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死んでもいいわ

 9月半ばの夜。八神家。


 リビングに来た恭は、ベランダにいるあやめに気付いた。


「夜なのにベランダで何してんだ?」


 ガラス戸を開けて問う弟に、姉は夜空を指して答える。


「今夜は満月だから、お月見。秋だし、風流だろ?」

「月なんて見て何が面白いんだよ?」


 不可解そうな弟に、姉はふっと恰好つける。


「物言わぬ雪月花(せつげつか)を静かに愛でられてこそ大人ってもんよ」


 口ぶりはふざけているが、内容には一理あるかもしれない。


 そう考えた恭は自分もベランダに出て、あやめの隣で月を見上げた。


「意外と非日常感あっていいだろ?」

「まぁ、思ったより綺麗かな」


 夜風に吹かれながら満月を見上げるのは、確かに特別感があった。


「へへっ、恭君。月が綺麗ですね」


 唐突な姉の発言に、弟は困惑して首を傾げる。


「なんで急に敬語?」

「知らない? 昔、夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』って意訳したんだってさ。それが創作界隈で流行って以来、耳タコになるくらい擦られてる」


 姉の解説に、弟は眉をひそめて疑問を述べる。


「なんで『愛している』が『月が綺麗ですね』になるんだよ?」

「お前は愛する人に、愛してるって言えるか? 冗談でも適当でもなく、心から真剣に」


 あやめに問われて想像してみた結果、恭はボソッと一言。


「……言えない」

「だろ? それが日本人の普通の感覚。だから言葉にできない愛してるの代わりに『月が綺麗ですね』なの」


 姉の話を聞いて弟は一部理解したものの、こんな不可解さが残った。


「だとしても、なんで月?」


 『愛している』の代わりなら『ずっと一緒にいたい』とか、もっと相応しい言葉がありそうなのに、と恭は思った。


「何気ない風景でも、その人と見ると特別に感じられることが愛なんじゃない?」


 あやめの答えに、思い当たる節があった恭は、そうかもしれないと納得した。


「でも、お姉ちゃん、もっと好きな愛の言葉がある」

「何?」

「『死んでもいいわ』って。これも小説の翻訳が元らしいけど、ある愛の告白に原文だと『私はあなたのもの』って返すところを、二葉亭四迷は『死んでもいいわ』って訳したらしい」


 あやめが教えてくれた愛の言葉は『月が綺麗ですね』よりも恭にはしっくり来た。


「……それはなんか分かる気がする」

「ほ~。この訳の妙が分かるとは。意外と情緒あるな」


 ニヤニヤするあやめから、恭は少し視線を逸らしつつゴニョゴニョと言う。


「情緒あるって言うか……本気で好きな人が振り向いてくれたら、死んでもいいって思うかもなって」


 弟の純情さに触れた姉は、微笑ましさに「へへっ」と笑いながら口を開く。


「お前、意外と可愛いところあるよな」

「うるせぇ……」


 あやめと恋愛の話をするのが恥ずかしくて、恭は少し照れた。


 あやめは月を指して恭に問う。


「もうちょっと一緒に見てく?」

「……うん」


 姉弟は再び月を見上げた。あやめは夜空を見上げたまま何気なく呟く。


「お前と一緒だと、1人で見るより綺麗だわ」


 その綺麗に先ほどのような含みはなかったが、


「……それが本当なら」


 と恭は反射的に言いかけるも「ん?」と無防備に首を傾げるあやめを見ると言葉が出なくて、


「……なんでもない」


 と言えるはずのない気持ちを飲み込んだ。

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