+兄と妹+
「はい、どうぞ」
「うん」
差し出された汁の椀を拓陸が受け取ると、紬はどこかウキウキとした様子で腰を下ろし、運んできた盆を傍らに置いた。
竜王の祠、オオクスの根元から少し離れた草地では夕餉の支度が済み、焚き火を取り囲む人々は思い思いの場所で飯を食べはじめている。
「ねえこれ。地界の海魚の炙りと、こっちは刺身ですって。さっきおじさんがおまけだって多めにわけてくれたの」
……ん、おいし~!!
盆に乗せられた魚の炙り身と刺身を次々と箸に取り、上機嫌で口に運ぶ食欲旺盛な紬に、拓陸は苦笑した。
「生魚なんか食って大丈夫か? 地界のものは食べ慣れないと腹壊すぞ」
「そうなの? でも、こんな時でもないと食べられないじゃない? みんなも食べてるし、大丈夫よ」
椀を啜り、ちいさく息をついた紬は、上空の渡り雲の帯を眺めてポツリと呟いた。
「魚まで一緒に連れてきちゃうなんて、地界のひと達は大丈夫だったのかしら?」
「……地界と天界を行き来して翔ぶ竜王の渡りは、嵐の力を借りて行われるから、巻き込まれて犠牲になる者も確かにいる。実際に渡りの嵐に巻き込まれて、天界から地界に落ちる者もいないわけじゃない……どのみち普通の人間には越えられない境界だ」
「……うん。渡りの嵐で命を落としたとしても、それはどうにもならない仕方のないことなんだって――昔、ババ様も言ってた」
紬は少し俯いて自分の足先をじっと見つめ、ふたたび拓陸に顔を向けた。
「でも、織り姫様は……別、でしょ?」
「……ああ」
――竜王は渡りを終えた。都や各郷の領館に竜王旗が揚がれば、織女の宣旨が下るまでそれほど間がない。残された時間を思えば今夜の峠越えに加わって、明日一番に都に入っておきたかったけど……こいつの身を危険に曝す訳にはいかないし……
同じように握り飯を口にしながら、焚き火から紬へと視線を移した拓陸は、辺りの者の耳を気遣い、静かに尋ねた。
「おまえが都で売り払った反物のことだけど。数は?」
「……三本よ。全部同じお店のおばさんに売ったの」
「他に、どこか立ち寄った店は?」
「竜王宮の御門から荷所舎に案内されて、女官様に荷物をお預けした後は、ずっとそこで待つように言われていたの。帰りは凪沙兄様が、どこかに立ち寄ったかも知れないけど、わたしは荷物もあったし、すぐに大門に向かったわ。あまり時間もなかったから、市の並びにあった反物屋に立ち寄ってみたけど全部断られちゃって。困っていたら、最後のお店にいたおばさんが追いかけてきて、声をかけてくれたの」
「古着屋に立ち寄った時、おまえの兄貴は?」
「凪沙ちゃんは長様のご用事で立ち寄るところがあって別行動だったの。兄様がずっと一緒だったら絶対に自分の反物だけ抜くなんてこと、できなかったと思うわ」
「……確かにな」
竜王に献呈する反物を織部の者が故意に抜くなどと、到底考えられることではないが、この時期、各郷から届けられる反物の数は特に膨れあがるのが通例だ。紬の言葉からも、当時の荷所舎は人手が回らずに煩雑な状況であったことが窺えた。
「三本とも、まだ残っていてくれるといいけど……凪沙ちゃん、ものすごく過保護な上に心配性なの。今回の都行きはわたしのことだけじゃなくて若君も一緒だし、もし心配して追いかけてくることにでもなったら、本当に大変なことになっちゃうわ」
紬は自分を思う故の兄の行動を想像し、盛大な溜息をついた。
――自分が護衛として密かに選ばれていたように、同行していたこいつの兄も、すべての事情を知っているんだろうか?
