番外編 体育祭編
後書きに挿絵として載せますが、ジャージ姿の紫苑と浅葱のイラストを描いていたら書きたくなったのでばーっと書いた番外編です。
紫苑が三年生、浅葱が二年生のお話。
◆
学年別リレーは、一年、二年、三年の順に行われる。浅葱が走る姿を見てから走ることになるのか、と思いつつ、二年生が走っていく姿を退屈しのぎに眺める。正直暑い上に太陽は眩しいから、テントの下で見学をしていたい。
とはいえ、僕は個人種目などは出ないため、この学年別リレーだけ終えれば好きに過ごせる。その時は浅葱と話でもしよう。そう考えているうちに、浅葱の走る順番が来たみたいだ。緊張した面持ちでテイクオーバーゾーンに立つ姿は頼りない。けれど走順は真ん中あたりだし、彼女が仮に転んだとしても後半の走者が追い上げるだろう。なんて失礼な想像をしていれば、浅葱がぎこちない動作でバトンを受け取った。進行方向に向き直ろうとした身体の下方で、砂埃が立つ。観客の声援やスピーカーから流れる音楽で掻き消えていたが、きっと擦過音が響いていたはずだ。
方向転換をしたと同時に彼女の体は傾いた。走ろうとした力が加わっていたこともあり、滑りながら倒れ込んだ姿は痛々しい。元々二位だった彼女のクラスは他クラスにどんどん抜かれていく。痛むであろう体がゆっくりと起こされた時には、もう最下位となっていた。
正面を睨むように見据えた目は一瞬しか見えなかったが、泣き出しそうに歪んでいたことを、僕は見逃さなかった。ふらつきながらも次の走者のもとまで走った彼女が、バトンを渡して待機位置に向かう。待機位置で彼女がどんな顔をしているのか、クラスメートにどんな目を向けられるのか、想像しただけで彼女のもとへ向かいたくなる。というのに、三年である僕はまだ入場門を潜れないし、潜れる時になれば浅葱は退場してしまう。
悔しさに歯噛みして、人混みに紛れた浅葱の姿を探した。体育座りで、やけに背中を丸めて、膝に顔を埋める彼女が見えた。
伝えたい言葉が沢山ある。居心地の悪いであろうあの場から連れ出してやりたい。だが見ていることしか出来ない。
やがてすぐに二年生は退場門を潜っていく。浅葱は、恐らく担任教師と思われる大人に付き添われて保健室の方へ向かっていた。
それを目で追っていたが、僕の前に座っていた男子生徒が立ち上がった為、入場の時間であることを想起して僕も立ち上がる。
走り終えれば良い。早く。速く。そうしてすぐに、彼女のもとへ向かえば良い。退場直後に保健室へ走れば良い。
胸中で何度もそう唱えて、僕は待機位置で自分の走る順番を待っていた。僕の順番は後半寄りの中盤の為、なかなか回ってこない。早くと念じていれば、やがて自分の番になる。
テイクオーバーゾーンに立つも、バトンはまだ回ってこない。僕の前に走っている女子生徒は走るのが苦手なのか、転びそうな姿勢で、それでも転ばずにこちらへ向かってきていた。抜かれていく彼女にクラスメートの文句が聞こえてきて唇を噛む。先程浅葱はこんな気持ちだったのだろうか。聞こえた文句が呪いみたいに耳にこびり付いていそうだ。早く、慰めてやらないと。
僕と同じ走順の生徒達が既に駆け出してから、ようやく女子生徒が僕の方へバトンを差し出した。
「く、呉羽くん……っ!」
お願い、と懇願するような目からも声からも僕は顔を背ける。名も知らぬクラスメートの為になにかをしてやるつもりなんてない。ただ、浅葱のために、誰より早くこの場から走り去りたかった。
適当に走ろう、なんて思考はどこへやら。気付けば、手を抜くことも繕うこともせずに全力で駆けていた。前を走る他クラスの生徒がいつの間にかいなくなっていて、僕の視界には次の走者達が映る。
誰に渡せば良いのか分からなかったが、取り敢えずクラスカラーである青のゼッケンを身に付けている女子生徒へバトンを突き出した。どうやら合っていたようで、彼女はどこか驚いたような顔をしつつも受け取って駆け出す。そして僕は待機位置へ歩いて――座りはせずに、退場門へ駆け出した。
