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エンジン音が耳に流れ込む。瞼を持ち上げると、僕は車の助手席にいた。赤信号に差し掛かった車はゆっくりとブレーキが掛けられ停車し、空が僕の方を見て微笑んだ。ハンドルを握っていた手が僕の頭を二度軽く叩く。
「頑張ったね、少年。今回のは相手との相性最悪だったでしょ」
「まぁ……疲れた、かな。あの能力者と、被害者の少女は?」
「被害者の子も能力者だったからどうしようか悩んだんだけど、多分戦ったこともなかったみたいで怯えててね。能力は使わないように、今日のことは忘れてねーって傷消して交番に預けたよ。キミが頑張って負傷させた能力者は、後ろで寝てる」
言われて、ルームミラーを見てみれば、確かに後ろにあの男がいた。体に縄を巻かれ、両手に手錠をされている。彼も空の能力で戻されたらしく、血は流れていなかった。猿轡を噛まされているのは血を流させないためだろう。
「あいつ、起きたりしない?」
「あー、平気平気。私のお気に入りの睡眠薬刺しといたから。コイツは私が保護協会本部の方に運んでくるから、キミは待宵支部の東雲とかに報告しといてくれるかな。もうすぐ待宵駅着くからさ」
「分かった」
信号が青に変わり、車が前進する。
ポケットに手を入れると、バタフライナイフがきちんと収められていた。それを指先で弄りながら自身の体を見下ろした。流石と言うべきか、負傷していた形跡すら残っていない。眠っている間に痛みもなくなったのだろう、体を動かしても痛くはなかった。
「頑張って戦ったのは偉いと思うけど、無茶しすぎなんだよキミ。というか意外と脳味噌筋肉だよね? 一時撤退するとか身を引くとか考えないでしょ」
「……そんなことはないけど、接近した方が倒しやすいかなって」
「へぇー。ま、本当に……死なないでよね」
待宵駅前に車が止まり、僕は降りる準備を始めた。「死ぬつもりはないよ」とだけ返して車を降りる。空が僕に手を振ってから、またタイヤを回し始めた。
車道に背を向け、駅構内に足を踏み入れる。待宵駅には、一般人が使う改札口と、一般人は使用出来ない改札機がある。今年に入ってから作ってもらった自身の名刺をICカードのように使い、関係者以外使用禁止と書かれている改札機を抜けた。その先のエスカレーターを降り、地下通路を進む。明かりが灯されているだけの真っ直ぐな道を歩いて、エレベーターの前まで行った。手前にある機械へ名刺を押し当て、扉を開ける。
三階へ上がり、廊下を進んで左手側にある一室のドアノブを捻る。
「あれ」
中に入って、珍しい顔を見付けた僕は目を丸くした。テーブルを挟んで左右にあるソファには、東雲と枯葉がそれぞれ座っていた。二人共僕が入ってきた瞬間にこちらを振り向いていたが、東雲は手元のコーヒーカップへ視線を落とす。
「三日市で能力者を一人捕らえたから、空は本部に行ったよ」
「そうですか、お疲れ様です」
「で、こんな時間にこんな所にいるなんて珍しいね、枯葉」
「ああ、ちょっと……な」
台所を借りてアイスコーヒーを淹れ、僕は流し台に寄りかかってそれを飲む。枯葉に「ふぅん」と返した僕を東雲がちらと見て、ソファの中央から少しずれた。空いたスペースを手で示す彼は、座ったらどうかと言いたいのだろう。腰を流し台から離して、東雲の隣に着座した。
俯いている枯葉の代わりのように、東雲が僕を横目で映す。
「どうやら、復讐目的で『ウサギ』を探している人物がいるようでしてね。朽葉くんには取り敢えず蘇芳さんに注意するよう伝えてください、とお話しました」
「へぇ……その情報の出どころは?」
「俺の大学の知り合いが、そうだったんだ」
疲れきったような枯葉の声柄に、僕はなるほどと納得する。東雲が彼を呼んだのではなく、彼が東雲を訪ねてきたのか、と状況を把握した。
