+隅柱の土竜+
竜宝廊――その昔、初めて星姫が竜王とともに天界に降り立った時に作られたというその庵は、満々と水を湛えた静謐な湖のほとりにひっそりと建てられていた。
「ねえ? 竜寝泉って言うけど、向こう岸が全然見えないよ?」
竜宝廊に向かって歩きながら濃霧に霞む水面の果てに瞳を凝らす紬達の先で、拓陸が笑って頷いた。
「そうだな。もともとこの泉ができたころは、この山もこれほど高くはなかったそうだ。幾星霜の歳月を重ねて竜王が泉の中で幼体に生まれ変わる度に、土が超えて地層が隆起し、天の川から伝い落ちる水量も増えていったらしい」
「ああ。その辺りの“竜の星語り”なら、莢べえが得意だぜ?」
「星語りって、機歌によく謳われる『盲いの竜と杼ノ姫』のお話ですよね? あ、じゃあもしかして、莢様は伊坂郷の織部のご出身ですか?」
伊佐の声に笑顔を向けた紬に、莢は頬を赤く染めて頷いた。
「ええ。昔から星語りは大好きで、よく織部のババ様達から聞かされていましたの」
「だよなあ? 俺が初めて莢べえに会ったのも、親父殿が催した新年の祝いの席だったし。箜篌を爪弾きながら星語りを歌う莢べえを見て、あぶなく惚れちまうとこだったんだ。うんうん……おっ? あれが星姫さんの庵ってやつか? よし、ちょっと待ってろよ莢べえ。兄上であるこの俺が、危なくねえか確かめて来てやるからな?」
莢との出会いを思い出し、ひとり悦に入っていた伊佐は、草間の陰に古びた茅葺きを見つけると一行の先に立ち、消えかけた細道を踏み分けていった。
「わー……あの溺愛ぶり、本当に他人事とは思えない。わたしの兄もあんな感じなんですけど、もしかしたら凪沙兄様以上かも?」
伊佐の背中を見送りながら呆れて呟く紬に、莢はすらりとした身をちいさくして溜息をついた。
「そうなのです。兄妹だと知らされてから、伊佐さんたらことある毎にああやって大袈裟に騒ぐもので、こちらは身の置きどころがないほど恥ずかしくて……そのたびにやめてくれるようお願いしていますのに、聞き届けてはくださりませんの」
「きっと伊佐さんも、血を分けた妹君がいらしたことが本当に嬉しかったのよ。莢様も驚かれたでしょうけど……莢様もお兄様がいらして嬉しかったのではありませんか?」
俯きがちだった莢は、ニッコリと紬に笑顔で間近に覗き込まれ、顔を赤くして戸惑うように口籠もった。
「……実のところを申しますと、未だに戸惑っているのです……ですが、こうして都にのぼる道中で伊佐さんのご様子を見るにつけ、どこかわたくしと似ているところもあるのかしらと思うこともあったり……」
「そうよね。確かに突然、伊佐さんがお兄様だって知らされたうえに、いきなりあんなふうに愛情丸出しで迫ってこられたら、わたしだって嫌だもの」
顔をしかめて大きく頷く紬に、拓陸がふきだした。
「おい。それはいくらなんでも、あいつが可哀相なんじゃないのか?」
「あら。じゃあ若君も、凪沙兄様とふたりきりになってみる?」
真顔で尋ねてくる紬に、拓陸は鳴海郷を出る時の凪沙の狂気じみた嬌態を思い起こし、青ざめて視線をそらした。
「……いや、なにがあろうともそれだけは遠慮しておく」
「でしょ? あ~あ。凪沙ちゃんの恋も、前途多難よねー」
「――おまえ、兄貴をまっとうな道に戻してやろうとは思わないのか?」
呆れたような拓陸の言葉に、紬は肩をすくめて口をとがらせた。
「無理よ。だってわたしが若君と知り合う前からの、長年の恋みたいだし? わたしが口出しなんかしたら、きっと問答無用で殺されちゃうわ」
辛い恋路よねえ。可哀相な凪沙兄様。
同情混じりに呟く紬と、諦めて溜息をつく拓陸の様子に、事情のわからない莢が首を傾げていると、遠くから声がした。
なにぼやぼやしてんだー? 来ないのかよー?
