eclipse12
◆
弓張駅のトイレは外だけでなく、中の改札を抜けた先にもある。そちらの方が綺麗だから、そちらを利用する人が多いらしく、こっちに人が来ることはあまりないみたいだった。夜だから、という理由もあるのか、人気がないのを幸いに思い、洗面台を前にして口元と頭を洗い流す。
タオルを持っていれば良かったが、ハンカチくらいしか持っていない。一先ずそれで髪の水分を取っていたら、僕のポケットの中で携帯電話が振動した。こんな時間に誰だ、と思いつつ、頭にハンカチを乗せたまま携帯電話を耳に当てる。
「もしもし」
『紫苑! ……お前、今どこにいるの』
焦ったような声で紫土に名を呼ばれて心臓が跳ねた。だが、彼が大きな声を出したのは聞き間違いだったと思うくらい、続けられた言葉は冷めている。何かあったのだろうかと思い、首を傾げた。
「駅だけど」
『……そう。東雲が、紫苑はとっくに帰ったって言ってるのに帰ってこないから、常磐に攫われたかと思った』
「心配したんだ?」
乾いた笑みを零してしまったのはどうしてだろう。なんだか気恥ずかしくなって、別の言葉を続けようとしたけれど、その前に紫土が悩むことなく返してくる。
『それなりにね』
「…………ふっ」
『何笑ってんの』
「いや、なんでだろう」
『いいから早く帰ってきなよ。オムライス作ったから食えば』
すぐに帰るつもりだったが、髪が濡れているのを見たら紫土になにか言われるかもしれない。思案しているうちに口を開いたら、言うつもりのなかったことを口走ってしまう。
「髪が乾いたら帰るよ」
『は?』
「あ、その……と、鳥の糞が頭に落ちてきて」
『ふふっ、なにそれ。最高に運が良いね。気にせず帰ってきて風呂入ったら』
苦しい言い訳な気もしたが笑われた。それは馬鹿にするような笑いじゃなくて、少しだけ胸の内が軽くなる。別に彼のことは好きではないのに、今は誰かと話せて良かったと思った。
「ありがとう。切るよ」
『どうぞ』
紫土との通話を終えてから時間を確認する。ファストフード店に長居しすぎたか、時刻はもう夜の十一時過ぎだった。この時間でも東雲は起きているだろうと思い、僕は東雲に電話をかける。少しして繋がった電話の向こうから、鼓膜を殴るような声をぶつけられた。
『紫苑くん! 無事だったんですね!』
「……あぁ、うん。常磐の協力者の情報を手に入れたよ」
『え……君まさか、危ないことをしていたりしませんよね?』
「してない。情報料に二万六千円持っていかれたから後でくれない? 給料として」
全く、とぼやいた彼に、僕は情報を差し出す。
「大学生くらいのタレ目の女。身長は僕よりも十センチくらい低め、だってさ。一先ず枯葉が言ってた女に接触出来そうならしてみて」
『分かりました。ありがとうございます』
「ただ、これは『治癒能力者』を目撃した人間の情報だから、『常磐の協力者』の情報とは限らない」
『分かっています。……紫苑くん、何かありましたか?』
東雲は察しが良いのか勘が良いのか、つかれたくないところをついてくる。もしかしたら僕の声がおかしかったのかもしれないが、失敗した部分を探すのは今更だ。何も話さないで誤魔化したかったけれど、促すように問われたら吐き出したくなる。何気なく面を上げたら、生彩を欠いた情けない顔の僕が鏡の中にいた。
「何もないけど、さ。……ねぇ、東雲。下らない雑談に付き合ってくれる?」
『どうしたんです? あ、これはあれですか、デレ期』
「お前次会った時にその腕折るぞ」
『冗談ですやめてください』
真面目な空気を早速歪められて眉間を押さえた。少し黙ったら、頭の中で鴇の声が蘇った。彼が、化物、と僕を突き刺したのは、何年前のことになるのだろう。あの瞬間、自分の中で必死に守り続けていた明かりが壊れた。きっとあの時から、僕の両目は暗色の絵の具で塗り潰されている。今はもう、そんなことはないのだろうけれど。
「ヒーローと化物の違いって、なんだろうね」
『なんですかそれ。ヒーローは誰かを救うために力を振るい、化物は誰かを傷付けるためだけに力を振るうもの、では?』
