空には陰雲が重なり、春雨がしとしとと降り注いでいた。牛の毛のように細かい雨脚が青茅山全体を覆い、薄靄が山肌をぼんやりと霞ませていた。
宿屋の一階食堂は相変わらず客の入りが少なく、四組の客が散らばっているだけだった。窓際に座る方源の顔に、風に乗って花の香と詩情が舞い込んできた。
「天街小雨潤い酥の如く、草色遥かに看れば近く却いて無し」
方源は窓外を眺めながら唐代の詩句を口ずさみ、ゆっくりと視線を食卓に戻した。
朱塗りの膳には山海の珍味が並び、中でも青竹酒が際立っていた。竹筒に注がれた碧緑の酒液は、窓から差し込む微光を受けて琥珀のように輝いている。
三卓離れた席で、木綿の着物姿の老爺が孫と向かい合っていた。米酒の杯を傾けながら、ちらりと方源の青竹酒を羨望の眼差しで盗み見る。孫は滷汁に浸した大豆を頬張り、咀嚼の度に「カリカリ」と音を立てていた。
「じいちゃん、人祖の話してよ! お菓子買ってやるって約束したくせに!」
孫が老爺の肘を引きながら駄々(だだ)をこねる。老爺は苦笑いを浮かべつつ、皺の刻まれた手で孫の頭を撫でた。
「仕方ないのう。では人祖が希望蠱に心を預け、絶体絶命の窮地を脱したところから話すかの」
人祖は希望の力で危機を乗り越えたものの、老いて力衰え、歯も抜け落ちて野草さえ噛み砕けなくなっていた。死の気配が日増しに濃厚になる中、希望蠱が耳元で囁いた。
「人よ、寿蠱を捕らえよ。静止時は影の如く、飛翔時は光を凌ぐ速さと申伝わるが…」
人祖が嘆息を漏らすと、希望蠱は西北の巨山に棲む「円」と「方」の二蠱について語り始めた。
骨身を削る旅の末、人祖は山頂の洞窟に辿り着く。足元も定かならぬ暗闇の中、岩壁に額を打ち付けながら進むこと幾日――
「ああ、この暗黒から出られぬのか」
途方に暮れた刹那、虚空から二つの声が響いてきた。
一つの声が言った:「人よ、我々(われわれ)を捕らえようというのか? 力蠱を有していようと、無駄なことよ」
別の声が続く:「退きたまえ。知恵蠱の加護あろうと、我々(われわれ)を見出すことは叶わぬだろう」
人祖は力尽きた体を地に伏せ、喘ぎながら答えた:「力蠱も知恵蠱も既に我れを去り…残された命も風前の灯だ。だが希望の火種が心にある限り、諦めはせぬ!」
二つの声は沈黙した。
時の経つにつれ、最初の声が再び響いた:「理解した。汝は心を希望蠱に委ねたのだ。最早退く気など毛頭あるまい」
第二の声が続ける:「ならば機会を与えよう。我々(われわれ)の真名を叫べ。正しき名を呼び得たなら、汝のものとなろう」
人祖は呆然とした。無数の言葉の中から二つの名を当てるなど、大海に針を探すようなもの。まして名の字数すら知らぬ。
希望蠱に尋ねるも、彼も知らぬ。人祖は覚悟を決め、次々(つぎつぎ)と名を叫び始めた。
「天の蠱!」
「地の蠱!」
「陰陽蠱!」
暗闇は冷たい沈黙で応えた。時間が過ぎるにつれ、人祖の声は枯れ、老いた体は夕陽のように衰えていった。
携えた食糧も尽き、思考は鈍り、声帯も震えるようになった。
「人よ」暗闇の声が慈悲を垂れるように告げる。「洞外で最期の日を眺めよう。ただし希望蠱を我々(われわれ)への贖いとせよ」
人祖は胸に手を当て、烈火の如く拒絶した:「たとえ死すとも希望を手放さぬ!」
希望蠱は人祖の決意に応じ、微かながらも潔白な輝きを放った。胸元から漏れる光は暗闇を照らすほどではなかったが、新たな力が全身を駆け巡るのを感じた。
「乾坤蠱!」
「太極蠱!」
老いによる記憶の混乱で、既に試した名を繰り返すことも多かった。命の砂時計が刻む音が、洞窟に重く響く。
その時、人祖が無意識に「規」と呟いた。
瞬時く間に暗闇が消散し、眼前に二体の蠱が現れた。希望蠱の言う通り、方い蠱は「矩」、円い蠱は「規」。合わせて「規矩」と呼ばれる存在だ。
二蠱が斉しく口を開いた:「名を知りし者には従わねばならぬ。汝が最初の降伏者なり。但し、他の生霊に我らの真名を知らしむるな。知る者多ければ、服従すべき主も増えゆく」
人祖は狂喜して命じた:「寿蠱を捕らえよ!」
規矩の二蠱が協力し、八十年分の寿蠱を捕獲。百歳の人祖がこれを食うや、皺の刻まれた顔が滑らかになり、枯れ枝の如き四肢に若々(わか)しい筋肉が蘇った。
「ぬうっ!」
鯉の跳ねる如く地面から躍り上がる人祖。二十歳の若者へと戻った体を確かめるように掌を開き、指先から若葉色の輝きが零れた。
