eclipse13
夜の空気を吸い込んで、歩道を歩いていく。人影が疎らなのはこんな時間だからだろう。たまに聞こえる車のエンジン音や通行人の足音に聞き入っていたら、そこにいきなり大声が響いたものだから肩を持ち上げてしまう。
「君!」
夜中に一体なんだと思って振り返ってみれば、後ろに警察の制服に身を包んだ若い男性が立っていた。近くにパトカーが止まっているからわざわざ降りたみたいだ。今は周りに人がいないし、もしやと思って自分を指指し首を傾けた。
「そう、君だよ。その制服、高校生だよね? こんな時間まで一人で外にいたら駄目じゃないか」
「あぁ……今から帰るところだったので」
「それでも深夜徘徊は危険だから、次から気を付けてね」
普段能力者保護協会の仕事で深夜に外出する時は制服から着替えている。今日は学校帰りだから制服だし、運がなかったなとため息を吐いた。俯いた視界は彼の影で暗くなっている。
「ほら、もう十二時になるところだし……」
面倒くさいが、こういうのは大抵いくつか質問されて解放してもらえるだろう。悪いことをしていたわけではないし、と思って自身のポケットの中のバタフライナイフの存在を思い出し、冷や汗をかく。これを見られたら流石にまずいな、と思い、早く会話を終わらせて立ち去ろうと考えた。
そのため、真面目そうな高校生みたいな顔を作って正面に向き直り――誰もいない目の前を呆然と見つめる。
「…………は」
嫌な予感が、した。人気が一切感じられないのは夜だからだけではないはずだ。この空気を、僕は知っている。空を見上げて、濃藍で染まった頭上に満月があるのを認めた。まるで、画用紙に描いたような偽物の月がそこにあった。
朝になって目覚めた時、僕がいるのは警察署と病院と自宅のどれだろう、なんて苦笑して携帯電話を取り出す。
『今偽物の世界に招かれている人がいたら連絡してほしい』とだけ打ち込み、僕は浅葱と東雲、枯葉、早苗、紫土と、念のために空にもメールを一斉送信する。菖蒲には『こんな時間にごめん、なにか変わったことはない?』と送ってみた。
菖蒲は以前偽物の世界が壊れる前に、偽物の世界に関する記憶を失っているから直接的な言葉で聞くわけにはいかない。誰かからの返事を待っていたら、いきなり声が響いた。
『あー、招かれた能力者諸君、聞こえてるかな?』
近くにスピーカーでもあるのか、街中に響くような常磐の声が聞こえてくる。一応周りを警戒しつつ、そちらに耳を傾けた。
『ここは偽物の世界。深夜零時から朝の六時まで君たちはここにいなければならない。死ぬことで元の世界に戻してもらえるけど、死んだら君達の記憶が一部失われる。この世界から解放されたければ、この世界のどこかにいる俺を探して殺してみなよ。あぁ、それと、この世界には人間の体に兎の頭が付いてる化物がいるけど、そいつらに見つからないようにも注意してね。その人兎と呼ばれる化物を使って君たちを見つけ次第、俺のもとまで連れてこさせるから。連れてかれちゃったら楽しい解体ショーが待っているよ』
どうやらルールは前回と同様のようだ。僕の手元で携帯電話が振動したため、目を向けてみると何件かメールが届いている。今のところ分かったのは、空がこちらの世界に来ていないこと、東雲と紫土、早苗と枯葉はこちらに招かれているということだ。枯葉は能力的に心配だけれど、東雲達は自分の身を自分で守れるだろう。早く連絡が欲しい浅葱と菖蒲からはまだ返信がない。
枯葉は弓張市在住だったなと思い、彼と合流するために『君一人じゃ危険だろうから駅まで来て』とメールを送った。歩き出して、学生鞄が邪魔だったため、そこに捨てていく。
少しして菖蒲からメールが届く。『偽物の世界って、よく分からないアナウンスが聞こえてきたんですけど、どうしたら良いですか? 紫苑さんも、聞きましたか?』
可能性はあると思っていたが、本当に菖蒲まで巻き込まれているとは考えていなかった。僕は弓張駅の前に佇んで、菖蒲に返信をした。
『僕も偽物の世界にいる。菖蒲、聞いた通り化物に見つかると危険だから、見つからないように気を付けながら三日駅に向かって。もしそこに僕がいなかったら、線路沿いを弓張駅の方まで歩いて欲しい。急いで行くけど、君より先に三日駅に着ける自信はないから』
打ち込んでいる間に浅葱から電話がかかってきた。早目に打ち終えて送信し、電話に出る。
「浅葱?」
『あの、どういうことなんですか。偽物の世界が、どうしてまた……』