「……でも、普通の人にとって『ありえない力』を使えば、そいつはヒーローじゃなくて化物って呼ばれるんだよ。例えそれが、助けるためだったとしてもさ」
僕が問いたいことを、東雲は理解したようだ。なるほど、と相槌が打たれた。確かに、正義の象徴というイメージが既に植え付けられているやつは、化物になりようがない。僕が言っているのは、既にヒーローとして名を知らしめているヤツのことではなく、例えば、世間の知らないところで子供を助けているような人間のことだ。
『そうですね。フィクションの世界のヒーローは、大抵存在が周知されています。人は知らない力を目の当たりにしたら恐れますが、もし能力がメディアで話題になっていたら、能力者に巡り会った時一般人は目を輝かせるでしょう。すごい力を持ったヒーローに会った、と』
「……なら、僕達はどれだけ普通の人を助けようとしても、ヒーローにはなれないね」
『何を言っているんですか。誰だって、全ての人のヒーローにはなれません。物語の正義のヒーローも、敵から見れば悪でしかない。悪者だって、誰かにとってのヒーローかもしれません』
東雲の言う通りだった。どうして今、その考えが頭から抜けていたのかは、悩むまでもなくわかる。僕は別に、ヒーローになりたかったわけじゃない。
「化物」と否定されたあの日の僕を、肯定する材料が欲しかったのだ。
この胸の内側を見透かしたように、東雲が『紫苑くん』と僕を呼んだ。
『君がもし、誰かに化物だと言われても、浅葱さんや菖蒲くん、蘇芳さんからしたら、立派なヒーローだと思いますよ』
「……そっか」
『君の周りの人は、君に救われているはずです』
「ははっ……東雲みたいな父親が欲しかったな――……いや、ごめん、なんでもない」
弱音を吐きかけた、と思ったが、この下らない雑談は始めから弱音の塊だった。弓なりに曲げた唇から苦笑いが溢れる。
ただ、今し方東雲に僕を肯定してもらえて気がして、肩が少し軽くなった。お礼を言ってから電話を切ろうとしたが、東雲は僕の弱音の尻尾を見つけて引っ張った。
『君にとって、両親はどんな人でしたか?』
急いで誤魔化しても無意味だったようだ。一度零してしまったものを簡単に見逃さないのが東雲らしい。俯いた僕の視界で、左耳のピアスが揺れた。
「……母親のことは、覚えてない。父さんは……紫土を自慢の息子だって言っていたよ。紫土は勉強も運動も、何をやらせても上手くやれたから。絵の才能もあって……そんな兄を見てる時の父さんは優しい目をしてた」
『紫苑くん、君にとってのお父さんの話を聞きたかったのですが』
「僕はただ、父さんの笑顔を横で見てたんだよ。あの人が僕の方を向くことはあまりなかったし、僕を見ても……母親似の顔しか褒められたことがないかも。これでも昔はそれなりに、勉強も運動も、音楽も絵も書道も頑張ってたんだけどね。なにか一つでも褒められる才能が欲しくて、努力はしてみたけど、僕は、出来の悪い弟だから」
ずっと、自分の中だけに閉じ込めていた思い出と想いを声に乗せてみたら、それは古びた蓄音機から流れているみたいに寂れた音に聞こえた。思い出せる限り過去を思い返して、父の顔を真正面から見たことも、頭を撫でられたことすらなかったなと気が付く。母が亡くなってから父は僕達に無関心になった、と思っていたけれど、少し違ったみたいだ。正確に言うなら、僕だけでなく紫土にも無関心になった。
別に、虐待を受けていたわけではないし恐らく嫌われていたわけでもない。彼は、頭角を現した紫土を褒め讃え、更に優秀な息子に育て上げることしか考えていなかっただけだ。
東雲が何も言わないから話をやめて今度こそ通話を切ろうと思った。しかし止まらない。僕は今、感情的になっているみたいだった。その感情は一体何年間埋められていて、掘り起こされたものなのだろうか。
「母さんが死んでからは父さんが家にいることはほとんどないし、帰ってきてもすぐ出て行く。小学生の頃は何度か引き止めたけど、邪魔だ、って何回叩かれたか分からない」