「えっ、ちょっ、君!?」
「呉羽! 退場はまだ――」
教師の声が聞こえたがそんなものに構っていられない。退場門を飛び出して駆けていく僕は、多分目立っていただろう。それでも他人の目なんて気にならなかった。頭には、浅葱のことしかなかった。
「っ浅葱!」
開けられたままだった保健室の扉に手を突いて、中を覗き込む。乱れた呼吸を鎮めるため、ジャージの胸元を握りしめた。
室内には、保健の教師と浅葱しかいない。ガーゼが貼られた痛々しい両足を曲げて、彼女は椅子に座っていた。僕はその姿を認め、靴を脱いで保健室へ上がる。
「紫苑、先輩……」
「ごめん、いきなり大声で呼んで」
「駄目、じゃないですか」
震えた声に顔を上げてみれば、目の前に座る彼女は双眸に雫を溜めていた。涙が室内光で煌めいて、頬を下る。よく見たら、その頬と左腕にもガーゼが貼られていた。
「退場、まだなのに。飛び出してきたら、駄目じゃないですか」
笑って言う顔は、嬉しそうにも見える。けれどその涙はとても悲痛な色をしていた。堪えていたのだろう、僕と視線が絡んだ途端、しゃくり上げて泣き出した。傍に寄って頭を撫でてやると、彼女は僕の胴にしがみつき、声を上げて啼泣する。
「先輩っ……見てたんですよね、私、転んだの。それで、心配して、わざわざあんな、退場まだなのにっ……!」
「……なんだ、見てたの?」
見られていたと思うと照れくさくなって苦笑が込み上げる。浅葱は僕のジャージを引っ張りながら勢いをつけて、泣き顔で僕を仰いだ。
「見てました……っ! すごく、速くて……先輩、あんなに足速くて全員抜いちゃうくらいカッコいいんだって、思ってたら、一人で退場門に走ってっちゃって……! 窓からずっと見てました。ずっと、走る姿を追いかけてたら、っなんで紫苑先輩……私の所に来るんですかぁ……っ!」
感情的になるあまり彼女の言葉はまとまりがない。それが少し微笑ましくて、僕は頬を緩ませた。
「泣いてるかなって思ったから、一秒でも早くいつもの阿呆面に戻してやりたかったんだよ」
「あ、あほづらは、余計ですっ!」
「はいはい。……で、来ちゃ駄目だった?」
「だって……私のために、あんなに走ってくれたんだって思ったら、もっと好きになっちゃうじゃないですか……っ!」
真っ直ぐに向けられていた顔が、下を向く。僕に顔色を窺わせたくないのか、浅葱は僕のジャージに自身の顔を押し付けた。けれど涙で汚してしまうと思っているみたいで、遠慮がちに触れられる。僕はその後頭部を片手で軽く押してやった。
「別に、君の為じゃないから」
「っ嘘です……!」
「本当だよ。僕が嫌だったから来たんだ」
「それでも好きですっ……!」
「それはどうも」
今となっては言われ慣れた好きという言葉を軽く流して、僕は彼女の頭を押しながら撫で続ける。その顔を今は上げさせたくなかった。慣れたとは思っているけれど、自分が今普通の顔をしている自信がない。「泣き止むまで待ってあげる」なんて建前を口にして、僕は左手で自身の額を押さえた。
◇
紫苑先輩にしがみついて泣いている間、私は走っていた時のことを思い出していた。転んだ瞬間に聞こえた「えぇっ!?」という動揺と怒りに満ちた声。痛くてなかなか立ち上がれない中、私の後の走者の子達が早くしろと鋭く言ってきた。棘を投げつけられても私は文句なんて言えない、だって転んだ私が悪いのだから。
走り出してからも周りの目が気になって仕方がなくて、走り終えてからも怖くて、待機位置でも目と耳を塞いだ。何も見たくなかったし何も聞きたくなかったのだ。
紫苑先輩の体温を感じながら回想していたら、不思議と怖さも情けなさも溶けていくみたいだった。彼のジャージに染み込んでいく涙が、全部溶かしてくれているみたいだった。