……
「今日はここまでにしとくわ、帰るぞ、いい子。」老人はこの話を終えると、酒も飲み終えていた。
「じいちゃん、まだ続きを話してよ、人祖はその後どうなったの?」孫が駄々(だだ)をこね、老人の腕を揺すった。
「さあ、時間あるときにしよ。」老人は編んだ笠を被り、孫に小さな蓑を着せた。
祖孫二人は宿屋を出て雨の中へ歩き出し、次第に遠くへ消えていった。
「規矩か…」方源は目を細め、杯を回しながら青竹酒の液面を凝視した。人祖の伝説は世間に広く知られており、知らぬ者はほぼいない。方源も当然昔から聞いていた。
しかし伝説も物語も、解釈は人ぞれぞれだ。先程の祖孫は単なる話として聞いていたが、方源はその中に潜む深意を汲み取っていた。
例えば人祖が規矩を知らなかった時――暗闇の中で手探りし、転び傷つき、時には広大な虚無に途方に暮れた。
「この暗闇は単なる『暗さ』じゃない。力も知恵も希望も通じぬものだ。」
人祖が「規矩」の名を看破した瞬間、暗闇は消え光が差した。暗闇も光も、全て(すべて)規矩の理だった。
方源は杯から目を離し、窓外を見やった。
雨雲が垂れ込む空の下、緑濃い山々(やまやま)が霞んで見える。近くには高床の竹楼が並び、道を歩く二、三人(に、さんにん)の行人が、蓑や油紙の傘で雨を凌いでいた。
「天地は巨大な碁盤のようだ。」方源は心で整理した。「万物は全て(すべて)駒で、それぞれの規矩に従って動く。四季は巡り、水は低きへ流れ、熱気は高く昇る。人にも当然規矩がある。」
「各人は各が立場を持つ。例えば古月山寨では――奴僕は命軽く、主は尊し。これが規矩だ。だから沈翠は必死で奴籍を脱し、高碗は主君に媚びた。」
「叔父夫婦は欲深く、両親の遺産を狙う。学堂家老は己が地位を守るため蠱師を育成する。」
「各人に各が規矩、各業界に業界の規矩、各社会集団に集団の規矩がある。この規矩を看破すれば、渦中にいながら冷静に観察できる。暗闇を脱し光を得、刃物の上を歩くが如く自在に振舞えるのだ。」
方源は自が境遇を連想し、既に胸中で策略を練っていた:「古月漠塵にとっては、自派の繁栄と利益を守ることが規矩だ。漠顔が私に因縁をつけたことは既に規矩破り。家名を守るため、彼は私に手を出せない。むしろ賠償すらするだろう」
「実際漠家の勢力なら、名誉を傷つけても私を罰することは可能だ。だが漠塵は恐れている――自らの規矩破りではなく、他者が後追いで規矩を乱すことを。若輩の争いに老いたるが干渉すれば、事態は拡大し、一族全体の脅威となる。彼が真に恐れるは、孫の漠北が将来他者に狙われることだ。後継の男児ただ一人、もし死なば――この恐怖は彼自身も気づかぬ潜在意識だろう。ただ規矩を守る本能で動いている」
方源の双瞳は透き通っていた。高碗が古月の姓を持たぬ外者、奴僕である本質を看破していた。
「主君が奴僕を処刑するなど、何の咎めも受けぬ。この世では当然のことだ」
高碗の死自体は重要ではなく、背後の漠家との関わりが鍵だった。
「ただし私が送った肉片入りの箱は、漠塵に『妥協と脅迫』と解釈されるだろう。まさに狙い通りだ。漠家は高碗の件を追及しない。仮し私の資質が乙等なら、将来の脅威として弾圧されただろうが」方源は内心で冷笑した。
強きは頼りとなり、弱きは利用される。
方源自身も現在は局中の駒だが、規矩を熟知し棋士の視座を獲得していた。
凡庸な者は漠塵や学堂家老のように自派の規矩しか知らず、他分野には暗い。方源のように大局を洞察し規矩を極める者は極めて稀だ。
規矩を会得するには、人祖が暗闇で這いずり回り彷徨った如く、力・知恵・希望も無力な時間を費やし、身をもって体得せねばならない。
人祖が「規矩二蠱」の名を看破したのは、死の影に脅えながら無数の試行錯誤を重ねた結果だ。
方源が規矩に通じるのは、前世五百年の経験の賜物。
転生以来の自信は、春秋蝉の再現でも、秘境の財宝の知識でも、未来の大勢を予知する力でもない。
前世の五百年で積み上げた処世術こそが根幹だ。
人祖が規矩二蠱を掌握すれば万虫を捕獲できる如く、方源が規と矩を極めた今、世事の糸を解し核心を貫く。高みから冷笑しながら、人々(ひとびと)が各が規矩に従い定められた道を歩くのを冷視する。
闇も光も全て(すべて)規矩が生じたもの。
転生の魔頭は既に光の中を歩き出している。