岩窟の主
小さな祠を持つ小さな村があった。祠には龍が彫り込められていた。
村の最奥には別世界が広がっていた。
川の上に、反り返った瓦屋根を持つ木造のお堂が建っている。赤く塗られた柱と格子戸が並び、屋根の縁には細かな装飾が施されている。水面に張り出した回廊には欄干が設けられ、風が吹くたびに吊り下げられた飾りがかすかに揺れていた。
お堂のすぐ脇には小さな船着場が設けられ、数隻の小舟が水面に揺れている。
お堂から少し離れた場所には、周囲を壁で囲まれた大きな祭壇がある。入口は固く閉ざされており、外から中の様子をうかがうと、大きな人物の像が立っている。
この村には、異国から出稼ぎに来た男がいる。名を俊海という。
俊海には、特別な仕事があった。それは、祭礼道具を作ることだ。
これらのお堂は、ある恐ろしい怪物を対策するために作られた。
俊海の職場兼住居だった。
赤龍。
村人たちが恐れるのは、この龍だった。龍は、200年前にどこからか現れ、村娘を食い、ここに居座った。
村人たちは、この問題の対処法を探すため、他の地域を巻き込んだ。
そこで俊海が推された。俊海は、なぜかこうした不可解な課題をうまく解決する術を度々思いつき、ある町で重宝されていた。
龍は、船の渡場より海を隔て、洞窟の中に居座っている。
俊海は、村娘に、鉛でつくられた祭礼装束で全身を纏わせ、鉛の粉末で化粧をした。村娘を不味くすれば食われないという理屈だった。
毎年、捧げ物を龍に収める日が来ると、団子や酒を携えて、村娘と俊海は船で洞窟へ向かう。岩窟の中の龍は、今年も不味そうな娘が来たとうんざりした。娘は龍へ団子と酒を捧げ、竜と対話をした。
龍は、娘を食うよりも、長い時間を過ごし収集した呪術を伝え、それを知るまでにどれだけ苦労したか、自慢話をする方が気分がいいといい、一晩延々と語った。娘の集中力が途切れそうになった時は、俊海が娘の隣に座し、竜と対話した。
龍の話はどれも価値があり、野草の毒にやられたとき、毒の種類を問わず毒抜きの方法を教わった。
建物から離れた場所にある祭壇の人物像は、龍をギリギリまで追い詰めた戦士の姿だった。彼を讃えるために作られ、竜の目に映らないよう、閉ざされた祭壇に捧げられている。
俊海はこの仕事が好きだった。竜と娘の問答を眺め、不穏な空気になったら、間に入り、萎れかけた話の筋を掴み、発展させていった。
龍は祭礼道具の、きめ細かい美しさに感嘆し、欲しがった。
だから、娘と共に船へ戻る際、身に付けさせた祭礼道具をいくつか龍に渡した。
祭礼道具の装飾は、毎度変えている。龍を楽しませるためだ。
この贖い(あがない)の儀式が終わると、俊海は母屋を離れ、旅に出かけた。多様な土地を訪れ、その地に長く伝わる婚礼刺繍、祭礼道具、そこに込められた意味などを収集する旅だ。
龍はもう何百年も生きている。世界中の美しいものを見てきた。
刺繍に込められた意味もわかる。慎重に装飾する必要があった。
一度龍に聞いたことがあった。「あなたが飛んでいる姿を見たことがない」と。龍はこう答えた。「龍は深夜、人々が寝静まった時に移動する。」それでこの問答は終わった。
村は平和だった。俊海が来てから、村娘は一度も食われていない。
旅を終え、久々に母屋に帰ってきた。村を歩く中で、果物や野菜を村人から受け取り、あまりの贈り物の多さに、荷馬車を借りた。
もう少しで贖いの儀式になる。
今年はどんな装飾にしようか。
はじめのころは、尖った装飾を見せたものだった。
「豊穣」「子孫繁栄」などの意を込めた祭礼服に仕上げ、龍の元へ向かい、「当てつけか」と大いに笑われた。そのときに犠牲に選ばれた娘は、のちに私の嫁になった。
はじめは「祭礼道具が邪魔だから脱がせ」と再三言われたが、断り続けた。龍は不機嫌そうに「初めにお前を食うてやろうか」といったが、私自身も全身に、薄い鉛片を叩いて細かくしたものを振り撒いていたため、龍は手出しができなかった。
