eclipse15
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菖蒲はどうやら三日市で早苗と合流したらしい。単独行動をしている能力者はいなかったおかげか、朝になるまでの間で殺された者は一人もいなかった。それを朝六時前に確認してほっとしてから、瞼を持ち上げる。視界に映るのは見慣れた自室だ。どうやら家に送り届けてくれたみたいだが、どうやって僕を自室のベッドまで運んだのだろう。僕が気を失った時、紫土も偽物の世界に招かれていたから彼も自分の部屋で眠っていたはずだ。
疑問を抱きながらも、着ていた制服のポケットに手を突っ込み、バタフライナイフと携帯電話があることを確認した。今日は弁当を作っている暇がなさそうだなと胸中に呟き、クローゼットからワイシャツを引っ張り出す。昨夜はシャワーを浴びられなかったため、着替えを持って一階に向かった。
脱衣所に着替えを置いてから、何気なくリビングを覗き込む。階段を下りた時に電気が点いているのが見えたので、少し気になったのだ。紫土が起きているのだろうかと思って足を踏み入れた先で、コーヒーの香りがふわりと香る。何ヶ月ぶりに会うことになるのか、父が、椅子に座ってコーヒーを飲み、何かの資料にボールペンを擦り付けていた。
冷えきった切れ長の目がこちらに向く。僕はつい、黒目を他所に向けてしまう。
「……お帰り、父さん」
「……ああ」
水の中にいるみたいに、息が詰まる。彼はすぐ手元に視線を戻した。ペンを走らせる音にどうしてか居心地の悪さを感じて、僕はリビングを出て行こうとした。
「お前、夜遊びをするのは勝手だが余計な手間を取らせるな」
叱責が背中に飛んできて、足が止まる。疑問が紐解けていって、本来なら僕は父にお礼を言わなければならないと思ったのだが、この空気の中で「ありがとう」なんて言えるはずもなく、謝罪だけを零していた。
「……ごめん」
遊んでいたわけではない、とか、そういう余計なことは何も言えなかった。溜息だけが返されて、その場から逃げるように脱衣所へ向かう。ピアスと包帯を外し、衣服を脱いで浴室に入り込む。ぼうっとすることなくすぐさまシャワーの湯を出して、頭から被った。
今リビングで父と交わしたやりとりも、父に向けられた視線も、全て記憶の中から洗い流されてくれれば良いと思った。けれど記憶なんてそう簡単に消せるものじゃない。今し方の出来事を思い起こして、逃げ出した自分を咎めるように左腕を掴んだ。
嫌なことは痛みで忘れたら良い。紫土が、僕にそう言ったことがある。初めて腕に針を刺されたあの日は、確かに、嫌なことを一時的に忘れるくらい痛みにしか意識が向かなかった。肉体的な痛みにどれほど痛いと声を上げて、情けなくやめてと叫んだか、今となっては思い出せない。けれど、腕を抉られている時は確かに、友に拒絶された痛みを忘れていたと思う。
「痛、っ……」
無意識下で刺青を抉っていて、気付いてすぐに右手を左腕から離した。黒い蝶が赤い血を滲ませたが、それはすぐにシャワーで流れていく。
「……なに、してるんだろう」
ほぼ息に近い声は水音に掻き消された。頭を左右に振って雑念を払う。髪と体を洗ってすぐに浴室を後にした。
制服を着て、ピアスと包帯を付け直し、髪をざっと乾かしてからリビングに戻る。朝食を作らないと、と思っていたが、どうやら紫土が作ってくれているみたいだ。彼がフライパンでなにかを炒めていた。
父が腰掛けている隣や前、斜め前に座る気にはなれなくて、僕はソファに座ってテレビを眺めた。
「紫苑、弁当は作れそうにないから適当に買って」
「元々そのつもりだった」
「そう」
紫土との会話がそれで終わり、リビングは沈黙で満たされる。気まずい空気の中で携帯電話を取り出して、僕は三十分後にアラームをかけた。ソファに横になってそっと瞼を下ろす。朝食を食べる気分ではないし、今父の傍に寄ったら彼の機嫌を悪くしそうだったため、大人しく仮眠を取ることにした。