「本当ならここで匿ってもらいてぇが、あいつは今中学三年で、進路のこともあるから学校を休みたくねぇだろうし、警戒するように言っとくしか出来ねぇ」
「他に出来ることがあるとしたら護衛かな。彼女が建物外にいる時は常に見張るとか。……ところで、なんでわざわざここに足を運んだの? 東雲のアドレス持ってるよね?」
「携帯失くしちまったんだよ」
「馬鹿じゃないの」
僕の呆れ声に普段なら怒鳴り返してくる彼が、面目ないと言った様子でどんどん猫背になっていく。
「……で、そいつは蘇芳が『ウサギ』だって知ってるわけ?」
「いや、『ウサギ』が誰なのか聞かれたけど知らねぇって返した。出会ってから色々あってお互い能力者だってわかって、偽物の世界の話を相手が持ちかけてきたから、俺も偽物の世界にいたってことを話したんだ。それから『ウサギ』を探していることと偽物の世界が今どうなっているかを聞かれて、偽物の世界が壊れたことだけを話した」
「……枯葉って、蘇芳とメールでやり取りしたりする? 『ウサギ』がどうのって話したことはある?」
「あ? ああ、そういや蘇芳が偽物の世界を壊す前に、『お前がウサギだったとしても力になりてぇ』みたいなことを送ったり……他は普通に雑談だな。あいつの授業の話とか」
「嫌な予感しかしないんだけど」
顔を顰めた僕の隣で、東雲の表情が険しくなるのが見えた。彼も勘づいたのだろう、疑問符を頭上に浮かべている枯葉へ説明を始めた。
「朽葉くん、君の知り合いに携帯電話を盗られた可能性があります。もしそうだった場合、蘇芳さんが『ウサギ』であることを知られた可能性も、彼女の居場所が特定される可能性も出てきます」
「う、嘘、だろ……っとなると危ねぇのは明後日だ。明後日、宮下と午前から待宵に遊びに行くって話を蘇芳のメールで聞いてる」
「最悪だな……」
口元に添えていた手を少しずらして、つい親指の爪を噛む。蘇芳が危険な目に遭うかもしれないというだけで気が立つのに、浅葱にも被害が及ぶ可能性まであるなんて。
僕は携帯電話を取り出して浅葱にメールを送ろうとした。しかし文面を考える前に枯葉達にも話しておく。
「明後日、蘇芳と浅葱には悪いけど僕も同行させてもらう」
「俺も……」
「君は来ないで。君の知り合いは蘇芳の名前と性別、いる市までは分かったとしても容姿は分からないはず。顔を知られている君が傍にいたら確実に見つかる。もし来たいなら、誰か囮に出来そうな少女に蘇芳の携帯を持たせて駅で待機していれば良い。それで釣れるんじゃない」
「囮に出来そうな年齢の女の知り合いとかいねぇよ」
言われて、頭を悩ませる。確かに、僕も思い当たらなかった。空と早苗は外見と年齢からして授業の話をするような、学生の少女と判断されにくい。知り合いで最も蘇芳の代わりになりそうなのは浅葱の妹くらいかと思ったが、萌葱は能力者じゃないから巻き込めない。
悩んでいる僕の視界の端で手が上がった。東雲が「提案があります」と微笑する。能力者保護協会にいる彼なら適任を知っているのかもしれないため、耳を傾ける。
「蘇芳さんと浅葱さんの護衛は私と空さんがしましょう。尾行は慣れていますから。朽葉くんと紫苑くんは待宵駅で待機して下さい。その際紫苑くんには女装をして頂きます」
「…………は?」
予期していなかった発言に反応が遅れる。唇の裏で女装と繰り返してみて、表情が固まった。そんな僕の反応を見て取り、東雲の微笑が苦いものに変わる。
「君の身長と体型と声、それから顔立ちを考えれば、女性物の服を着るだけで女性に扮することが出来るでしょう。抵抗があるのは分かりますが、蘇芳さん側に護衛を付けた上で、蘇芳さんの偽物と朽葉くんという囮を作る君の意見は採用したい」
「……服は用意してくれるんだろうね?」
「そこは、早苗さんか浅葱さんか蘇芳さんに頼みます。空さんは女性らしい服装に疎いですからね」
「つまり俺は女装した呉羽と待機かよ……周りの目がいてぇな」
「僕の方が嫌なんだけどなんで君が嫌そうな顔してんの。君に女装させるよ?」