「はーい、今行きますー!!」
のんきな伊佐の呼び声に慌てて返答をすると、紬は莢、拓陸とともに伊佐を追って細道をのぼっていった。
湖に突き出す岩上にひっそりと佇むちいさな庵は、これといって華美な宝飾の類もなく、きれいに刈り込まれた生け垣に囲われた庭の中にあり、色とりどりの草花に埋もれていた。
「あらぁ~……こりゃあまた見事な。質素と言えば聞こえは良いけど、まぁなんともご立派なボロ家だな。侘びしいもんだ」
「――そんなことありませんわ。見てくださいな? 素敵……これが星姫様のいらした庵ですのね……」
生け垣の中に足を踏み入れた莢は、興味薄な風情の伊佐とは異なり、熱心に庵の佇まいを眺めはじめた。
「伊坂を出る時から、ずっとここに行きたいって言い続けてきたんだもんなぁ? 念願叶って良かったじゃねーか?」
「ええ……言葉にならないほどです。伊佐さん、連れて来てくださって本当にありがとうございます」
感動で微かに頬を染め、ウットリと庵を見つめていた莢は、紬に向かってニッコリと笑いかけた。
「紬様は、どうしてこちらの庵が縁結びの廟所だと呼ばれているか、ご存じですか?」
「え? うん。えっと……竜寝泉の水が竜王様と人間や、親子の絆を結ぶ依り代になっているから……よね?」
突然の質問に紬は口籠もり、最後は自信なさげに拓陸を振り返った。
「ええ、そうなんです。やはり紬様も、この廟所が祀られている意味をきちんとご存じでいらしたのですね」
ホッと安心したような笑みを浮かべる莢の様子に、紬は首を傾げた。
「わたしも……って?」
「それはもちろん、星姫様に関わることだからです。あ、ほら、あちらをご覧くださいな」
莢が手で示した隅柱には人為的な凹凸があり、風雨に晒されながらも何かの彫り物が施されていることが窺えた。
「“ふたつの竜、天地を縒りて 黄土 紫雲を醸す”――この言葉はもともと、この御柱から詠まれたものなのですよね」
憧れの眼差しで、じっと古びた隅柱を見あげている莢の傍らに、紬も立った。
「随分昔に彫られたみたいね。ふたつの竜……あ、黄竜様と紫竜様のこと?」
紬の言葉に、莢は嬉しそうに頷いた。
「ええ。でも、もともとの意味は異なるものと言われています。その昔、竜王様と星姫様は今とは異なるお姿だったとか――ふたつの竜……つまり『土竜』である竜王様はミミズ、星姫様はモグラの化身だと」
「え……ミミズとモグラって、あの土の中にいる?」
「ええ」
躊躇なく頷く莢に紬は面食らい、竜なのに……ミミズ? と首をかしげた。
「へえ、詳しいんだな」
感心する拓陸の声に、莢は頬を赤くすると、慌てて首を振った。
「あ! でも存じておりますのは、本当にわずかなことしかございませんの」
「いやいや。まぁ聞いてやってくれよ。莢べえの星語りをさ」
庵の濡れ縁にどっかりと腰を下ろした伊佐は、草履を脱いで懐の袋から金平糖を取り出すと、数粒をまとめて口の中に放り込んだ。
「うん。わたしも伺いたいです。竜王様がミミズだったなんて、初めて聞くもの。若君や伊佐さんは、知ってたの?」
「俺は莢べえの十八番をいつも聴かされてたからさ。なんだかこ難しい天界の国史についてはわかんねえなぁ。そっちは次官殿のご専門だろ?」
「いや、俺も詳しいところまでは知らないけど、さっきの“ふたつの竜、天地を縒りて 黄土 紫雲を醸す”って言葉は、この天界の国史録の一番はじめに出てくる言葉だな」
紬の問いに、伊佐が口の中の金平糖をボリボリと噛み砕きながら拓陸を見やると、隅柱を見あげていた拓陸は伊佐の言葉に頷いた。
「だろ? 莢べえの星語りは絶品だからよ、遠路はるばる……まぁ俺達に比べりゃ都からはほんの目と鼻の先だけどよ。かの景勝地で名高い鳴海郷からおいでの御両人様にも聴かせてやってくれよ。せっかくの星姫さんの庵だぜ? こんなところで聴けるだなんて粋じゃねーか? ほれ、さっさと座った座った!」
「まあ、またそのような……伊佐さん。汚れた衣でお座りになるなどと、星姫様にも失礼ですし、せっかくお通しくださったお役人様にも叱られてしまいますわ」
慌てて伊佐を制する莢の言葉に、伊佐はがっくりと肩を落とし、頭を掻いた。
「あらら。また莢べえの心配性がはじまっちまったか? いいか、莢べえ? こうしてお参りにきて、ここに座って語らってくれる者のことを星姫さんがお叱りになるわけないだろうが? それどころかよ、袖を涙で濡らして喜んでくれるに決まってると兄ちゃんは思うぞ? だから莢べえはなにも心配しなくて良い! わかったな? おぉ、確かにちっと汚えなあ? ちょっと待ってろよ? ……さぁこれで良しだ!! ほら、兄ちゃんの隣に座れ座れ!!」
ささやかな莢の抵抗などどこ吹く風とまるで我が家の如く振る舞い、甲斐甲斐しく妹の座る場所に手拭いを敷き、満足げに手招く伊佐の傍らにしぶしぶ近寄って行く莢の様子に、紬と拓陸はチラリと顔を見あわせ、込みあげる笑いを堪えた。




