+伊坂郷の兄妹+
廟所の中を歩くうちに、豊かな水を落とす幅広の滝とその裾に水面から眩しい輝きを放つ泉が見えてきた。
水辺では、時折尾を緩く振りながら鼻先を泉に浸し、水を飲んでいる拓陸の愛馬の姿があるばかりで、他にはひとの気配もなく辺りはひっそりと静まりかえっていた。
「あら? ……ねえ? ここが岩山の頂じゃなかったの?」
「いや、本当の頂は滝の上にある竜寝泉だ。泉とは呼ばれているけど竜王が全身を沈められる程深いし、この岩山の根の辺りに底があるとも言われてる。この廟所は岩山の麓からは見えないから、遠方から廟所参りにくる者達には意外と知られていないらしい」
ほら、見てみろ。
拓陸の言葉に背後を振り返った紬は、薄く広がる虹色の雲海の遥か下方の景色に感嘆の溜息を漏らした。
「わぁ……都全体が見えるなんて……随分高い所までのぼってきたんだねー」
「一番外側に、堀と都の城壁が見えるだろう? 一番手前の大屋根が竜王宮だ。鳴海郷は……あぁ、あの峠のずっと向こうだな。街道が切れて見えなくなる辺りに、一際でかい木が立ってるの、わかるか? あれがオオクスの祠だ」
遠方を指し示す拓陸に紬はふんふんと頷きながら、雲海の彼方に霞む故郷をじっと見つめた。
「……わたし、自分が暮らしている世界がこんなふうになっているなんて、思ってもみなかった」
「織部の民はなかなか出歩く機会もないし、たまにはこうして出かけるのも良いもんだろう?」
「うん。お馬に乗ったり、ものすごく立派なお宿に泊めていただいたり、それから竜王様のお渡りにも出会しちゃったもの。織部のみんなに話したら、きっと驚くことばっかりだと思う……あ! もちろんこれもみんな、わたしが失敗しちゃったのをいろいろと助けてくれた若君のおかげよね?」
口許から軽く舌を覗かせ肩をすくめる紬に、拓陸は笑って草地に座り込むと懐から煙管を取り出した。
「まさか自分の領地の織部の民が、竜王宮に献上するはずの反物を都で勝手に売り捌いていたなんて知ったら、伯父上は卒倒するだろうからな」
履いていた靴底に尖った火口石を強く擦り、一瞬で火を起こした拓陸は煙管に火を移し、瞳を細めて煙を燻らせた。
紬も拓陸の傍らに腰をおろし、靴を脱いで泉を振り返った。
「あんまり水音がしないんだね? 大きな滝なのにどうして?」
「星姫の庵があるからな。竜王の眠りが深いほど水は波立たない」
「星姫様の、庵?」
首を傾げる紬に、拓陸は立ちのぼる煙を眺めながら頷いた。
「あの滝の上、竜寝泉には初代の星姫を祀ったちいさな庵があるんだ――せっかくだから観に行ってみるか?」
「うん……。あら? ね、あのひと、オオクスの祠で会ったひとじゃない?」
ふたりの視線の先には、廟所を尋ねてきたと思しき長身の男とひとりの娘が現れた。案内に立つ役人と立ち話をしている男に、紬は拓陸の顔を見あげた。
「えっと、名前は忘れちゃったけど……大食らいな牛の胃袋のひと。若君も憶えてるでしょ?」
紬の問いに拓陸は煙管の火を地面に落として靴底で揉み消し、男の傍らに立つ娘をじっと見つめながら呟いた。
「伊坂郷の、伊佐……ああ、そういえば連れがいたんだったな」
「ね、せっかくだから一緒に行かない?」
拓陸が答える間もなく、紬は役人と別れたふたり連れに声をかけた。
「伊佐さぁぁん!!」
くるりと振り返った伊佐は紬と拓陸の姿に気づくと、みるみるうちに顔に満面の喜色を浮かべ、荷物を持った手を掲げて大きく振った。
「おー! 紬ちゃんじゃねーか、次官殿も! また会えるなんてなぁ、さすがは縁結びの廟所だ。元気だったかー?」