「それは無理があるだろ!?」
枯葉では身長や体格からして女性のフリをするのは難しい。それに、彼が蘇芳役の囮の傍にいないと意味がない。
東雲の提案を受け入れることにして、僕は固まっていた表情を緩め、コーヒーを飲み下した。
「朽葉くんの知り合いに接触した場合、まず話し合ってみて下さい。話し合いをしても意味がなかったり、蘇芳さんに扮した紫苑くんが襲われるようなことがありましたら、二人で協力してすぐに確保を。お願い出来ますね?」
「分かった。その場合枯葉は足手纏いだろうから引っ込んでて」
「ハッキリ言うなよ、何かあっても助けてやんねぇぞ」
「君に期待してないから良い」
怒声を上げた枯葉を、東雲が宥めるのを視界の端に収めながら、僕は空になったコップを見つめた。
正直、蘇芳は強い能力者だし、枯葉と蘇芳に任せても良いかもしれない。浅葱には申し訳ないが予定を他の日にしてもらって。
けれど蘇芳本人と、枯葉の知り合いを直接合わせるのは良くないような気がした。蘇芳は偽物の世界に巻き込んで記憶を失わせてしまった人に対して、罪悪感を抱いている。復讐者の望むような形で償おうとするかもしれない。それだけは避けたかった。
明後日、僕と枯葉で事を収められれば良い。蘇芳を名乗る僕で良ければいくらでも頭を下げよう。彼女本人には、手出しをさせるつもりはない。
▲〈視点・甲斐崎朽葉〉
彼――常磐と出会ったのは数週間前のことだ。大学の選択科目で、二人組を作って課題に取り組むこととなった。その時、余っていた俺に声を掛けてきたのが常磐だった。
常磐は一つ歳上の先輩で、物腰が柔らかく、人の良さそうな男だ。顔も合わせずに挨拶を交わした俺の耳に、彼の声で「不良みたいな子だなぁ」と聞こえてくる。反射的に「別に不良じゃないっすよ」と返してから常磐の顔色を窺って、失態を犯したことに気が付いた。
心の声を聞いてしまった俺に、常磐は「もしかして能力者? 俺もなんだ」と言われて、そこから同い年の友人みたいに会話を弾ませた。
その数日後に、「数人の能力者が夜だけ招かれる偽物の世界って知ってる?」と問われ、話を交わしてから後悔する。『ウサギ』を知っていて、偽物の世界が壊れたことも知っている俺は、常磐にとって利用出来る存在と思われただろう。事実利用されて、こんなことになってしまった。
どうやら、土曜日の内に蘇芳と呉羽は携帯電話を交換したらしい。東雲さんが二台持っている携帯の一台を俺に貸してくれ、呉羽からの連絡は蘇芳のメールアドレスでそこに届く。
蘇芳と宮下が予定していた時間である、午前十時に待宵駅の改札前で待ち合わせたが、呉羽は支度に時間がかかっていて少し遅れるとのことだった。数分前に蘇芳と宮下が二人で改札を抜けて歩いていく姿と、その後に続く東雲さんと篠崎さんの姿を見かけた。
ここに常磐も現れるのかもしれない、と考えたら息が詰まる思いだ。はぁ、と長いため息を吐いて俯かせた視界に、暗い赤色のパンプスが映った。
「枯葉、ごめん。遅くなった」
顔を上げてみたら、俺よりも十センチくらい低い位置に頭があった。走ってきたのか、ほんの少し息が上がっている。髪の長さはそのままだが、左耳へかけた横髪に赤いピンをさしていて女らしい。薄桃色のワンピースにジーンズ生地のジャケットを羽織っており、左肩から斜めに下げているショルダーバッグも女物だ。
化粧をしていなくても作り物みたいな顔立ちと、無駄な肉の付いていない体型は目を引くようで、通り過ぎて行く人が呉羽のことをチラチラと見ていた。見るなよと訴えるように周りを睨んでから、再度彼に目を向ける。
「それ……蘇芳の服と鞄か?」
「あぁ、彼女の家に寄って、渡されたものを着てきたし履いてきたんだけど……ヒールってすごく足痛いし歩きにくいね。歩くのやめようかと思った」
「女は大変だよなぁ。っつーか……もっと丈の長いスカートなかったのかよ」
