3.空色の騎士
…ゆ……………ま、……………ゆう……さま。
「勇者さまっ!」
耳元で聞こえる大きな声に、レオニスはまた目を覚ました。
気が動転する。
目が覚めた、ということは自分はまた気を失っていたのか?
しかしそれならば、一体なぜ?
と、思考している間にも、目の前には心配そうに覗き込んでくる紅い髪の魔族の姿があった。
レオニスはフィナンジェに、膝枕をされていた。
「またフィナンジェか」
「またではありません!」
まるで母親に怒られた時のような響きだったが、レオニスにとっては懐かしくはなかった。
レオニスの母親は怒るような人ではなかったからだ。
「えっと……」
困惑する。レオニスは自分が何故敵である魔族に怒られているのか理解が出来なかった。後頭部に感じるフィナンジェの体温と柔らかさの理由も、思い当たることはない。
「いつもいつも、魔王さまに挑まれては何も出来ずに昏倒し、そして私に送り返される。それは構いません、いつものことですから。しかし、今回はなんですか!? いきなり倒れて登場ってどういうことですか!?」
ここまでフィナンジェが感情を露にすることは珍しく、レオニスにとっても新鮮なことで目を丸くする。そんなレオニスの様子に、フィナンジェの怒りは加熱する。
「何を呆けているのですか! 心配したのですよ!?」
「す、すまない……」
あまりの剣幕に反射的に謝ってから、レオニスは何故自分が倒れていたのかを思い出した。
「そうか、俺は腹が減って……」
語ろうとすれば情けない限りだが、数日前に故郷の村を出た瞬間から、レオニスは空腹を感じていた。
それもそのはずだった。
前回魔王城で気を失って村に送られたレオニスはユリアに発見され家に運ばれたわけだが、実はその後三日もの間眠り続けていたのだ。
当然その間は飲まず食わずだったわけで、にも関わらず覚醒してすぐにまた村を出てしまったので、食事をとるタイミングを完全に失したのだった。
まあ、本当なら村にすぐ引き返し食事をして再出発すれば良かった話なのだが、カッコつけて家を出た手前、すぐにユリアの居る家に戻るのもからかわれる気がして躊躇われたのだ。
つまりはくだらない意地だった。
それから魔王城へ行く途上には村や街はないし、レオニスは覚悟を決めて空腹と戦いながらようやく魔王城へと辿り着いたのだが、そこで気が抜けてしまい空腹の限界に意識を失ったのだった。
本当に情けないと、自分でも思っていた。
「空腹ですか!? まさか魔王さまと戦いに来ているというのにお腹を空かせているのですか!? 勇者さまは力がないだけでは飽きたらず知恵すらお捨てになられたのですか! 腹が減ってはなんとやらと、言うではないですか!」
フィナンジェの言ってることは全部事実でごもっともなので反論は出来そうにないが、それにしても辛辣だとレオニスは思った。
この妖艶な魔族の女は、いつも落ち着いていて冷静でおしとやかでいて礼儀正しい、という魔族にしておくには勿体ないほどの女性だと密かに思っていたのだが、まさかここまで激昂することがあるとは。
レオニスは辟易して首肯し続けるしかなかった。
するとやがてフィナンジェは、諦めたように『ふぅ』と溜め息を吐いた。
「まあ解ればいいのです。少し言い過ぎましたね、申し訳ありません」
と、そこはフィナンジェらしく恭しく頭を垂れた。怒った後でそれに対して謝るところが彼女の“らしさ”でもある。
「とりあえずお腹を満たす必要がありますね。勇者さまを城の食堂にお連れいたします」
フィナンジェの魅力的な提案に、しかし未だ横たえたままのレオニスは戸惑った。
「えっと、俺は魔王城の食堂には赴いたことがないが……」
「それが何か?」
「いや、お前はこの間、『知らない場所に転移で行くことは出来ない』みたいなことを言っていなかったか?」
「ああ、なるほど」
フィナンジェは得心したようだが、何故かその後クスクスと笑った。そしてその純粋な笑みが悪意を含んだものに変わり、フィナンジェの美しい顔を下から見上げていたレオニスの背筋にゾクリとしたものが走る。