伊佐は上機嫌で傍らの娘の手を取ると、若干引きずるような勢いでずんずんと歩み寄ってきた。
「ええ。昨日泊めていただいたお宿の方が、是非お参りして行くようにって」
「へぇ。俺達も宿の親父さんにそう言われたからきたんだけどさ。またこうしておふたりさんに会えるとはな。これもなにかの縁だ。一緒に行こうぜ」
――もしかして。
「……おまえらも、あの宿に泊まったのか?」
伊佐の背後に隠れるように佇む娘が手にした笠をチラリと見やった拓陸の問いに、ん? と伊佐は首をかしげた。
「なんだ? じゃあ次官殿もあのえらく畏まったご立派な宿にお泊まりだったのかよ? 道理で離れから聴こえてくる箜篌の音が、途中からえらく下手くそになったわけだな。次官殿、いくらなんでもよ、聴いてるこっちの酒がまずくなるような腕前じゃあ、竜王宮の女官様方にはとても聴かせられねえぞ? もうちっとは都人のたしなみとしてなんとかしねえと、せっかくの箜篌が泣くんじゃねえか? この莢べえなんて鄙育ちもいいところだけどよ、そりゃあ立派に上手いもんだぜ??」
「――もっともな忠告はありがたいけど、あれは俺じゃないぞ」
どこか笑いの滲んだ拓陸の言葉に、伊佐はのんきに懐に入れた手で胸元をポリポリと掻いた。
「あ? そうなの? だったらよ、ありゃあ――」
言葉を続けようとした伊佐は、拓陸の傍らの紬に視線を留めた。
「――あらら。……もしかして、紬ちゃんか?」
「ええ。少し弾かせていただいたの。とても立派な箜篌だったから、星姫様にあやかって、わたしもなんとか真似事なら出来るかなと思ったんだけど、大食らいで酔っぱらいなひとのお酒まで不味くしちゃうようじゃ、やっぱりダメよね?」
あら? 伊佐さん、どうしたの? なんだか顔が強張ってるよ?
溌剌とした明るい声で楽しげに語り続ける紬の前で、伊佐はみるみるうちに表情を強張らせ、必死になにかを訴えかけるように拓陸に目線を向けた。
笑いを堪え、諦めろ。とでも言うように面白がって腕を組む拓陸の姿に、伊佐はバツの悪そうな顔でガリガリと頭を掻いた。
「いやいや。そういうことなら話は別だぜ? 星姫さんにあやかろうなんざ、立派な心がけだよなあ? 初めてにしちゃあ、なかなか筋は良かったよ。うん。なぁ? 莢?」
突然、話題を振られた莢はその場の視線を一身に浴び、慌てて伊佐を見返した。
「え!? 伊佐さ……あの、大変申しわけありません。兄はあまり深く考えずに物事を口にする悪い癖がございまして……夕べの箜篌もお酒がまずくなるなんてことは決して……本当に、なんとお詫びすればよいのか……」
慌てた顔を真っ赤にした娘は、しどろもどろになりつつ手にした笠を握りしめると、勢いよく頭をさげた。
「え? 兄……って、伊佐さんの妹さん?」
あまりにも風貌の異なるふたりの様子に驚いた紬が尋ねると、伊佐は、いけね。と傍らの娘を押し出した。
「ありゃ。紹介がまだだったな? こいつは俺の妹で莢ってんだ。まぁ母親が違うから異母兄妹ってやつなんだけどさ。これがまた我が妹ながらよくできた娘でさ。織部の長の娘だから身の振る舞いが高雅なうえに、俺に似て可愛いだろ~?」
莢の頭を手でわし掴むようにガシガシと揺さぶりながら、伊佐は自慢げに鼻の穴を膨らませた。
「若君、わたし……莢様の気持ちが誰よりもわかるかも」
「……だろうな。俺も一瞬、おまえの兄貴の顔が浮かんだ」
顔を赤くして必死に伊佐の手を振り払おうとしている莢の様子に、紬と拓陸はボソリと呟きあった。