ジャージを貸して
午前中の高校。あやめは休み時間に2年の教室を訪れた。
「おーい。恭君やーい」
入口から呼びかけると、弟が席を立って迷惑顔でやって来る。
「なんだよ。もしかして、また体操着を借りに来たのか?」
「うん、そう。お前の長袖を貸してくれ」
笑顔で手を差し出す姉に、弟は「別にいいけど……」と言いつつ不信な点を問う。
「なんでいつも上のジャージだけ忘れんだよ。もしかして、わざとやってないか?」
すると、あやめは無言で目を逸らした。
「おい。こっち見ろや」
「体育があるのは本当だから! 着替える時間が無くなっちゃうし、早く!」
追及を避けるため早口で急かす姉に、弟は「分かったよ……」と渋々ジャージを貸す。
「その代わり俺も今日は体育があるんだから、着替えたらすぐに返しに来いよ」
「分かった。ジャージ、ありがと」
それから20分後の体育の時間。あやめをはじめ女子は体育館でバスケをしていた。
「大きいジャージ。また恭君の?」
尋ねたのは、あやめの親友の秋津ほのかだ。身長は148センチのあやめより10センチ高く、淡い色の髪をゆったりと一本の三つ編みにしている。眼鏡が似合う大人しそうな少女だ。
親友の問いに、あやめは嬉しそうにブカブカのジャージを見せびらかす。
「そう。彼ジャーならぬ弟ジャー。いいでしょ~?」
弟とは言え、モテる異性から借りたジャージをわざわざ自慢する。普通なら気を悪くするだろうところ、ほのかは逆にうっとりと頬を染めて同意する。
「うん、最高だと思う。恭君、他の女の子には塩対応なのに、あやちゃんにはジャージを貸してくれるんだよね。それって、やっぱりあやちゃんは特別ってことだよね……」
「いや、いつも無理を言って借りてんだよ?」
あやめがツッコむと、幸いほのかはあっさり話題を変えた。
「でも恭君って、すごく人気なのに、しょっちゅうジャージを借りて妬まれない?」
「ひひっ、その嫉妬が気持ちいいんじゃないですか。私のような非モテ女が、姉というだけでボクシング部の八神恭のジャージを借りられる。アイツに気のある一軍女子の嫉妬を浴びるのが、私の何よりの愉悦なんですわ……」
体育終了後。3年の女子トイレ。
「さっきの聞いた!? 八神あやめの台詞!」
「八神君のジャージを借りて、わざとうちらに見せつけてるって!」
「見た目もスペックも最上級の八神君とは似ても似つかない陰キャチビのくせに、性格まで悪すぎ!」
「あんなのが姉じゃ、八神君が可哀想だよね~!?」
あやめのクラスの女子たちが鏡の前でエキサイトしていると、
「へっへっへ……」
怪しい笑い声とともに、トイレの個室がキィッと開く。
「きゃっ!? 何!? 今の不気味な笑い声!?」
怯む女子たちの前に怪異のように現れたのは、あやめだった。
「おやおや、誰かと思ったら同じクラスの皆さんじゃないですか。すみませんね。私のような陰の者が、あの八神恭の姉で」
「な、何よ、その薄ら笑い。いったい何を企んでいるの?」
たじろぐ女子たちに、あやめは陰湿な薄ら笑いで告げる。
「何も企んじゃいませんよ。ただうちの弟とは皆さんが思うより仲がいいので、今日あったことなどを事細かに報告はしますがね」
「今日あったことを報告って……」
「どこの誰に悪口を言われたとか。あの女は性格が悪いから、付き合わんほうがいいぞとか」
遠回しな脅迫に、クラスの一軍女子たちはギョッとして叫ぶ。
「要するに告げ口じゃない! やめてよ、八神君に悪口を吹き込むの!」
想定どおりの反応に、あやめは悪役のように笑いながら念を押す。
「それなら私があくまで恭の姉であることを忘れないことですなぁ。私を睨めばアイツの印象まで悪くし、私によくすればなんらかの恩恵があるだろうことを」
あやめの意味深な発言に、女子たちが「お、恩恵?」と目を丸くして尋ねる。
「八神さんによくしたら、何かしてくれるの?」
「例えば、この弟ジャーの匂いを嗅がせてあげたり」
