十七品目
初夏の熱気が満ちるボクシングジムで、驚異の打たれ強さ(と変態性)を見せる大学生・林太郎。バイト先の「はいから亭」でも相変わらずの騒ぎを巻き起こす中、店長と副店長の謎めいた関係にバイト仲間が迫る。
初夏の陽射しが湖面に乱反射する。すでに夏本番を感じさせるような熱気と湿気がまとわりつく。それでも時折吹く風は心地よく、涼しさを感じさせた。
そんな心地よい風とは無縁な場所。
一心不乱にサンドバッグを叩く音、リズムよく響くスピードボール、縄跳びの規則正しい風切り音と呼吸音、時折響くミット打ちの快音と叫び声。室内には濃い汗の匂いが立ち込めている。
リングの中央、両手を頭の後ろで組み、腹に力を入れて踏ん張る人物のみぞおちに、メディシンボールが勢いよく打ち込まれた。
躯体がくの字に曲がり、身体中に激痛が走る。苦痛に顔を歪ませる……こともなく……逆にその顔はニヤついた。
「流石に引くぜ……なんでメディシンボール打ち込まれてその顔ができる?」
トレーナーですらドン引きするほどの空気が漂う。
「あ、まだまだいけますよ」
林太郎は軽くステップしてみせるが、トレーナーが手で制した。
「お前がいけても、こっちのメンタルが持たないよ」
「そうですか?」
「お前ぐらいだよ。パンチもらって笑っていられるドMなボクサーなんて」
愚痴をこぼしながらも、トレーナーが再びメディシンボールを構える。林太郎も腹筋を固めて身構えた。
ドスっ! と渾身の一撃が命中するも、林太郎は笑う。トレーナーは呆れたように息を吐いた。
「どうだ?」
肩にタオルをかけた初老の男性が、ロープに寄りかかりながら林太郎の具合を確認した。
「次の相手は確実にボディを狙ってくるらしい。対抗するには打たれ強い腹筋が必要なんだ」
「会長、そりゃ分かってますけどねぇ……」
トレーナーの表情が険しくなる。
「どこの世界に、メディシンボールを打ち込まれて歓喜の表情を浮かべる奴がいますか?こちらが持ちませんよ」
「そこにおる」
男性は、まだやれるとアピールする林太郎を指差した。トレーナーは肺の空気をすべて吐き出すような溜息をつく。林太郎は軽快なフットワークでシャドーボクシングを初めている。
「変態だが、打たれ強さは天下一品だ。ちょっとやそっとのパンチには耐えられる……が……」
「変態なのは認めるんですね……」
トレーナーは呆れ顔だ。
「しかし、スタミナに問題がある」
「そうですね。アップのためのトレーニングメニューを考えておきます」
「そうだな……」
会長は一心不乱な林太郎に視線を移した。
「林太郎!脇を締めろ!……大振りするな!隙ができる!……身体のバネを活かして!」
林太郎の一挙手一投足に会長のツッコミがはいる。返事しながらもシャドーボクシングを続ける林太郎。
ジャブもフットワークも申し分ない。問題は、ただ変態なことだけだ。
「林太郎!、今日はバイトだろ? もう上がっていいぞ!」
会長が止めると、林太郎の動きが止まる。汗が流れ、呼吸も荒く肩で息している。
「分かりました! お疲れ様でした!」
林太郎は一礼してリングを降りた。彼がシャワールームに入ったのを確認して、会長と呼ばれた男が口を開いた。
「……息子が言っていたが、あいつ、就活をほとんどしていないらしい。どう思う?」
「どう思うって言われても」
突然の質問にトレーナーは困惑した。
「働く気がないのか、大学院に進むつもりなのか……」
「さあな。働く気がないならジムを辞めさせるが」
「しかし、バイトはしているじゃないですか。卒業して即プー太郎ってことはないでしょう」
「……だといいがな」
会長はロープに深く寄りかかった。
「奴はプロの世界でやっていけると思うか?」
「会長、まさか林太郎にプロテストを受けさせる気ですか?」
その問いに会長は顔を向けただけで、黙ってその場を後にした。
夕方の「はいから亭」。
休憩室に鈍い音が響き渡る。
「またか……」
騒ぎを聞いてホールから様子を見に来た絵恋が、呆れたように腰に手を当てる。
「渡貫さん……」
悠馬も事務室から顔を出して困り顔になった。殴られて歓喜の笑みを浮かべる林太郎と、肩で息をする伊吹。
「おい渡貫、今度は何だ?」
「あ……いえ、反射的に」
「相川が来たから反射的に手が出たのか?」
絵恋が呆れたように悠馬に視線を移す。悠馬も困ったように大きく息を吐いた。
「まあ……ほどほどにね」
それだけ言って、事務室に引っ込んだ。
「……だそうだ。ボケとツッコミも大概にしろよ」
絵恋はお手上げとばかりに事務室へ入る。
「おい悠馬、あの二人があんな仲なのは分かるが、いいのか?」
絵恋が声をかけると、悠馬は手元の手帳を閉じ、ゆっくりと彼女に向き直った。
「相川くんは鍛えています。渡貫さんのパンチなんて、蚊に刺された程度にしか思っていませんよ」
「何でわかる?」
「彼は体幹がしっかりしていますし、手足が長く、ふくらはぎも引き締まっている。かなりの修練を積んでいますね。ボクシングとかの格闘技系だと思いますが、彼なら大丈夫です」
「なるほど。相変わらずの観察眼だな」
絵恋も感心したように肩をすくめた。
「あ、それでも殴られて喜ぶのは別問題ですよ」
「分かっている」
絵恋は吐き捨てるように言うと、事務室を出た。
「さてと……」
悠馬はしばらく手帳にペンを走らせていたが、やがて視線を上げた。
壁のモニターには、店内の混雑し始めた様子が映っている。
「賑わってきましたね……行きますか」
独り言を呟き、立ち上がった。
事務室を出ると、夜番のバイトたちが出勤し始めていた。
和影がテキストを広げ、黙々と何かを書き込んでいる。
翠と渚がスマホをいじり、その横で休憩中の悠太がコーヒーを飲みながら同じくスマホを眺めていた。更衣室からは春歌と桜花の話し声が漏れてくる。
「皆さん、時間になったら各自シフトを確認してくださいね」
悠馬が声をかけるが、誰も画面から目を離さず、バラバラな返事が返ってくる。悠馬がホールへ向かうのを見送った翠が、口を開いた。
「ねぇ、前から気になってんだけどさ、店長と副店長ってどんな関係だと思う?」
「ん〜?」
渚が気だるげに反応する。
「マジそれな。あの二人、ぶっちゃけ怪しすぎ。じゃなきゃ、あんな頻繁にお金渡したりしなくない? 完全に裏あるっしょ」
「もしかして付き合ってる?」と翠。
「は? まさかのそれ? 無理無理、副店長まだ若いし。あんなオッサンと釣り合うわけなくね?」
ドッと笑いが起きたが、その直後、ホールからくしゃみが聞こえてきた。
「ウケる、ウチらが噂したから店長クシャったし!」
渚のツッコミにまた笑いが弾ける。
始業までの短い時間は、ゆったりと流れていった。