『……紫苑くん』
「なんであの人達が僕を産んだのか理解に苦しんだこともあったよ。どうして僕が生きているのか分からなくなったこともあって、ただ流されるように生きていたんだけどさ。今の僕は、浅葱とか東雲とか、蘇芳や枯葉たちに会えて、良かったと思った。生きていて良かったなって、思うんだ」
伝えたかった思いを吐き出して、少しだけスッキリした気分で口端を緩める。会えて良かった、なんて台詞がとてつもなく恥ずかしいものだということに数秒遅れて気が付き、慌てて言葉を付け足した。
「何の話をしているんだろうね。馬鹿みたいだ」
『ふふ、紫苑くん、生きていてくれてありがとうございます』
「……下らない話を聞いてくれてありがとう」
『いいえ。君の本音を聞くのは好きですよ。年相応だなと思えるので』
「……あっそ」
からかわれたようにも受け取れる声調で言われたが、それは東雲の本心なのだろう。ただ、僕はいつだって年相応なことしかしていないと言い返したかったものの、話が脱線していく気がしたため「まぁ、だからさ」と会話を終結に向かわせた。
「僕はこの今を守りたい。僕達を繋いだ偽物の世界のことだって、常磐に汚させはしない。絶対に……誰も失わずに終わらせる」
『もちろん、私もそう思っています。お互いサポートし合い、なんとか蘇芳さんを助け出しましょう。これ以上犠牲者を出させないためにも、常磐くんを捕らえなければなりませんね』
「そうだね……常磐がすごく辛い思いをしたのは分かるし、それで復讐をしたくなる気持ちも分かるよ。復讐は間違ったこととは言えないけれど、今の彼の行いは僕から見たら間違ったことだから、僕は彼と真正面から向き合って、復讐なんて逃げ道を全力で壊したい」
大切な人を失って、その記憶さえも奪われた彼の痛みは計り知れない。もう彼女との思い出は作れない、そう言った彼の歪んだ顔が脳裏を過る。あんな顔をした人間を見たら、多分気が済むまで復讐をさせてやれと思う人もいるかもしれない。
だがそれでは駄目だ。復讐を果たせば彼は日常に帰る道を失くす。戻れない所まで行ってしまう。
だから壊して、現実と向き合うしかない状況を作り出す。
「……そうしたら今度は、僕が常磐に恨まれるかな」
『君は、常磐くんに恨まれたらどうするんです?』
「償うかな。命以外で。出来ることをやれるだけやってあげるよ。……でもまぁ、恨まれるのも悪くないかもね」
『なにを言っているんですか……全く』
「愛でも憎悪でも、誰かに対して大きな感情を抱いていたらさ、生きる理由が出来るでしょ。恨まれて誰かを生かせるなら、それも悪くないなって思っただけ」
この命はあげられないけれど、死なない程度で尚且つ生活に支障をきたさない程度なら何をされても良いかもしれない。そう考えてしまう僕の考え方が、紫土の暴力を受け入れ続けてきた時と変わっていなくて笑ってしまう。僕が耐えて誰かが満足して、その誰かを現実に繋ぎ留めることが出来るなら、それで十分だ。
くだらない思考を一旦停止させ、呆れたような溜息を吐いている東雲へ笑いかける。
「常磐には愛の方が必要なんだと思うけどさ。それを満たすのは少し難しいね」
『そうですね……憎まれるのは簡単ですが、愛されるのは難しいですからね』
「それもあるけど……多分彼は、注がれる愛が足りてないと思ってる。何も無いところから他人に渡す愛は生じない。好意を向けられて愛を注がれて、そこでようやく渡す愛が生まれるんじゃないかな。今の常磐にだって、多分好意を注いでくれている人はいるはずなんだよ、友達がいるんだからさ。けど復讐と恋人に囚われてそれを見ていない。僕はどうにかして、彼を目の前の現実と向き合わせたい。随分身勝手な想像を語って身勝手なことをしようとしていることは分かってるけど、そんなことしか僕にはできそうにないよ」