「触れた人間の能力を操る能力者に、蘇芳が捕まってね。僕は蘇芳を助けたいから戦うけど、君を一人にするわけにもいかない。だから、弓張駅に来てくれるかな? 人兎に見つかりそうになったらすぐに逃げて」
『分かりました……。紫苑先輩』
通話を切ろうと思ったら、呼び止めるように名を呼ばれて手を止める。浅葱は言うかどうか悩んでいるみたいに母音だけ漏らして、ようやく続けた。
『あんまり、危ないことをしないで下さいね。私、紫苑先輩が何度私のことを忘れても好きでい続けますけど、それでも、忘れられるのはもう、嫌です』
「……うん、分かってる」
前回偽物の世界を壊す前に、僕は浅葱についての記憶も失っている。それでも彼女を大切に思う気持ちは消えなかったし、だからこそ今もこうして傍にいる。けれど僕が彼女のことを覚えていないから、彼女は少なからず悲しむことや悩むことがあったと思う。そんな彼女をこれ以上傷付けたくはない。
通話を切って画面を見ると、枯葉からメールが届いていた。
『心配すんな、忘れてたかもしれねぇけど、今の俺は保護協会にいるから問題ねぇよ。東雲さんと一緒にいる』
その文面を見てほっとした。彼の現在地までは頭が回らなかったみたいだ。なら集合場所を三日駅にすれば良かったと思ったが、浅葱の家は三日駅と弓張駅の中間あたりにあるため、彼女と早めに合流できるのは弓張駅の方だ。取り敢えず、僕も線路沿いを通ってそちらに向かうと連絡をしようとした時、近くで靴音が響いた。振り返ってみれば人兎が一体立っている。スーツを纏った長身の体と、その手に握られているナイフをちらと見て、人兎の形状も以前と同様であることを確かめた。
僕を赤い双眸で捉えるや否や、人兎は素早く接近してくる。突き出された切っ先が僕のブレザーの繊維を裂き散らす。右腕のブレザーが少し裂かれただけで腕自体に負傷はない。僕を通り過ぎて踏み止まった人兎が振り返りざまにナイフを振るった。その動作もタイミングも僕とほぼ同じで、互いの刃がぶつかり合う。
力強く押してくる刃を受け流し、逆手に持ったナイフを人兎の首筋へ突き進めた。硬い骨の感触に眉を顰めつつ、抉った首の肉をそのまま切り払う。首に沈んでいた刃が鮮血を空気に触れさせた直後、僕は人兎の背にナイフを突き刺し、そのまま蹴り飛ばす。
地面を赤く染めながら倒れ込んだ人兎は、それでも止まらない。再び起き上がろうとしたその身体に手の平を向けた。
「〈潰れろ〉」
人兎を瞳に映したまま冷たい空気を握り潰す。倒れている人兎の周辺の空気だけが変化したように、その身体は全方向から押し潰されていく。やがて叩き割られた風船みたいに、千切れた衣服と肉片を飛び散らせて、人兎は絶命した。
人兎を殺すことがなくなって半年近く経つというのに、殺すことに躊躇いを抱かないどころか、懐かしい感覚だなんて思ってしまう。地面に広がる血液も、皮膚なのか肉なのか臓器なのかすら分からない肉片も、今となっては心を動かさない。それが偽物だと分かっているからかもしれないが、やはりこちらの世界に来ると感覚が狂っているかもしれないなんて考えてしまう。
殺すことが楽しいと思えないことと、死体に嫌悪感を抱くことが唯一の救いかもしれない。おかげで僕はまだ正常なんだと、思っていられる。
風を切ってナイフの血を払い、刀身を柄に収めようとした僕の傍で拍手が響いた。
「見事なものだね。化物相手ならそこまで出来るんだ?」
右手側に目を向けてみれば、駅前のバス停の時刻表に寄りかかって、常磐が僕に笑いかけていた。仕舞いかけたバタフライナイフを彼に向ける。今すぐに浅葱と菖蒲に連絡して、ここには来ないように伝えたい。だがそうする暇があるとは思えない。頭を必死に働かせる僕の全身をじっと見てから、常磐は柔らかな笑みを湛えた。
「紫苑ちゃんは肌が白いから血がよく似合うね。返り血が綺麗だ。血染めのドレスをプレゼントしてあげたいよ」
「……お前本当に気持ち悪いな。いい加減女扱いするのやめてくれる? というか、人兎に僕らを捕えさせて、自分はどこかで待っているつもりなのかと思ったんだけど、わざわざ来たんだ?」
「一人ずつ殺していくつもりだから、まずは君を殺しておきたくてね。わざわざ来てあげたんだ」
常磐と僕の距離は五十メートルほど。彼が駆け出せばものの数秒で距離を埋められて攻撃を受けるだろう。まだこちらに近付く素振りを見せない彼を見つつ、僕は携帯電話を取り出して『今来ないで』とだけ打ち込み送信しようとしたが、常磐の足元の地面からコンクリート製の槍が突き出し、一秒も経たないうちに僕の左手から携帯電話を突き飛ばす。突然の衝撃に痺れた左手を思わず見てしまったが、頬に触れる空気が揺れて意識を目の前に引き戻す。