蘇芳が着ていた時は膝丈だったワンピースだが、呉羽が着ると太腿が半分も見えるほどで、やけに短く見える。こいつが男と分かっていても、外見は女にしか見えないから目のやり場に困った。
「それは、僕も思った。正直それなりに細身と言っても体付きで男ってバレるかもしれないから、出来るだけ隠したかったんだけど……動きやすさと女っぽさを重視すると無理みたいだ」
「まぁ男っぽい服にしたらお前どっちか分かんねぇもんな」
「……で、どうしようか。駅で待機とは言ったけど、待ち合わせ相手と合流しているのにここに居続けるのも不自然かもしれない。とはいえ改札前付近にはいたいから、駅構内のカフェに入るか、適当に店に入るか」
腕組みをして俺の隣に並び、背後の柱に背を預けた呉羽が、黒目を左右に動かす。なんとなく気まずさを覚えて黙り込んだ俺を、彼が見上げた。しかし彼は俺と目が合うとすぐそっぽを向いてしまう。顎に手を添えた彼の心の声はあまりに小さくて雑踏に呑まれてしまった。仕方なく、俺がその袖を軽く引く。
「適当に店見て行こうぜ。ここにいるとやっぱ、待ち構えてるみてぇだし」
「……そうだね」
潜ったガラス戸は一番近くにあった玩具屋のものだ。店の中にいればおかしくはないだろうと、入ってすぐに足を止め、退屈な手で棚の玩具を弄る。
「お前、さっき俺の方を見た時、心でなんか言ってたろ。何言ってたんだ?」
「ん? 間抜け面を見上げてもつまらないなと」
「はぁ?」
「冗談だよ。君が黙ったから、僕も何を言えば良いか分からなかったんだ」
横目で呉羽を見てみると、彼はショルダーバッグから携帯電話を取り出して画面を確認している。俺は真剣な横顔を暫し観察してから、携帯電話を仕舞い直した彼の眼前へ玩具を軽く投げた。
目の前に黒い物体が飛んできたことで呉羽が目を丸くして、反射的にそれを掴み取っていた。
「びっ、くりした。なに、いきなり」
「もう少し肩の力抜けよ。敵が来るまでは、そんな仏頂面してなくても良いんじゃねぇの?」
「生まれつきこの顔なんだよ、悪かったね。大体、ゴキブリの玩具を投げてきたやつに仏頂面を浮かべるのは普通の反応だと思うんだけど。なにこのリアルさ、気持ち悪」
溜息を吐いた呉羽は棚にそれを戻す。今は涼しい顔をしているものの、数秒前は本気で驚いていたような彼を思い返して、俺は嘲笑してみたくなった。
「呉羽、もしかして虫とか苦手なのか? せっかくだし買っていって耐性でも付けたらどうだ?」
「別に苦手ではないよ、叩き潰したくなるだけで」
「ほんと発言が顔に似合わねぇよなお前……」
冷めた目が俺を一瞥したかと思えば、呉羽は俺に背中を向けて歩き出す。棚の角を曲がって死角に行ってしまった彼を慌てて追いかけた。はぐれるなんてことはないだろうが、もしそうなったら面倒だと判断して、だ。
角から飛び出した俺の目の前に、大きな兎のぬいぐるみが突き出されて息を呑む。
「枯葉は、こういうものを買ったらどう? ほら、君との似合わなさがすごい」
呉羽は微笑すると、抱き抱えたぬいぐるみの手をこちらに振ってくる。馬鹿にするように笑ったつもりなのだろうが、抱いているものがぬいぐるみであるのも相俟って、微笑ましいなと息が零れた。
「っはは! お前、ぬいぐるみすげえ似合うな。それ買って抱き枕にでもすりゃ良いんじゃね?」
「……ものすごく馬鹿にされた気分で、ものすごく君の腕をへし折りたいけど、我慢してあげるよ」
氷じみた冷たさを孕んだ双眼に身が竦む。身を引いた俺の前で、呉羽はそのぬいぐるみを棚に戻そうとしていた。棚の一番上にあったらしく背伸びをする彼を見て、ヒールの高い靴を履いているのに届かないのか、と笑ってやりたくなる。
口端を引き上げていたら、ぬいぐるみを置いた呉羽の足元でパンプスが滑ったような音を立てる。はっとした時には彼の上体が傾いていたものの、咄嗟に伸ばした俺の手がなんとか彼を立たせていた。