「勇者さま、あれは嘘です」
「ええっ、嘘!?」
「大きい声を出さないでくださいませ。体力を消耗しますよ。まあ、1から100まで全部が嘘とは言えませんが、別に私は誰であれ何であれ、“私が知っている場所”であれば転移させることが出来ます。しかし対象が意識を有している場合、その意識の方向で魔力の消費量に差が出るのです。ですから先日は魔力の節約の為、勇者さまにもご協力いただいたということです。密着したことと同じ理由ですね」
「なる……ほど」
つまりは、転移する人間が転移する場所を思い浮かべることで、魔力の消費を抑えることが出来るらしい。
「はい。でなければ意識を失っている勇者さまを、どうやって私は勇者さまの故郷に送り返すのですか。少し考えれば解ることと思いますが。勇者さまはバカですか?」
「なんか今日は一段と厳しいな……」
冷たい目でレオニスを見ていたフィナンジェだったが、指摘を受けてハッとする。
「す、すみません! 勇者さまを罵倒するの、少しクセになってしまいそうです。気をつけますね」
「あ、ああ……」
フィナンジェの中に、新たな性癖が芽生えようとしていた。
「さあ、とにかくお食事をしましょう。ともすれば、また密着させていただきますね」
言うが早いか返事も聞かずに、フィナンジェはレオニスの頭を優しく地面に置くと、仰向けのレオニスにうつ伏せで重なった。
程よい大きさの柔らかな乳房がレオニスの胸に当たって形を変え、心の中で悶えながらも身動きの取れない彼の心臓だけが、バクバクと鼓動を刻んでいた。
「うふふ、勇者さま、何をドキドキしているのですか? 全部私の胸に伝わっていますよ? 行き倒れたこのような状況でもこの身体を魅力的に思ってくれるのですね。嬉しく思いますよ」
耳元で囁かれる度に、レオニスは背筋が震えるのを感じた。
あまり感じたことのない、そんな快楽に似た感覚に浸っている間に。
景色がどろどろに溶け、そして違う形に凝固していた。
「きゃあっ!」
視界が完全に固まると同時に悲鳴が聞こえた。
レオニスはデジャブを感じた。
しかし景色は確かに魔王の居る玉座の間ではなく、壁一面が黒曜石で出来ているような品のある広い空間に、沢山の白い椅子と、同じく白いクロスの掛かった長大なテーブルが並ぶ広間だった。
確かに食堂といった感じだと、レオニスは思った。
「な、何をしているのだお前は!」
先の悲鳴と同じ女性の声。
堅苦しい言葉使いに似つかわしくない高めの綺麗な声音だった。
レオニスが顔を動かしてその姿を探すと、ようやく声の主を視認出来た。
声の主は、緩く癖のついた長い空色の髪をお洒落にも編み込んでいる、凛とした雰囲気のある女性だった。
その姿は態度に相応しく、重厚感のあるメタルブルーの鎧を纏っている。
その騎士然とした女性は険しい表情で白い雲のようなものをレオニスとフィナンジェの方へと突き出していたが、レオニスにはそれがなんだか分からなかった。
「あらあら、これはエカレアさん」
恐らく空色の女性が示したところの『お前』であるフィナンジェがいつもの物腰で応じる。
どうやら空色の女性騎士はエカレアという名前のようだ、と、未だに紅い魔族の下敷きにされたままのレオニスは思った。
しかしそれと同時に違和感も感じた。
寝転がっているというのに、エカレアという女性とレオニスとはそれほど目線が変わらなかった。
エカレアは椅子に座っているとはいえ、それでもレオニスは床に寝ているはずなので、もっと高低差が生まれるはずなのだが。
「『あらあら』ではない! 急に現れ食事をするテーブルの上に土足で寝そべり、あまつさえ……その、男と……男とっ!」
エカレアの言葉を聞いてレオニスは納得した。視線を巡らせてみれば確かに、レオニスは幾つも並んでいる長大なテーブルの内の一つに寝そべっているようだった。
それと同時にフィナンジェは別のことに気付いていた。
「あまつさえ、男と、なんですか? エカレアさん」