私が毎年、装飾を変えるので、しだいに人よりも装飾や文化に関心が移っていった。
龍はもう、何年も人を食べていない。けれど、苦しそうではない。
人の肉は生命線ではない。わからないことだらけだった。
私は、船で竜の巣へ行ってみようと思った。
深夜、村人に内緒で、船を漕ぎ出した。
岩窟は空だった。奉納した、というより欲しがられた祭礼道具が端正に並べ置かれている。嬉しかった。
ただけっして気を許していい相手ではない、ほおを叩き、顔の緩みを解いた。
周囲を見回した。壁には爪で刻んだような文字がある。
私は松明を近づけた。古い文字だった。
村の古老が読むことのできない、さらに古い時代のものだ。
一体何年、ここにいるのか。
文字の下にはいくつもの絵が刻まれていた。
山。
川。
船。
そして人間。衣服も、髪型も、持っている道具も違う。
これは記録だ。龍が見てきた世界の姿だ。
「なにをしている」背後から声がした。
振り返ると、岩窟の入り口に龍がいた。
「…勝手に入ったことを謝ります。
あなたが何をしているか知りたかったのです。」
「わしはここに住んでいる。それだけじゃ。
ひとの村が後からできた。」
「わしを恐れて、ひとは火や毒をもってきた。だから食った。
わしが食ったのは娘じゃない。銃火器を持つ者たちだ。
自分と姿形が違う者を忌避し、差別し、えらぶったり悪者にしたりする。うるさく煙たいだけの連中はみな食った。」
俊海は視線を逸らし、静かに龍の話を聞く。
龍にとって、俊海の傾聴は、一級品だった。
ここまで聞き上手な御仁は珍しい。
「お主を見て、ひとには違う側面があると、考えるようになった。」
「それで、旅をするようになった。人は知恵で、暮らし方や持ち物を改良してきた。そして、おとぎ話や刺繍で、己らの知恵を子孫に継承してきた。人は短い一生を、『継承』という形で伸ばしていった。」
「人に興味がおありで?」
「いかにも。ちなみに、村娘はひとりも食っていない。」
「え、それでは娘たちはどこへ消えたのですか?」
「知らぬ。村の男どもに愛想を尽かして、旅立っていった。
人を生贄にするなんざ、ろくな性根ではなかろう。」
龍は面白そうに笑った。
「お主の作る儀礼道具は、毎年違う。お主は旅をして、手数を増やしておるのだろう。わしもまた、装飾の意図を理解するために、旅をする。」
「…それ、面白いですね。」
「ああ、とても面白い。お主はわしと同じだ。
お主はこの土地を出た方が良い」
「なぜです?」
「この土地の者は一部、老いて性根が腐っているからじゃ。」
「わしを倒そうとした男が祀られている。けしかけたのは人間じゃ。」
俊海は、戦士像が祀られた堂を思い起こした。
「お主ほどの技術があれば、仕事に困らぬだろう。居所を変えよ。
わしはここを去り、北の街へゆく。龍を理解している人々が住まう街じゃ。」
「そうですか、正直、ここの待遇が素晴らしくて、続けられたらなと思っていたのですが。」
「人喰い龍が消えることを喜ばぬのは、お主くらいじゃな」
「うーむ」
龍は飛び去った。
翌日、私は村の人々に、もう贄は必要ないと伝えた。
信じてくれない村の人を船に乗せ、空の岩窟を見せた。
何度往復したことか。
村は喜びで溢れ、祝祭が取り行われた。私を讃える声が多かったが、
参加はほどほどにし、お堂へ帰った。龍が消え、仕事がなくなった。
嫁がいるし、食っていかなければならぬ。
悩んでいると、お堂に妻が入ってきた。名を秋蘭という。
「隣の家の杏香がね、祭日につかう祭礼道具や普段使いの耳飾りをつくる職人さんが欲しいと話していたそうなの。
貴方、その仕事をしてみない?」
「…それはありがたい、依頼をくださるよう、頼んでみるよ」
このお堂と妻を手放すのが、あまりに惜しい。
龍の言うようにはならなかったな、でもいいか。




