+奥屋敷の機歌+
カラ、カラララ タタン トン カララ タン カラカラカラ……
小気味良い音を立て始めた織機の傍らでは、糸巻き機の両端で彫り物細工の二頭の竜が紅い瞳を見開いて首をもたげ、徐々に織り模様が浮かび上がりつつある紬の手元を、じっと見下ろしている。
椅子に浅く腰掛け、まるで織り機全体と話でもしているかのような軽やかな手さばきで、紬は佳苗や秋穂と語り合いながら機織りを続けていた。
「わたし達からお願いしておきながら、あまり良い糸が用意できなくて、ごめんなさいね」
タンタ、と弾むような音色で紬の足元で踏み木が上下し、直後に手の中の杼が綜絖に通された、たくさんの経糸の間を滑っていく。
トン。と手前に引かれた筬によって、少しずつ小花に蝶の舞う模様が浮かび上がってきた。
広間での不機嫌顔など、どこかに置き忘れたかのように、瞳を輝かせて紬の傍らに陣取り、熱心に機織りを眺めていた秋穂は、まだ小指の長さほどの丈しか織り上がっていないこの生地を、早くも自分の帯にしたいと紬に向かってねだり始め、佳苗と紬を笑わせた。
「いえ、とても織りやすいです。それに、この織り機もとても立派なお品ですね。初めて使う織り機はどうしても長く使っている方の手癖がつくので、やりづらいのが普通なんですけど、この織り機は糸の滑りが良いから余計な力がいらないんです」
軽やかに織り続ける紬の手さばきに、佳苗は感心しながら微笑んだ。
「紬さんはまだお若いのに、織部ご出身だけあってさすがに手慣れていらっしゃるのねえ。わたしも自分の花嫁衣装を作った時には、この機を使ったけれど、とても紬さんのようには織れなかったわ。なかなか思うように織れなくて、本当に苦労したのよ。最後には着るのは自分だからって、開き直ってしまったけれど」
「わぁ、花嫁様のお衣装ですか~! 都の姫君様のお興し入れの際にご注文をいただいて、長が織られているのを見て勉強したことならありますけど、わたしはまだ修練が足りないので、織ってみたことはないんです。素敵……とても手がかかるお品だけれど、いつかわたしも花嫁様のお衣装を織ってみたいです」
機を動かす手を少し緩め、夢見るように幼さの残る笑顔を見せる紬に、佳苗も微笑んだ。
「あ。でもね? わたしの場合はいろいろあって、結局、拓陸を連れてこうして実家に戻ってきちゃったのよ。それにたぶんこういうことも、わたしよりあの子のほうが、ずっと上手なんじゃないかしら?」
「え? 若君様も機織りをなさるんですか!?」
驚いて佳苗を見つめる紬に、佳苗は笑って頷いた。
「この家に戻ってくる前は、父親と一緒に都で暮らしていたことがあったのよ。あの子、家の近くにあった機織り職人さんのお家に通うのが好きで、その時に少し手ほどきを受けたんだけど、見よう見まねにしては筋が良いって言われて。でも、肝心な図柄作りの絵心はまったく駄目だったみたいなの。他のことはなんでも器用な子なのに、絵に関しては今でもやりたがらないんじゃないかしらね?」
「若君様は、なんでもおできになりそうですのに、不得手なものも、おありになるんですねえ」
手足を動かしながら感心したように頷く紬に、佳苗は笑いを堪えながら小声で囁いた。
「そうなの。母親のわたしでも、返す言葉に詰まるような絵を描く時があるのよー」
「えー!? 拓陸兄ちゃま、あきには一度も見せてくれたことないのにー!」
いったいどんな絵を描くのやら、想像もつかず首を傾げながら織り続ける紬と、ぷうと頬を膨らませた秋穂の前で、佳苗はようやく笑いを収めると、紬の手元で織りあがっていく布地をうっとりと見つめ、繰り返し指先で撫でつけた。
「それにしても、本当にきれいな織り……素敵ねえ。早く全部見てみたいわ。ねえ紬さん? もしあなたの長様がお許しくださったら、全部は無理でもあと二、三日、泊まっていったらどうかしら?」