それはエカレアがあらぬ誤解をしているということだった。初心なくせに“そういう”知識だけはある女性騎士をからかうこのチャンスを見逃すような魔王の側近ではなかった。レオニスは先日自分も同じようにされたことを思い出し、エカレアに内心で同情する。
「いや、その……つまりだな……」
案の定、エカレアは思ったことを直接口に出すことを躊躇ってしどろもどろだった。
それを見ているフィナンジェの顔が楽しそうで、レオニスは少しばかり恐怖を覚える。
「まあ、エカレアさんがどの様なエロい妄想をしたのかはさておき、私達は転移してきただけですよ。テーブルの上に乗ってしまったのは事故か、あるいは勇者さまが寝台でも思い浮かべてしまったのかもしれませんね」
急に話を振られ、レオニスはギクリとした。
決してそういう妄想をした気はなかったが、無意識にイメージはしたかもしれない。
『魔王を倒す』という崇高な目的があろうとも、レオニスは年頃の男性なのだ。こういう体勢であれば、脳裏にそういう場所を思い浮かべてもなんの不思議もない。
「え、エロい妄想など私はしていない!」
即座にそう否定したのはレオニスではなくエカレアだった。レオニスは絶対嘘だと思ったが口に出しはしない。
エカレアが勢いで椅子から立ち上がる際にテーブルを叩いた衝撃が、レオニスの頭に響いた。
「おやまあ、必死で否定すると逆に怪しいですよ? ねえ、勇者さま」
「お、俺に振るんじゃない」
自分も同罪に思っているレオニスはついついフィナンジェから視線を逸らしてしまう。そんな様子を見てフィナンジェはクスクスと笑った。
「素直で可愛らしいことです♪」
まるでペットを愛でるような目付きと手付きで、フィナンジェはレオニスの頬撫でた。レオニスは一瞬心が溶けてしまいそうなほどの悦楽を覚えたが、エカレアの言葉でハッとする。
「あーもう、私の前でそういうのをするなと言っているのだ! というかその男はなんだ? 勇者、だと?」
今度は稲妻のようなエカレアの視線が、エカレアを見ていたレオニスの目を射抜く。『勇者』という言葉に反応するのは、ここが魔王城でエカレアが魔族であるならさもありなんといったところだ。それを理解し、レオニスはあまり意味はないと思いつつも正しい自己紹介を試みる。
「俺はまだ勇者ではない。俺の名前はレオニス――レオニス・フェローリアだ」
「そんな体勢で自己紹介をされたのは初めてだが、礼には礼で応えねばなるまいな。私は魔王軍魔術騎士団団長のエカレアだ」
なにやら物凄い肩書きも気になったが、それよりも意外なまでの礼儀正しさにレオニスは驚く。フィナンジェと魔王といい、そしてこのエカレアという女性騎士も、下手をすれば大半の人族よりも礼節を重んじている気すらする。
レオニスの中の、魔族のイメージが更新された。
「して、『まだ』ということはいずれは魔王さまの首を取るおつもりか?」
「それは――――」
「待て」
レオニスは即座に返答をしようとしたが、エカレアなぜか静止した。
「この返答次第では私がこの場で貴様の首を落とすことになるぞ。よく考えて答えるんだな」
空色の騎士が放つ圧力はとてつもなかったが、しかしそれがレオニスの為の忠告だということはすぐに分かった。本来なら言わなくてもいいことだ。だから多分このエカレアという女性は優しいのだろう。だがしかしそれが分かっても、レオニスが信念を折ることはない。
「忠告痛み入る。しかし俺は、魔王を討つ」
「そうか……ここでそう言い切る度胸は認めよう。私は貴様のようなやつは嫌いではない」
その言葉にレオニスは安心しかけたが、エカレアが右手に持っていた雲のような何かを左手に持ち替え、そして空いた右手で左腰に下がった剣を引き抜いたのを見て、死を覚悟した。
「お別れだ。短い付き合いだったな、レオニス・フェローリア」
冷たい言葉が心に刺さる。
エカレアが慣れた手付きで剣を構えたその時。
「エカレアさん、いいんですか、そのようなことをして」
フィナンジェが冷静に口を挟んだ。構えの姿勢を取ったまま、エカレアの眉間に皺が寄る。
「どういう意味だ?」