あやめはそう言いながら、着用中のジャージを強調するように腕を上げて見せた。
「や、八神君のジャージの匂いを嗅ぐって! そんな変態的なことしないけど!?」
「ひひっ。流石、一軍女子さんは私と違って品がよろしくていらっしゃる。でもこんないい匂いを嗅げないなんて可哀想だなぁ」
あやめは彼女たちに見せつけるように、ジャージの袖をクンクンした。
女子たちはごくっと唾を飲みながら、あやめを覗き込んで問う。
「な、何? そんなにいい匂いなの? 八神君のジャージって」
「人がどう思うかは知らないけど、私は好き。うちの弟は匂いまでイケメン」
あやめはさっきまでの陰気さから一転、パッと明るい笑顔で言った。
その幸せオーラに、女子たちは「うぅ……」と唸ると、耐えかねたように懇願する。
「嗅がせて! 嗅がせてください、お姉様! でも八神君には言わないで!」
「ひひっ、じゃあ私が他の女子に虐められそうになったら助けると誓うかね?」
「誓う! 誓いますから!」
「じゃあ、嗅いでよし!」
「わぁっ!」
あやめは弟のジャージを脱いで彼女たちに渡した。エサに群がる鯉のように、女子たちが恭のジャージに顔を埋める。
「わ~、本当にいい匂いがする~」
「ハァハァ。これが八神君の匂い」
女子トイレの入り口から、その現場を目撃したほのかは、
(一軍女子の嫉妬を愉しむだけじゃなく、弟を利用して自分の立場を強固にするなんて、やっぱりあやちゃんはすごいや!)
と親友の逞しさにグッと拳を握った。
【オマケ・好きな匂い】
弟のジャージを利用し尽くしたあやめは、休み時間に再び恭のクラスを訪れた。
「恭~。ジャージ返しに来たぞ~」
「俺のジャージ、汚さなかっただろうな?」
疑わしそうに問う弟に、姉は一瞬の沈黙の後。
「大丈夫! 汚してはない!」
「おい、なんだ、今の間は? それに汚してはないって。汚す以外のことはしたのか?」
恭の追及に、あやめはあえてハキハキと早口で答える。
「単に人気のある弟のジャージを着ることで、女子の嫉妬を愉しんだだけだ。それ以外はほとんど何もしてないから大丈夫」
明らかに勢いで押し通そうとする姉に、弟はジト目で注意する。
「明らかに他にも何かしてんだろ。それと俺のジャージで女子にマウント取ろうとすんな」
「まぁまぁ、お礼にお姉ちゃんの匂いをたくさん付けといてやったから。お前も体育の時に楽しめ」
「どうやって楽しむんだよ……」
あやめと別れた後。
体育の時間。恭はクラスの男子とグラウンドでサッカーをしていた。
「どうした? 恭。さっきから自分のジャージの袖を嗅いで」
槇の指摘に、恭はハッと顔を上げる。
「いや、さっきうちの姉がジャージを返しに来たんだけど、『匂いをたくさんつけてやった』とか変なことをほざいてて。確かにアイツの匂いがするなって」
2人が話していると、新たな人物が現れる。
「えっ!? そのジャージ、恭のお姉さんの匂いがするの!? いいな! 俺にもちょっと嗅がせて!」
声をかけて来た小柄な少年は、恭のもう1人の友人である陽太だ。フレンドリーだが落ち着いた性格の槇と違って、陽太は全力で騒々しい。
陽太の不可解な要求に、恭は迷惑顔で尋ねる。
「なんでうちの姉の匂いなんて嗅ぎたいんだよ?」
「恭のお姉さんってちょっと変わってるけど、それでも女子じゃん! 俺、恭と違って女友だちどころか姉も妹もいないから、若い女の子の匂いを知らないんだよ! 嗅がせてよ! 現役JKのスメルを!」
詰め寄る陽太から、恭はさっと距離を取ると、不機嫌も露わに拒否する。
「は? 無理。うちの姉はすげぇ臭ぇから他人に嗅がせられねぇわ」
「それはそれで興奮するから!」
「うるせぇ。近寄んな。殺すぞ」
なんとか陽太を追い払った後。
休憩中。組んだ腕の中に顔を埋めている恭を見た槇は面白そうに尋ねる。
「で、本当はどんな匂い?」
「別に……。普通にうちの石鹸の匂い……」