掴んだ手の細さに思わず目線を下げる。握った手の平は汗など知らぬようにすべすべとしていて冷たい。引っ張られているためか、袖に隠されていた前腕部がほんの少し見えており、そこに巻き付けられている包帯が露わになっていた。
嫌な想像が頭に湧き出している中で、呉羽が暴力的な力加減で俺の手を振りほどいた。戸惑った顔の俺と視線が絡めば、彼が瞠目してから軽く睫毛を伏せる。
「……ごめん。ありがとう」
「…………いや、その、なんだ。お前……なんで、腕……」
「言っておくけど、君が想像しているようなことはないから。少し怪我をしているだけ。気にしないで」
突き放すような口吻はこれ以上踏み込むことを許さない。包帯を見られた時に彼が見せたものは、ただ怪我をしているだけの人間がする反応ではなかった。気にするなと言われても気になってしまう。悶々とする俺の胸元へ、呉羽が小さめの犬のぬいぐるみを押し付けてくる。顔を上げた彼がとても綺麗に、それでいてどこか申し訳なさそうに眉尻を下げて微笑みかけてきた。
「その犬、君にそっくりの阿呆面だから見てみなよ。ほら、似てない?」
唇を開いて普段通りの音を奏でる彼は、もう先刻のことを忘れたかのように、ぬいぐるみを弄ぶ。顔に押し付けられたそれを俺が受け取ったら、彼は「さて」と軽く伸びをした。
「そろそろここを出ようか。飽きた」
「……飽きるの早いな」
「玩具にはあまり、興味がなくてね」
俺に背を向け、呉羽は店外に向かった。俺は手元の犬のぬいぐるみを見下ろし、泣き出しそうな顔をしているそれに「似てねぇだろ」と呟いて、棚に置き直した。ふと、先程呉羽が持っていた兎のぬいぐるみを見上げ、蘇芳に買ってやりたいなんて思う。自然と頭に浮かんでしまった彼女の顔を脳内から振り払った後に、店の出入口へ進む。
呉羽は店のすぐ外で俺を待っているだろうなとその姿を探し、ガラス戸の向こうの右側にいる彼を見て足を止めた。男性二人組に絡まれているが、相手は大学生くらいだし友人ではないだろう。ナンパだな、と思って、そこに割って入るべきか二人組が去るのを待つべきか悩む。取り敢えず店の外、左手側に出て様子を見ることにした。
「ちょっとくらい良いじゃん。奢るからさ、向こうのカフェでなんか食べようよ」
「いや、だから、僕は人を待っているので」
「その人来ないし、来るまで退屈しのぎにどう? ってか僕っ子ってやつ? 可愛いね」
〈不愉快だなこいつら……。蹴り倒してやりたい……指一本くらい折っても許されるか?〉
俺の位置からでは呉羽の顔色は窺えないが、とてつもなく冷えきった氷の刃みたいな心の声が聞こえてきて肝が冷える。一度店内に戻ろうと思ったのか、二人組に背を向けた彼と俺の目がかち合い、全身に恐れが駆け巡った。黙って見ていたことを後悔するほど、彼の双眸に宿っている殺意めいたなにかが一直線に俺を突き刺していた。
俺の方に足を進め始めた呉羽は二人組のうちの一人に引き止められたが、彼は相手の腹部に肘を打ち込んで、この距離でも聞こえるほどの舌打ちを響かせた。腹を押さえて呻いている相手に、彼が吐き捨てる。
「男を必死に誘おうとするとか、物好きな奴もいるんだね」
冷笑を含んだ物言いは、思いの外怒りを滲ませていない。呉羽は背中に「はぁ!?」と動揺混じりの怒声をぶつけられていたが、彼が振り返ることはなかった。早足で俺との距離を詰めた彼が、俺のパーカーの紐を掴んで無遠慮に引き寄せた。
「なに傍観してるわけ。そんなに愉快だった?」
「い、いや、こういう時どうすりゃいいんだろうなーって、思ってだな!?」
「君が来れば一瞬で話が終わったよ。むかついたから後でケーキの食べ放題奢って」
「そんなんで良いのかよ」
「は? ケーキは『そんなもの』じゃ――」
いきなり瞼を大きく持ち上げた呉羽が、徐に自身の腰を見下ろす。心の中で〈タイミングが悪いな……〉と呟いた彼はショルダーバッグに手を伸ばした。
「くれ――」
「朽葉、今の僕は蘇芳でしょ」
呉羽はそれだけ言うと、取り出した携帯電話を耳に当てた。