多分こうだからこうしたい、なんていうのは偽善者の気持ち悪い思考回路だと思う。自分のしようとしていることがまさにそれに当てはまり、頭を抱えたくなるが、他にどうしようもないのも事実。ただ壊すだけ壊して終わらせるのは嫌だった。それは化物のすることだ。僕は化物にはなりたくない。
一旦耳から携帯電話を離して、画面をちらと見る。十二時近い時間になっていたからそろそろ終わらせるべきか、と考えていれば東雲が話し出す。慌てて耳に電話を押し当てた。
『人のために何かをしようと思えるのは、君の良いところですよ』
「……だと良いけど。長話に付き合わせてごめん。また何か分かったら連絡して」
『いえ、貴重な時間をありがとうございました〜! それでは、と切りたいところですが、丁度良いですし少しだけお説教をして良いですか?』
これまで大人らしい雰囲気で話していた彼が、いきなり猫を見かけた時みたいに騒ぎ始めて吃驚した。空気を明るくしようとしたのだと思う。だけどいきなり大声を出すのはやめてくれ、と細めた視界で目の前の壁を睨んでから、「は?」と零す。纏う雰囲気を次から次へと変えられると困る。何の話だ、と思っていたら東雲が勝手に話を先に進めた。
『これは後で全く同じことを蘇芳さんにも言いますがね、君がいつまた馬鹿なことをするか分からないので君には先に言っておきます』
「……悪かったね、馬鹿なことばかりして」
『適当に謝らないで下さい。何についてか分かっていないでしょう、君』
東雲の言う通り、何か怒られるようなことをしただろうかと考えてみても思い当たることがない。蘇芳にも同じことを言う、と言われたら尚更何の話か見当が付かなかった。
『君や蘇芳さんの、常磐くんに償いたいという気持ちも分かりますし、私達を巻き込まずに事を終えたいという気持ちも分かります。ですが、自己犠牲なんてこちらからすれば迷惑ですから、二度としないでもらえます?』
「……けど」
『言い訳はいりません。君、常磐くんの情報が足りないことも、分が悪いことも分かっていながら、私にも朽葉くんにも何も相談しなかったでしょう? 私達に相談すれば、君が犠牲になるという案そのものが反対されますしね。とはいえ君がカラオケ店で殺されていたらどうするつもりだったんです?』
「死ぬつもりはなかったよ。蘇芳より先には死なないって、彼女と約束したから」
『仮に死なないとして、君が傷付くことで誰が救われるんですか』
どこまでも棘のある言辞に唇を引き結んだ。それは、正論でしかなかった。僕のしたことが正しくなかったことは分かっている。彼の言う通り、自分だけで何とかしようとして、結果は迷惑を掛けただけに終わった。
常磐を騙し切って、命以外で償って、生きて帰れたとしても、もしかしたら蘇芳を悲しませたかもしれない。
僕はただ、蘇芳を傷付けさせたくなかっただけだ。けれど、物理的な傷しか見えていなかった。自分が誰かに大切に思われてるなんて、考えもしなかった。以前偽物の世界で死んで、浅葱のことを忘れて、彼女を泣かせてしまったというのに。
馬鹿なことを何度も繰り返して、本当に馬鹿みたいだった。
『紫苑くん。君の死も、君が傷付くことも、君だけの問題ではないんですよ。君を大切に思っている人のことを、もう少し考えなさい』
「……ごめん。気を付けるよ」
『ええ、そうして下さい。……君が生きていて、本当に良かった』
独り言のように零された安堵が、心臓を震わせる。数刻声を出せず、滲んだ視界から目を逸らすように瞼を落とした。僕があの場で死んでいたら、何人の心に傷を付けてしまったのだろう。生きていて良かった。彼の独白を、胸中で繰り返してみた。
死ぬつもりは毛頭ないが、死ぬわけにはいかないと強く思う。そして、蘇芳を死なせるわけにもいかない、とも。
瞼の裏を眺め入ってから、薄く目を開けた。
「もう少し、自分のことも大事にするよ」
『ええ、そうして下さい。それでは、気を付けて帰ってくださいね』
「東雲、ありがとう」
『いえいえ』
優しさの余韻に微笑を零して、僕は携帯電話をポケットに仕舞った。頭の水気を取っていたハンカチも片付け、鞄を手にしてトイレを後にした。




