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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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14/30

記憶の欠片:金澤優馬(1)

 金澤家は典型的な母子家庭だった。


 父親が行方をくらましたのは、桐馬が小学四年になったばかりのことだ。わずかばかりの手切れ金と置き手紙を残し、父は幼い桐馬と心身衰弱した母の前から完全に姿を消した。理由は不明だが、手紙を読み切った母は意味を持たない叫びをあげ、涙をとめどなく流しながら、すぐにそれを破り捨てた。その様子を見るに、他所で別の女でも作っていたらしかった。


 元からあまり仲の良い家庭とは言えなかった。両親は学生結婚で、母親のお腹の中に桐馬がいるとわかったのは高校在学中のことだったらしい。堕胎という選択肢が大きかった中、お互いに高校を中退してまで桐馬を生む決断をしたのだという。両家は高校卒業まで待てば結婚を許すという条件を提示していたようで、それを蔑ろにした二人に助けの手は差し伸べられなかった。


 世間の冷たさも知らない学生風情が二人で始めた新生活は、当然思うようにはいかなかった。


 無謀にも桐馬を産むことを選んでしまったことからも、二人に計画性がなかったのは明らかだ。先のことも必要なものも一切を考慮に入れず、若さゆえの生き急ぎだけに身を任せたツケが、この後の金澤家に容赦なく降り注ぐことになる。


 何よりお金が足りなかったが、そんな中でも衣食住は欠かすことができない。住居は選ぶ余地もなく、近隣で最も家賃が安い老朽化したアパートに決まった。部屋はワンルームの畳敷きで、備え付けられた家具らしい家具はちゃぶ台くらいのものだった。ちゃぶ台を片付けてようやく大人が横になれるほどの狭さで、寝転がると腐った畳の匂いが鼻腔を直撃する。隣人の立てる音や振動が、まるでそこにいるかのようにはっきりと伝わってくる。エアコンも暖房もない、屋根の下で眠れることだけが取り柄の侘びしい部屋だった。


 最初の数年、両親は私服も持てず、仕事着と高校時代のジャージを交互に着ていた。炊飯器や電子レンジを買うだけの余裕すらもなく、食事は決まって、冷たいままのパックご飯に瓶のなめたけをひとすくい載せただけの簡素なものだった。それも毎食食べられるとは限らず、朝食を抜いたり、給料日前には二人で一つのパックを分け合ったりすることもあった。


 中卒となった父親の働き口にも選択肢はなかった。何十件もの面接の末に小さな町工場に拾ってもらったのは幸運だったが、就業時間の割に給与額がまったく見合わない。だが口を出せばクビになるかもしれない、他に働き口はないという恐怖感から、父親は文句も言わずに黙々と働き続ける他なかった。他の従業員も荒っぽい人物が多く、陰気だった父とは空気が合わない。職場にもプライベートにも相談できるような人物は誰ひとりとしていなかった。それでも生きていくためには続けなくてはならない。


 せめて赤ちゃんの桐馬にだけはまともなものを与えようと、両親は奮闘していた。


 保育園に通わせることもできず、桐馬の面倒は母親に一任されていた。余裕のない家計に頭を悩ませ、数時間ごとに夜泣きを繰り返す桐馬にミルクを与え、その合間に買い物や家事をこなした。


 桐馬の夜泣きはしばしば隣人とのトラブルの原因になった。アパートの壁が薄く、少しの音でも貫通して届いてしまうのはもちろんのこと、家賃の安さから鼻つまみ者が多く住んでいたことも逆風だった。桐馬が空腹や便意を主張するたび、今にも壊れるのではないかと思うほどに立て付けの悪いドアがガンガンと殴りつけられる。ドアの隙間から入り込んだ濁声が部屋全体に響く。それを仕切るような襖すらない六畳一間のワンルーム。悪意のこもった喚き声を聞いて桐馬の泣き声が大きくなるという悪循環。それでも金銭面からこのアパートを出ていくわけにもいかなかった。積み重なるストレスと睡眠不足でノイローゼになりながら、それでも母親という意地ひとつで小さな桐馬を育てたのだ。


 桐馬が小学校に上がってからは、そんな母親も働きに出ることとなった。パートタイムでのレジ打ち業務だ。父の職場である町工場と違ってよかったのは、帰りに余った惣菜を持ち帰る許可が降りたことだ。周囲からは卑しい女だと白い目を向けられていたようだが、良心で腹は膨れない。大抵は不人気な煮物や焼き魚ばかりで桐馬は飽き飽きしていたのだが、稀にまわってくるハンバーグがごちそうだった。


 食卓に彩りが出始めた反面、桐馬は一人になる時間が増えた。


 共働きとなった両親の帰りが遅かったこともあるが、それだけが理由ではない。


 みすぼらしい容姿を、桐馬のクラスメイトは子供なりのアンテナで感じ取っていたらしい。関わらないほうが無難、距離を置いて接したほうがいい。そんな無言の共通認識はすぐに広がり、桐馬と進んで友達になろうとする子供はいなかった。先生ですらも腫れ物を扱うような態度で、クラスではいつも一人ぼっちだった。そんな状況で家に遊びに来るような友達などできるべくもなかった。


