九品目
はいから亭の夕暮れ。学生バイト達の何気ない日常に、静かな違和感が差し込む。新人の月見里春歌は、昨日までとは別人のようにぎこちない。笑いと喧騒が満ちるいつもの空気に、ひとつだけ不自然な影が揺れていた。
とある日のはいから亭。夕方の店内は平穏に過ぎていた。窓の向こうでは制服姿の高校生達が笑いながら通りすぎ、クラシックが低く流れている。アンティークの照明が温かく灯り、カフェからディナーへと空気はゆっくり切り替わりつつあった。
休憩室では学生バイト達が出勤し、就業時間までの時間を過ごしている。制服の襟を整える音や、スマホのタップ音、控えめな笑い声が混じる。翠は休憩室の姿見で服装を直し、少し乱れた髪を整えていた。渚は椅子に座ってスマホをいじり、和影は隣で机に伏して目をつぶっている。
「ねぇ、あの新人の子、制服着れないみたいだよ」更衣室から出てくるなり、伊吹が首をかしげて言った。
「月見里さん?そんなことないと思いますよ〜」
渚はスマホから目を離さず、気だるい声で返す。
「けど、着方わからずに硬直しているよ……ニタニしてんじゃねぇよ!」
鈍い音が鳴る。伊吹が、座っていた林太郎を殴った音だ。
「相川さん今何もしてなかったのに……」
翠は、なぜか嬉しそうに殴られているにも関わらず、至福の表情の林太郎を半分引きながら見る。
「翠、無理だって。渡貫さんは一日に一回はドM殴らないと気が済まないんよ」
渚が笑い、翠も同意の笑いを浮かべた。
「仕方ねぇな」
絵恋が休憩室に入ってきた。手帳を片手に、冷静な視線。
「ちょっと聞こえたもんでね。誰か月見里に着方を教えてやれ」
「じゃ、俺が行ってきます。手取り足取り優しく教えます!」
賄いの定食を持って悠太がニタニタしながら入ってきた瞬間――
「テメー!それをセクハラって言うんだよ!」
絵恋のストレートが悠太の横っ面に炸裂し、賄いが宙を舞った。ご飯と味噌汁とおかずが見事な放物線を描き、床に散らばる。
「長宗我部行ってこい。河野は片付けろ。片付けたら足立にまた作ってもらえ。その分休憩を伸ばしてもかまわん。他の者はホールに出て交代してこい。カフェタイムは終了、ディナータイムになるからな。上総は今日まで月見里を教えてやれ」
絵恋の指示でバイト達が散った。
「月見里さん」
翠が更衣室内で硬直していた春歌に声をかけた。春歌は制服を持ったまま、壁の振袖袴の着付け図をじっと見ていた。
「どしたの?」
声をかけても反応しない。
「月見里さん?」
「……?あ、はい!」
ハッとしたように振り向く春歌。
「あ…えっと、松本さん?でしたよね?」
「はぁ?何言ってんの?私は長宗我部翠だよ」
「し!……失礼しました!」
「それよりも大丈夫?制服着れる?」
「き……着れます!ちょっと考え事を……」
慌てて着替え始める春歌の手は、妙にぎこちない。
「上総さんが待ってるからね。パートのおばちゃん達がきたらすごい混雑するんだから、早くね」
「わ……分かりました!」
返事を聞き、翠は首を傾げながら更衣室を出る。
休憩室では、和影が不思議そうに顔を上げた。
「どしたの?」
「月見里さん……なんだか今日……」翠は腑に落ちない表情で言う。
「別人みたい」
「はぁ?」と和影は訝しげな顔をした。
その違和感はすぐに現れる。
春歌はまるで昨日まで教わったことを忘れたように動きがぎこちなく、何度もメモ帳を確認しながら仕事をしていた。
「一卓さん、サーロインステーキ和風ソース上がったよ」
充が、熱々の鉄板を厨房口に出す。「はい!持っていきます」
春歌がトレイに乗せて運ぼうとする。
「あ、あ。ちょっと待って」
充が止め、伝票を指差す。
「パンとスープのセットだよ。パンはお皿に二つ、スープは日替わりスープの鍋ね」
「分かりました!」と、慌てる春歌。
小皿にパンを取り分けるが、トングの持つ手が震えている。
その様子を和影はじっと見る。
「オメー、一昨日と昨日、何を教えていたんだよ!」
絵恋が和影をどつく。
(結局どつかれたのは俺かよ!)
「一昨日と昨日はちゃんとできていました。まるで別人です」
「はぁ?何わけのわからないことを言ってる?」
絵恋は呆れながらため息をついた。
「あ、いたいた。佐伯さん」悠馬が顔を出す。
「おぅ。戻って来たのか?」
「ええ。今戻りました。お話がありますから、事務室に来て下さい」
「すぐ行く」
絵恋が去ろうとしたとき、渚が戻ってきた。
「副店長〜」
「なんだ?」
振り向いた瞬間、渚は絵恋の胸を鷲掴みにした。「ちょうどよくフィットするわ〜。大きさも手頃、揉んでて気持ちいい」
絵恋の右手が今にも飛び出しそうな構え。
「気が済んだか?要件」
「店長って、いつも外出してるじゃん。なんでなん」
「そうか……上総、説明してやれ。呼ばれたから外す」
「あ、はい」
冷や汗混じりの和影が返事して、絵恋はバックヤードに入っていった。
「おい!マジでここではやめろって」
「え〜、いいじゃん。服の上からでもわかる。形のいいおっぱいだったよ」
和影は冷や汗混じりで言っても、渚には応えない。逆に春歌の胸元に視線を落とす。
「発展途上だね」
「え?何がですか?」春歌が赤くなる。
「上総っち、さっきの話」
「ああ。あれね」
和影はやれやれと肩をすくめた。
「店長はこの店の店長職のほか、この付近四店舗を束ねるエリアマネージャー、その他企画開発など、諸々のことを本社から一人何役も押し付けられているんだよ」
「え?なにそれ?もしかしてブラック企業?」
渚が若干引き気味になる。
「詳しい理由はわからないけど、この会社は東京周辺に勢力があって、ここは飛び地なんだよ。四店舗だけぽつんとあるから、一人で全部こなせじゃないの?」
「ちょっと引くね」と、渚。
「そう言うことだから、俺も詳しいことは知らないから、知りたかったから、店長に直接聞いてみて」
和影はそれだけ言うと、隣に立っている春歌に在庫チェックすると告げた。和影の後についていこうとする春歌の腕を渚が掴んだ。
「アンタ今日マジ変やけど?大丈夫?」
「……だいじょうぶです」
春歌は小さく笑う。けれど、その声はどこか遠かった。