「あ、でもわたしは長のお供で来ていますから、それにご領主様にもお許しをいただかないと……」
恐縮する紬に、秋穂が瞳を輝かせて満面の笑みを浮かべた。
「大丈夫! あきからお父様にお願いしてあげる! 長様とお父様が良いって言ったら、紬ちゃん、ここに泊まってあきに機織りを教えてくれる?」
「でも、あき嬢ちゃまにはご立派な機織りの先生がおいででしょう?」
紬の言葉に、秋穂はこくりと頷いた。
「うん。本当は千代さんが秋穂の先生なんだけどー。千代さんはね、お掃除やお洗濯はとっても上手よ。でもお裁縫とかお料理は、拓陸兄ちゃまのほうがもっともっと上手なの」
「え!? 若君様はご自分で、お炊事までなさるんですか?」
瞳を丸くした紬を見つめる秋穂は、幼さの残る顔に満面の笑みを浮かべ、得意げに胸を張った。
「うん、そうよ! 拓陸兄ちゃまが都にいらした頃、お仕事で遠くに行く時は、自分でなにもかもやらないといけなかったんだって。だから本当はあきは、拓陸兄ちゃまに教えて欲しいのだけど、拓陸兄ちゃまは毎日たくさんのお仕事で忙しいから駄目だって……お父様が言うの」
最後は小声でボソボソと呟き、寂しげな表情で再び頬を膨らませた秋穂に、紬はその顔を覗き込み、ちいさな手を取った。
「とても若君様のように、上手にはできませんけど、わたしがあき嬢ちゃまにお教えします。でも、あき嬢ちゃまはもうお休みにならないといけない時間ですから、また明日にしましょうか?」
――あ、そうだ。忘れてました!
紬は衣の懐に手を差し入れると、丸くふくらんだちいさな巾着を取り出した。
「あき嬢ちゃまと母君様、それからご領主様の北の方様に、お土産です」
ちいさな巾着から紬の手のひらに広げられたそれに、ふたりは顔を見合わせ、その表情をほころばせた。
「わぁ、真っ白・・・・・・きれいー」
「まぁ・・・・・・これは、繭ね?」
「はい。蚕が作った繭です。これは中にいた蚕が蛾になって出てきた後のもので、このまま熱いお湯にしばらく浸して、ふやかしてから顔を撫でると、お肌がツルツルになるんですよ」
こんなふうに。
紬は穴の空いた繭玉に人差し指を差し込むと、自分の頬を軽く擦ってみせた。
「織部の皆さんは肌がとてもお奇麗だと伺っているけど、こんな秘密があったのね? でも、こんな貴重なものを、いただいてしまっても良いのかしら?」
紬に手渡された手のひらの上の繭玉をそっと撫でながら、佳苗は少し心配そうに秋穂と顔を見合わせた。
「織部で育った繭は、鳴海様のご領地の中だけなら運んでも大丈夫なんです。もう今は新しい蚕の幼虫が育ち始めていますから、ふた月もすれば、すぐに新しい繭が出来ます」
「蚕の赤ちゃんは、紬ちゃんが育てているの?」
「はい。わたしのお兄ちゃまの凪沙が蚕の責任者ですけど、蚕は繭になるまでとてもたくさん餌を食べるから、わたしも餌の桑の葉っぱを切らさないように、いつも桑畑に葉っぱを取りに行くんですよ」
「そうやって紬さん達が大切に育てた繭から、あんなに美しい反物が出来るのね・・・・・・」
小さな繭を灯りに透かして眺めている秋穂に、佳苗は声を掛けた。
「さあ、今日は紬さんも遠いところからいらして疲れたでしょう? 夜も遅いし、わたし達はそろそろおいとましましょう。千代さんにお部屋の支度をして貰う間、ふたりでお風呂に入ってきたらどうかしら?」
「紬ちゃん! あきが案内してあげる」
「いえ! そんな、あき嬢ちゃまと一緒になんてとんでもありません。わたしは、一番最後にいただければ十分ですから」
「あら、ダメよ。織部からお越しくださったお客様に、そんなことできません。秋ちゃん、ご案内して差し上げて?」
「はーい。来て来て、こっちよ、紬ちゃん」
ちいさな手でぐいぐいと自分の手を引く秋穂と、ニッコリと微笑む佳苗に、紬は困ったように笑い、ペコリと頭を下げた。
「えっと……じゃあ、すみません。お世話になります」