血走った目で自分に飛びかかってきた凪沙の姿を思い出した途端、背筋にゾクリと悪寒が走り、拓陸は思わず身震いした。
「ねえ? そういえば凪沙ちゃん、若君に抱きついて久しぶりの再会を邪魔するなって言ってたじゃない? 若君は凪沙ちゃんと知り合いだったの?」
首をかしげて尋ねる紬に、拓陸は刺身をひと切れ箸でつまみ、口に放り込んだ。
「山之辺、凪沙か……。ああ、もしかして」
拓陸は紬の顔をじっと見つめ、そういえばなんとなく面影があるな。と呟いた。
「?」
「俺もよくは覚えていないけど、昔、俺の伯父上が領館の道場で郷の子ども達を集めて武術を教えていたことがあったんだ。その時の集いに確か、山之辺姓の者がいたな。俺が都から離れて領館にいたのは半年位だったから、ほとんど話をしたことはなかったと思うけど。言われてみれば、おまえと顔立ちが似ていなくもないな」
「ふ~ん。じゃあ、それが凪沙ちゃんだったのかしら? でも凪沙ちゃんが道場に通っていたなんて、ちょっと意外ねー」
「意外?」
紬の兄の用心棒並の大柄な体格を思い起こし問い返した拓陸に、紬はこくりと頷いた。
「わたしが生まれる前の話だから、織部のババ様からから聞いた話なんだけどね。凪沙ちゃん、ちいさいころは身体が弱くてほとんど家から出たことがなかったんだって。家の中の仕事は沢山あるし、凪沙は子どものころから大人顔負けの仕事ぶりだったってババ様が笑っていたもの。でも、わたしが覚えてる凪沙ちゃんは、表を走り回って里を荒らしにくる猪や山犬を棍棒で殴り倒したりとか、今のまんまの印象しかないのよねー」
「……身体が弱い奴に、猪なんか倒せるのか?」
「でしょ? でも昔、わたしと結が……あ、友達なんだけど、桑畑で山犬に襲われたことがあって、こっそりついてきていた凪沙ちゃんが落ちていた棒で追い払ってくれたの。すごく怖かったし凪沙ちゃんも大怪我しちゃって、みんなで泣きながら家に戻った思い出があるわ。誰にも知らせずに子どもだけで桑畑に行ったから、ものすごく叱られたのよねー」
「こっそりって。兄貴にむかっておまえ、酷いな」
しらっとした様子で兄について語る紬の言葉に、拓陸はふきだした。
「だってもう、凪沙ちゃんてものすごく過保護なんだもの! わたしの行くところ全部ついてこようとするのよ? ちいさいころならともかく、わたしだってもう立派な大人なのに、ダメだ、ダメだ! って、ふた言めには反対ばっかり!!」
嫌になっちゃう。早くお嫁様でももらえばいいのに!!
頬をふくらませ、膝をかかえて大袈裟に溜息をつく紬に、拓陸は苦笑した。
「それだけおまえのことが心配なんだろ。俺だって秋穂のことは心配だし、実の兄貴なら尚更だ」
「あき嬢ちゃまは本当にお可愛らしいものね。でも、裳着を迎えられるお歳だとは思わなかったなぁ」
「そりゃそうだろ。秋穂はまだ七つだからな」
旨いな。と刺身をつつきはじめた拓陸の言葉に、紬は仰天して問い返した。
「え!? だって若君、凪沙ちゃんに裳着のお支度だって……?」
「領館の奥で暮らしてる秋穂の歳なんて、わかりっこないだろ? 生地の見立てが理由なら、おまえを連れて行くのにもそれなりに言いわけが立つし、おまえの兄貴も納得してたじゃないか」
「ん~……凪沙兄様の場合は、若君のお願いならなんでも聞くんじゃないかしら? 凪沙兄様、若君のことを本気で心からお慕いしているもの」
大まじめな顔で、ひとり納得したように頷いている紬の言葉に、拓陸は溜息をつき、指先についた米粒を口に含んだ。
「悪いけど、俺は男色の趣味はないぞ」
「あら、いいじゃない。同性に好かれるひとに悪人はいないっていうでしょ?」
まぁ凪沙兄様の場合は、ちょっと極端だけどね?
炎の踊る焚き火を眺め、紬はクスクスと笑い声をあげた。