眠れたかどうかすら分からない曖昧な意識の中を長らく泳いで、携帯電話の振動音で上半身を起こした。アラームを停止させた携帯電話をポケットに仕舞って、学校に向かう支度を始める。新聞を読んでいる父の斜め前で、紫土がテレビを見ていた。相変わらず会話のないこの場から立ち去って、僕は歯を磨き、鞄を手にして家を出た。
駅構内にあるコンビニで昼食を買うと、駅の改札を抜けて普段乗る時間の電車に乗車する。一駅先に進めば、そこで浅葱が乗り込んできた。
「おはようございます、紫苑先輩」
「ん、おはよう」
「お体は、大丈夫ですか?」
「向こうでの傷は消えるからね」
偽物の世界のルールを忘れていたのか、心配そうに僕を覗き見たものだから苦笑してしまう。隣に並んだ彼女から、窓の外の景色に視線をずらした。
「浅葱は、気分悪くなったりしてない?」
「大丈夫、です。グロいの結構苦手なんですけど、なんとか」
苦手そうだという予想はしていたから驚きはしなかった。人兎の死体も、常磐にやられた僕の姿も、目を貫かれた常磐の姿も浅葱にとっては気分が悪くなるものだったと思う。普通に過ごしていたらあんなものを現実で見ることなんてないのに。
浅葱の為にも早く、常磐を倒さないといけない。それには他の能力者の協力もないと難しいのだろうか。僕では明らかに力不足――いや、恐らく僕の行動全てに躊躇いが付いて回っているから押し負ける。よく考えてみよう、常磐と共に戦うのは偽物の世界だ。殺さない限りはどこをどう負傷させても構わない。なら、接近されて能力を奪われる前に四肢の骨を折ってやれば良い。これまでとは戦法を変える。バタフライナイフを彼に振るいに行くのは骨を折ってからだ。
ふと袖を引かれて、思考を停止させる。浅葱が控えめに僕の袖を引いていた。どうやら繊駅に着いたみたいだった。下車してホームの階段を上り、改札を抜けて駅を出る。
「あの、紫苑先輩」
「どうかした?」
「その、私……何も出来なくて、ごめんなさい。何も出来ないどころか、邪魔、でしたよね」
隣を歩くその目見が悄然として影を落としていた。顔が地面と平行になるくらい俯いていくのを見ていたらため息を吐きたくなったが、きっとそれは彼女を更に落ち込ませてしまう。だからなんとか呑み込んだ。
「別に邪魔じゃないよ。僕の傍に置いておかないと、君を守れないし」
「でも、私のせいで紫苑先輩が怪我をするなら、守って欲しくないです。私、先輩の弱点には、なりたくないんです」
「……それでも僕は君を死なせないから。馬鹿なことは考えないで僕の傍にいて」
「それじゃあまた、紫苑先輩が私のせいで――」
「違う」
私のせい。何故そんなふうに考えるのだろう。誰も彼女を責めてなんかいないし、あの状況で僕が負傷したのは彼女がいなくても同じことだったはずだ。それに彼女は何も出来なかったと言ったが、そんなことはない。常磐の視線を引き付けて隙を作ってくれた。僕が万全な状態だったならあの場で反撃に移れたし、万全な状態じゃなかったのは僕自身の失敗があったせいだ。
強めの語調で遮ったら、怒っていると思われたのか、浅葱が目を潤ませてこちらを見つめていた。歩くのを止めてしまっている彼女の手首を軽く引っ張って、僕は前を向く。
「……僕が、僕のために君を守るんだよ。君の意思なんて知らないしどうでも良い。僕がしたいからそうしてるんだ。だからそれで僕が傷付こうが君のせいなんかじゃない。僕自身のせいだ」
「でも、私……」
「君に、勝手に死なれたら困る。今の僕は、君に何も忘れて欲しくないから」
細い手首を掴む右手に、思わず力を込めてしまった。はっとして手を離し、「ごめん」と言いつつ振り返ったら、浅葱が瞳から零した雫で頬を濡らしていた。言うべき言葉が喉の奥で詰まって、ただ息を飲んでいたら、浅葱が眉尻を下げて破顔した。
「私……やっぱり紫苑先輩のことが好きです」
「……なに、いきなり」
「今、先輩の胸に飛び込みたいくらいです」
「後にして」
柔らかくなっていく顔を見ていたらなんだか照れくさくて、彼女に背を向けて歩き出す。泣いているのに、涙が嘘みたいなくらい明るい声が上げられる。
「えっ、後で抱きついて良いんですか!?」
「うるさいな、好きにしたら良いでしょ」