「せっかく来てあげたんだから余所見しないでよ」
前髪が切れるほどの距離で叩き付けられた鋸を、ナイフでなんとか防いだ。しかし片手で押し上げようとしても、両手で振り下ろされているそれには押し負ける。
この手ごと地面に叩きつけられる前に、「〈歪め〉」と呟き常磐の体を突き飛ばした。常磐は少し前まで自ら背を預けていた時刻表に体を打ち付けた。
彼が落としていった鋸を踏みつけ、僕はナイフを順手に構える。
「蘇芳はどこ」
「檻の中で大人しくしていると思うよ。大丈夫、君を死なない程度にボロボロにしたら連れて行ってあげるから」
「偽物の世界に、日常を過ごしている人達を巻き込んで何がしたいわけ」
今僕が一番苛立っているのは、浅葱や菖蒲をこちら側に招いたこと。もちろん、日常を過ごし始めた他の者達を招いたことも気に食わない。これはかつて『ウサギ』に抱いていた気持ちと同じだった。自ら殺しに向かっているぶん、常磐の方がタチが悪い。
膝を折っていた体を立て直した常磐が、その掌中に長い棒を創り出す。
「『ウサギ』を救った能力者達をみんなめちゃくちゃにしてやりたいんだよ。君達全員めちゃくちゃにして殺してから、『ウサギ』も酷い殺し方をしてあげる。こっちの世界なら、裁かれないからね。あんな奴が救われてるなんてやっぱり間違ってるんだ」
「それは嫉妬? 『ウサギ』を救ってくれる人間がいるのに、自分を救ってくれる人間がいないって思っているから?」
「嫉妬……面白いことを言うね。俺や色んな能力者を戦わせて殺して大切な記憶を奪っておきながら、彼女は何も失わずに、むしろ大切な人間を得て笑ってる。おかしいだろう? 彼女は奪った数だけ苦しむべきだ」
「蘇芳はもう苦しんできた」
「そうかな? 大した苦しみじゃないでしょ、今幸せそうにしているんだから」
常磐は遊ぶように棒を両手で弄っていた。大理石のような色味をしたそれに、真っ赤な茨が絡み付く。刃物じみた棘を無数に巻き付けたそれは鬼の金棒に似ていた。
蘇芳の痛みを軽んじたような物言いに、僕は目を細めた。
「苦しみの大きさをお前が量るなよ。仮に彼女の苦しみがお前から見てちっぽけな出来事によるものだったとしても、彼女にとってはこんな世界を造るくらい痛いものだったんだ」
「それで他人を巻き込んで他人を不幸にしたヤツが救われるのはやっぱりおかしいでしょ」
「救われることの何がおかしい? 誰が誰を救うかなんてその人の勝手だ。僕は彼女の手を引きたいと思ったから手を差し伸べた。誰かに寄り添いたいと思う気持ちをおかしいだなんて、他人に言われたくない」
「じゃあ、大切なものを奪われた俺がどう復讐するかも俺の勝手だよね」
「……だとしても、能力者でも戦えない人間だっているんだ。そんな人達まで巻き込まないでよ」
常磐にその訴えが伝わるとは思えなかったが、少しでも気持ちが揺らいでくれれば良いと思った。けれど、揺らぐどころか彼は可笑しそうに笑っていた。
「女でも子供でも戦えなくても、彼女の中で大切な存在になってるのは変わりない。見つけ次第捕まえて、彼女の前で壊してあげる」
今の僕では、彼の心を揺さぶれる言葉を持ち合わせていない。力無いものを傷付けることに何も感じないなんて、良心が汚れすぎている。
「そう。ならもうお前との話は終わりだ」
バタフライナイフをすぐ振るえるように構えて駆け出そうとした。けれどその足が止まってしまう。
「紫苑先輩っ!」
浅葱の、やけに切迫した悲鳴に近い呼び声に視線が引き付けられる。浅葱は斧を持った人兎から逃げるよう走っていた。彼女は僕が今どういう状況か見て取る前に声を上げたのだろう。彼女の方へ方向転換をして駆け出そうとした僕に常磐が迫ったのを見て、彼女は目を大きく見開いていた。
「先輩、避けて!!」
「っ――!」
今は常磐に構ってなどいられなかった。避ける方へ思考を回せられない。常磐に背を見せた僕の左腕に、棘だらけの棍棒が打ち付けられた。鈍い衝撃と棘が肉に突き刺さって離れていく感覚に呻いた僕は、道路の上を数度転がって四肢を軋ませる。回転が止まってすぐに顔を上げた。見つめる先は常磐の方じゃない。浅葱の向こうにいる、人兎だ。
「浅葱後ろを見るな!」
「えっ、あ――」
「〈押し潰せ〉ッ」
戸惑う浅葱の背後で、人兎は夜風に自然と押し潰されて血液を散らした。




