ。そんな意思が込められた、呆れの視線が向けられる。だがその視線に痛みを感じるのは桐馬だけで、原因である優馬の喚き声には何ら影響がない。それどころか強烈さを増し、ついには叫びと呼べる段階に達したその声に、さらなる辟易の目が突き刺さる。


 桐馬は吐き出しそうになった言葉を全て飲み込み、大きなため息に変えた。


「優馬、お願いだから言うことを聞いてくれ」


「やなの! もうなめこごはんやなの! おやつたべたい!」


「優馬!」


「あぁーーー!」


 どれだけ強く言っても、優馬の意思感情をコントロールすることはできない。桐馬の声は騒ぎを助長させるだけに終わった。


 レジ店員の女性が桐馬たちを待っていた。桐馬の二倍弱ほど年を重ねた、高校生か大学生のバイトのように見える。助けの手を差し伸べてくれればいいものを、彼女は気だるそうに様子を見るだけで、バーコードスキャナーから手を離す気はなさそうだった。


 いよいよ周囲からは舌打ちが聞こえ始めた。優馬の喉は枯れることを知らない。頼るべき母親はどこかをほっつき歩いていて、どれだけ待っても現れることはない。これ以上引き延ばすことが状況の好転に繋がるとも考えられず、桐馬は再度のため息をついた。


「……わかった、今回だけだからね」


 諦めてそう言ってやると、優馬は態度を一転、一瞬にして涙を引っ込め、鼻水にまみれた手で桐馬の手を握った。もちろん、手に持っていたスナック菓子をカゴに放り込むのも忘れない。したたかなことだ。


 ──今月は少し苦しくなりそうだ。瓶詰の消費ペースを見直さないと。


 桐馬は脳内でそろばんを弾きながら、こんな菓子の袋ひとつで傾きかねない金澤家の家計を呪わしく思った。

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