 そんな桐馬を気遣ってか、両親は貯金をはたいてテレビを買い与えた。型落ちの中古品で、天気次第で映らなくなることもある気分屋だったが、大した家具もない部屋では一つだけ、浮いた雰囲気を放っていた。


 誰に何を言われるでもなく、桐馬はそれをつけっぱなしにして生活していた。学校に行っている間も、風呂に入っている間も、寝ている間もずっと。


 テレビ番組や出演者そのものにさほど興味があったわけではない。バラエティだろうがニュース番組だろうが構わなかった。


 両親がおらず、一人だけで会話もない、無音の空間に嫌気が差していたのだ。人の声がするのならなんでもよかった。テレビが与えられる以前、時々隣の部屋から声が漏れ聞こえてくると、そのたびに桐馬は耳をそばだてていた。そんな様子を見かねたからこそ、両親はテレビを買ってくれたのかもしれない。


 家を出るときにテレビを付けておけば、帰ってくる時に迎えてくれる音がある。眠る前にテレビを付けておけば、起きたときにも音がある。それだけのことでも、桐馬はいくらか救われた気分になった。


 だが現実は上手くいかない。辛抱しながらも桐馬を気遣ってくれる両親だったのだが、いつからか二人は喧嘩を繰り返すようになった。


 元々、互いに仕事をしている関係で顔を合わせる時間は極端に少なくなっていた。ノイローゼになるほど劣悪な家庭環境。働いても働いても上向かない惨めな生活。馴染めない職場の人間関係。二人はそれぞれの心の内にフラストレーションを溜め続けていた。それらが行き場をなくし、不満を互いにぶつけ合うようになるのに、長い時間はかからなかった。


 母親は父親が不在の時、正面から桐馬の肩を掴んで、言い聞かせるようになった。


「あのね桐馬、お父さん、最近浮気をしているの。本当は別れてしまいたいのだけど、でもお父さんがいなくなったら生活していけないし……どうしたらいいのかしら」


 決まって父親の帰りが遅い曜日があった。仕事の終わりは十八時のはずが、帰宅時間は二十時になり、二十一時になり、ついには日付を回っても帰ってこないことが増え始めた。パートの掛け持ちに忙殺されていた母親は決定的な証拠を掴んでいたわけではなかったのだが、どういうわけか浮気を確信していた。父は定期的な飲み会と頑なに言い張っており、この出来事はいつも、二人が口論をはじめる際の火付け役になっていた。


 そして気づけば、母親も同じ曜日に家を空けるようになった。


 母も同じことを始めたのだ。子供ながらに、桐馬はそう思った。


 母親の行為に開き直ってか、父親が帰らない頻度が増え始めた。それに同調するように、母も家にいる時間が更に短くなった。


 再び金澤家から会話が消えた。


 一日中誰とも話をしない、口も開かない日がぽつぽつと生まれた。そんな日は代わりに、桐馬はテレビのボリュームを上げた。


 桐馬の生活に本が入り込んできたのはこの頃だった。学校の図書室で本を借りられることを知り、百ページにも満たない子供向けの物語に手を付けたのが始まりだった。三ヶ月と経たずに図書室の小説を一通り読み尽くした桐馬は、すぐに図書館や古本屋の常連になった。


 本の世界は、音が鳴るだけのテレビよりも深く桐馬を魅了した。想像力次第で幻の音が鼓膜を揺らし、幻の匂いが嗅覚をくすぐり、目の前に幻の光景が広がる。出口の見えないトンネルのような現実から逃避するために、桐馬は物語の中に活路を見出した。


 だが、どれだけ想像力を働かせようとも現実は変わらない。子どもの力で成り行きを変えられるようなものではなかった。ほどなくして父が出て行ったのだ。


 思えば、父親が桐馬と母を見捨てて出て行くという判断を下したのも、無理はなかったのかもしれない。学生の頃に授かり婚をしただけの相手だ。愛想が尽きるのも時間の問題だったのだ。


 桐馬は母親の「別れてしまいたい」という言葉を鮮明に覚えていた。だからこそ、父が出ていった時、母は喜ぶのではないかと思っていた。


 だが、置き手紙を破り捨てた母親の顔には、怒りと失望以外の感情がなかった。桐馬はその表情に、鬼気迫る般若を幻視した。


 その怒りが桐馬に向けられることはなかったが、母親はついに、ほとんど家に帰らなくなった。父親が消えて、浮気を取り繕う必要がなくなったのだろうと想像がついた。母が浮気相手との時間を増やすために「別れてしまいたい」と言っていたのなら、その望みが叶った形になる。


 だが桐馬はそれを、そこまで苦にしなかった。元々帰りの遅かった両親と会うことがなくなっただけだ。母が子どもの自分を放り出して誰と過ごしていようが興味もない。飽きるほど食べた惣菜は学校から帰ってくる時間にはちゃぶ台に載っていたし、パックご飯は食べ切る前に補充される。食べるのに困ることもなかった。孤独の時間は本が埋めてくれた。物語の中に、桐馬の世界はあった。





 そして、父親が出ていって半年が経過した頃。


 珍しく桐馬が起きている時間に帰ってきた母親は、その胸に生まれたての小さな赤子を──金澤優馬を抱いていた。

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