「ふふ、先輩優しいっ」
歩いていたら腕にまとわりつかれた。「離れて」と言ったけれど、浅葱は「人の少ない時間なんですから良いじゃないですか」と擦り寄ってくる。突き飛ばす気にもなれなくて、仕方なくそのまま通学路を進んでいった。
「先輩、私、もし先輩が危ない目に遭っていて、先輩だけではどうしようもなかったら、なんとか助けますね」
「はぁ? それで君がやられたら元も子もないんだけど」
「やられませんよ。だって、先輩が守ってくれるんでしょう?」
呑気な声を見遣れば、彼女はこちらを見上げて普段通りに笑んでいる。僕は正面に視線を戻して溜息を吐いた。
「人には限界ってものがあるんだから、期待はしないで」
「分かっています。限界があるんですから、紫苑先輩は無理をしすぎないでくださいね」
「死なない程度にはするよ」
視界の隅で浅葱が頬を膨らませた。相変わらず、目元はチワワで口元はハムスターみたいだ。微笑ましく思いながら、赤信号を認めて立ち止まる。
「紫苑先輩、進路は進学ですか?」
「え、あぁ……悩んでる。自分に向いている職業なんて分からないから」
「先生が良いと思います」
「先生?」
零れた笑みは苦いものになった。成績が悪く勉強のできない僕に、教師なんて似合わないだろう。浅葱も冗談で言ったのだと思ってその顔ばせを見てみたら、真剣そのものの表情で熱弁するように顔を寄せてくる。
「偽物の世界で私の能力の訓練に付き合ってくれた時、教え方がとても分かりやすかったですから」
「能力の授業なんてないでしょ」
「た、確かにそうですけど! あと、菖蒲くんに絵を教えるのもお上手ですよね! 美術教師とかどうでしょう?」
僕と浅葱は、月に何回か公園や浅葱の家で菖蒲と遊んでいる。初めは菖蒲が楽しめる時間を作るために行っていたが、最近では彼の要望でお絵かき教室みたいになっていた。
実体化させてしまわない絵を描きたいと彼が言い始めて、彼の能力の特性を詳しく調べ、結果的に黒を使わない絵を描くことと、塗り潰さずに点を置いて描くことを教えている。
彼に教えている時のことを少し思い出していた。描くコツを掴んだ時に彼が見せる輝かしい笑顔、完成した絵を見て喜ぶ声。もっと色んな絵を描きたいという彼の絵をたくさん見たいとさえ思っている僕は、多分、絵を描くことと絵を描く人が好きなのだと思う。
美術教師、と唇の内側で呟いてみたら、唇が撓った。
「悪くないかも。そのためには上手くならなきゃね」
「紫苑先輩、やる時はやるタイプなので出来ますよ!」
「それ褒めてるの? 貶してる?」
「ほ、褒めてますっ」
こんなことでもムキになる浅葱が幼子みたいで笑ってしまう。やっぱり、彼女と過ごす時間は好きだ。時折弱い僕が顔を出して、彼女に寄りかかりたいなんて考える。
僕は、腕に絡みついていた浅葱を自然な動作で放して、ポケットに手を突っ込んだ。
「……浅葱。今週の土曜日に遊ぶって言ってたけどさ」
「あ、はい。居待市とかどうですか?」
「うん、良いと思う。って、いや、そういう話がしたかったんじゃなくて」
「えっと……?」
「夜ご飯は、君の家で食べても、良いかな。なんていうか……君のご家族と食事を――……違うな、そうじゃなくて……君のお母さんが作るご飯を食べたくなった、というか……家族が……」
家族が恋しい。そんな言葉が、喉の奥につっかえたまま取り去れない。暖かい家族の温もりを感じたいだなんて、言えそうにない。これ以上先に進められそうになかったため、「なんでもない」と言いかけたが、それは浅葱の快活な声で遮られた。
「もちろんですよ! 母も萌葱も喜ぶと思いますっ。お父さんは多分時間的に仕事ですけど……お母さんに、伝えておきますね!」
「……ありがと」
「いえいえっ」
「萌葱は元気?」
「元気です。今日も朝から怒られました。使った食器くらい洗えって」
「君の家は朝から楽しそうだね」
ふっと息を吹き出したら、浅葱も可笑しそうに笑う。萌葱を見たのは蘇芳が攫われた日が最後だったから、元気だと聞けてほっとする。
浅葱の他愛ない話に耳を傾けて、暫しの日常に浸った。