次いで思い出していくのは、紫苑先輩の走る姿。先輩はテイクオーバーゾーンで待っている人の中で一人だけジャージ姿だったし、容姿も整っているから待機時でも既に目立っていた。それから走り出した彼に、かっこいいという歓声が飛んでいたことを、彼は知らないだろう。漫画だったらファンクラブとか出来てしまいそうだ。退場門の傍にも誰もいなかったから、そちらに向かう彼も目立っていたし、そこからここまで走る様もたくさんの生徒に見られていた。
目立つことを嫌いそうな紫苑先輩が、形振り構わず私のもとに来てくれたことが、本当に嬉しい。悲しさもやるせなさも悔しさも、全部無くなっていく。思わず、唇の隙間から吐息が溢れた。
「ふふっ……」
「……何笑ってるの」
「嬉しさを噛みしめていたんです」
顔を上げたら、紫苑先輩が両目を皿のようにして私を見ていた。「あっそ」という素っ気ない言葉は照れ隠しだと思う。微笑みを湛えた私と、苦笑いを返してくる紫苑先輩の横から別の声が差し込まれる。
「あー、まぁ体育祭って言ったら青春だし、保健室でイチャイチャも良いんだけどさ? 今アナウンスで高城先生が呼んでた呉羽くんってあなたでしょ?」
保健室の先生がいたことをすっかり忘れていた私は息を飲んだ。紫苑先輩も忘れていたみたいで、肩を小さく跳ね上げてから左方に顔を向ける。
「……呼ばれてましたか?」
「呼ばれてたよー、さっき。すごい疲れたような声で。『三年四組呉羽、今すぐ本部に来るように』って。絶対お説教だね。走ってる人は走ってて待機してる人は待機してる中、退場門に走ってくあなたすごい目立ってたよ」
「……はぁ。担任に顔を見せに行くのは面倒なので、浅葱に付き添います」
「せ、先輩!?」
心底面倒くさそうな顔をしているけれどそれは駄目だろう。更に怒られてしまうと思う。私のことは良いから担任の先生のところへ向かって下さい、と言う前に、また新たな声が保健室に響く。
「っ呉羽!! おま、お前なぁ!!」
今度は右方へ虹彩だけを向けた紫苑先輩が、眉を顰めて溜息を吐いていた。息を切らして紫苑先輩を呼んだのは、恐らく先輩の担任教師だ。疲れきったように深呼吸をした後、ずかずかと先輩の前まで歩いてくる。
「お前のおかげで勝てたようなもんだから、良くやったって言いたいけど! 何やってるんだ! 三年生として見本になるような姿を見せなければいけないのに、退場の合図を待たず退場する馬鹿がどこにいるんだ!?」
「ここに、いたみたいですね」
抑揚のない声で薄く笑った紫苑先輩に、高城先生が眉を吊り上げる。
「っお前反省してないな!?」
「というか勝てたんですか、おめでとうございます」
「呉羽お前謝る気ないだろ!?」
「――あ、あの!」
だんだんとヒートアップしてきた高城先生の声色に耐えきれなくなり、私が声を上げると、先生は初めて私の存在に気付いたみたくきょとんとしてこちらを向いた。紫苑先輩が、何も言わなくて良いと言わんばかりに片手の平をこちらに向けてきたが、私は首を左右に振って答えた。
「紫苑先輩、私のことを心配して、駆け付けてくれたんです」
「っ浅葱」
「だから! その、私のせいなので、紫苑先輩のことは責めないでください……」
制止の声を振り切ってまで続けたら、自信がなくなったのか尻すぼみになって情けなくなる。俯いた私に沈黙が降りかかった。はぁ、と溜息を吐いたのは紫苑先輩が先だったか、それとも高城先生が先だったか。先生が呆れたように言った。
「まぁ、なにか理由があるとは思ってたし……これじゃ先生が悪者みたいだから、このくらいにしておいてやる」
「あ、ありがとうございます!」
「あー、呉羽。閉会式はちゃんとタイミングを守って出るんだぞ」
「……はいはい」
高城先生の目を見ずに適当に返した先輩へ、彼はまた詰め寄ろうとする。しかし保健の先生に「というか土足厳禁なんですけど」と言われて追い出されていた。その様子を見届けた後、紫苑先輩に顔を向けると目が合った。
「もう、大丈夫そうだね」
優しい瞳が何について言っているのか、少し考えなければ分からないほど、私は嫌なことを全て忘れていた。思い出したものの、もう暗い顔は浮かばない。今は紫苑先輩といられるのだ、と考えたら、笑顔が咲いた。
「はいっ!」