「このお方を殺せば、あなたは魔王さまを傷付けることになりますよ」
「何を言う。逆だろう。この男こそが魔王さまを傷付けようとしているのだ。そして魔王さまに仇なすものを討つのが私の使命だ。こいつを殺せば、魔王さまだってきっと私を誉めてくださるはずだ」
エカレアの言うことを聞いて、フィナンジェはわざとらしく「はーあ」と溜め息を吐いた。
「これだから無知は罪だというのです」
「なんだと?」
エカレアの表情が一層険しくなる。
「よいしょっと」
テーブルに手を付いてようやく上体を起こしたフィナンジェはレオニスの身体に跨がったままで、剣を構えたままのエカレアへと身体を向け直し、そして言った。
「この方をどなたとお思いですか?」
フィナンジェの細い指が、レオニスの胸の中心を優しく撫でた。もう何度目か分からない心臓の突発的な脈動が、レオニスを襲う。それに気付くも気にせず、フィナンジェは続ける。
「このお方は、魔王さまの想い人なのですよ」
食堂の空気が静まる。
今この三人以外に人気はない。
静謐とした空間でフィナンジェはエカレアを、エカレアはレオニスを、レオニスはフィナンジェを見つめていた。
そして。
「「えーーーーーーーーーーっ!?」」
レオニスとエカレアの声が綺麗重なった。
その驚嘆を受け、フィナンジェは可愛く首を傾げた。
「どうして勇者さままで驚かれるのですか?」
「い、いやどうしてって、そんな話を俺は聞いていない!」
「話の流れで察してくださいよ。前回来たときに魔王さまが勇者さまに『キスしてほしい』と言ったことをお忘れですか?」
「それはそうだが……それは他に男が居ないから仕方なく俺なのかと……」
「あらまあ、勇者さまは魔王さまのことを、男なら誰でもいいというような淫乱とお思いなのですか?」
「い、淫乱て……そんなことはないが……」
それどころかレオニスはあの魔王のことを純粋な少女だと評価していた。しかしそれでも自分があの可愛らしい少女に恋心を抱かれるなど絶対にないと思っていた――――いや可能性すら考えていなかったのだ。
それに、淫乱というのはどちらかといえば――――と、レオニスはフィナンジェを見つめる。
「男なら誰でもいいというような淫乱、というのはお前のことではないのか、フィナンジェ」
さすがにもう構えた剣を下ろしながら、エカレアはまさにレオニスが心に思った言葉でフィナンジェを斬りつけた。
「な! エカレアさん、失礼なことを言わないでいただけますか? 私はこう見えてもまだ、男性に心も身体も許したことはありません!」
「そうか。だがこれほど説得力のない構図も他には無いがな」
エカレアの言う通りである。
正直なところレオニスはさっきからフィナンジェに情欲を掻き立てられてばかりだ。フィナンジェの方はどうなのか分からないが。
それでも男の身体に跨った女性というのがそれだけでどこかいやらしく思えるのは、そう思う方がいやらしいのだろうか。
「これくらいはスキンシップの範疇です。とはいえ、このまま話を続けるのはやめましょう。勇者さまの飢えもそろそろ限界でしょうし。エカレアさん、私達は食事をしにきたのです。神聖な食堂で剣を抜くなど、あなたこそ品位に欠けるのでは?」
フィナンジェの指摘にエカレアは激昂するのでは、とレオニスは思ったが、以外にも素直に、空色の騎士は無表情で抜き身の剣を豪奢な装飾の施された鞘に納めた。
「確かに、食堂で流血沙汰を起こすなど無粋の極み、不躾だった。すまない。分かった、とりあえずは食事をしよう。私も丁度今からなのでな。だから、魔王さまとその男との話を、聞かせてくれ」
「ふふ、エカレアさんは本当に出来た魔族ですね♪」
「よしてくれ、お前に褒められるのは癪にさわる」
「相変わらずつれないことです。では勇者さま、降りましょう」
そう言いながら、ようやくフィナンジェはレオニスの上から、そしてテーブルから下りる。
続いてレオニスが下りようとした、その時。
レオニスの腹の虫が盛大に鳴き、広い食堂に響き渡るのだった――。




