+月無しの語り+
カタン
湯殿の扉が開き、微かな湯気と共にふたりの少女が出てきた。
母屋に繋がる長い廊下を、紬とともに時折ちいさな笑い声を漏らしながら歩き、やがて角を折れた秋穂は、ふと暗い庭先でこちらに背を向け、佇んでいる人影に足を止め、声をかけた。
「そこにいるの……拓陸兄ちゃま?」
庇から下げられたいくつかの灯りと、時折雲間に見え隠れする月明かりの中、秋穂の問いに人影は振り向き、秋穂と紬の姿を認めると階へと近づいてきた。
「そんな真っ暗な中で、なにしてるの? ……お空?」
「……ああ。そろそろ渡り雲の時期だから。おまえらは? 風呂か?」
「うん。今日からしばらく、紬ちゃんも泊まるの。お父様もいいって」
「え?」
ニコニコと紬に笑顔を向けた秋穂は、再び拓陸を見つめた。
「長様は、明日お帰りになってしまうのだけど、紬ちゃんがあきに機織りを教えてくれるようにって、お父様が長様に頼んでくれたの」
「へえ……けど、織部のほうは大丈夫なのか?」
庭先から見上げる拓陸に、紬は首をすくめて頷いた。
「はい。あまり長くは居られませんから、三日間だけ」
若君様にも、お世話になります。
ペコリと頭を下げ、再び秋穂と手を繋いで連れ立って廊下を歩いて行く紬に、拓陸は声を掛けた。
「――紬」
「……はい?」
今にも角を曲がろうとしていた紬は、秋穂とふた言み言、言葉を交わすと、再び彼のもとに戻って来た。
「あ、いや……あのかざぐるま、もう完成した?」
拓陸の言葉に、紬は首を横に振った。
「あれから時間が取れなくて、まだ全然手をつけていないの。とりあえず若君にあげたひとつは良いものができたし、今年のお祭りに出すのはやめようと思って」
また来年、頑張るからいいんだ。
そう言って笑った紬に、拓陸は微かな笑みを浮かべた。
「そうか。綺麗だったのに……残念だったな」
「うん。ちょっとだけね」
靴を脱ぎ、階に腰を下ろした拓陸の傍らに紬も座ると、膝を抱えて雲間から覗く夜空を見上げた。
「渡り雲って、竜王様が天の川を泳ぐ時にできる道なんでしょ?」
「ああ。竜王がこの天界と地界を行き来する時に、身に纏う霞が辺りに残って、帯状に連なる雲ができる。それを目にすることができたその年の秋は、豊作に見舞われるとか言うらしいな」
「竜王様って、空に道ができるくらいの大きなひとなの?」
ぶっ。
突拍子もない紬の想像力に、拓陸は思わずふきだした。
「おまえ、ただの人間が天界と地界の狭間を超えられるわけないだろ? 竜王は俺達とは違う、完全な竜なんだから」
「へー。じゃあやっぱり竜王様は人間じゃないっていう噂は、本当なんだ」
感心したように頷く紬につられるように、拓陸も軽く足を組んで夜空を見上げた。
「俺達の前で、竜に変わった姿を見せることはまずないだろうな。竜王の本当の姿を知っているのはたぶん……織女だけなんじゃないか?」
「え!? 織り姫様?」
なんで?
「なんでって……織女は常に竜王と行動をともにするから。俺も詳しいことはよく知らないけど、織女の在任中は、特別な方法で竜王とともに天の川を渡ることができるって言うし……おまえも万が一、次の織り姫に選ばれでもしたら、竜王がどれだけ大きな奴なのか確かめることが出来るんじゃないか?」
「――そうね~。でもわたしは、間違っても絶対に織り姫様にはならないもの」
「はは。織部の娘なら可能性は誰にでもあるんだし、そうも言い切れないだろ」
眉をしかめ、口をへの字にする紬に拓陸は笑った。
「ううん。絶対によ。織部のみんなは、誰が選ばれるか噂してるみたいだけど、わたしは竜王様のためだけに機を織るより、今までみたいにずっと織部で暮らして、自分の作りたいものを作るほうがずっといいもの」
「だけど、俺と初めて会った時に担いでた反物は、竜王に献じるために都に持って行った帰りだったんだろう? ……おまえ、まさか……あれだけのものが織れる腕前を持っているのに、わざと自分の品は出さなかったのか!?」
一気に表情を強張らせた拓陸に、紬はちいさく首を横に振った。
「ちゃんと準備はしたよ? ……でも、織り姫様になる気もないのに竜王様に自分の品をお見せするなんて、まるっきり無駄だし、お役目に当たられている皆様にも失礼じゃない? 織り姫様には、本当になりたいひとがなればいいのよ。そのほうが、竜王様だってきっとお喜びになると思うもの」
「なりたいひとって……もしバレたら、どうするつもりだ? 織部の者にとっては、役を故意に逃れるなんて許される話じゃないんだぞ!? それこそ、竜王を謀った罪で地界に追放――」
「大丈夫よ!! ――バレたりなんかしないわ。このことを知ってるのは、わたしと拓陸様だけなんだから。だから若君、絶対に内緒にしておいてね?」
もし誰かにバラしたら、若君のこと絞め殺しちゃうから。よろしくね?
闇夜の中、わずかな灯りの中でのんきに笑う紬に、拓陸は呆気に取られた後、深い溜息をついた。
「おまえ……わざと、領主の身内の俺を巻き込んだだろう?」
「――それにもう今からじゃ、どうやっても間に合わないもの。わたしの反物は、都の町人相手の古着屋さんに売ってきちゃった。あそこなら、貴族様方や竜王様のお手元に届くことなんかあり得ないでしょ?」
これで、みんなの平和も守られました。めでたしめでたし。
「――なにが平和だ!? この平和ボケがっ!!」
「いたっ!! ちょっと! なにするのよ!?」
抗議の声に、馬鹿、静かにしろ!! と拓陸は声を潜めて紬をたしなめた。
「おまえ、新品の反物を古着屋に売る馬鹿がどこにいる!? しかも、あれほどの腕で織られた反物だぞ!? 目立つなっていうほうが無理に決まってるだろうが!!」
脳天に喰らった拓陸の拳骨に涙目で頭をさすっていた紬は、負けじと言い返した。
「だって! 古着屋のおばさんが、新品の反物の三倍払うからって! 三倍よ!? 三倍!! そんなの売るに決まってるじゃない!!」
おい……こいつ、織り姫がどうとかより、結局金に目が眩んだのか!?
目の前でビシッと三本指を立てて力説し続ける紬をよそに、拓陸はしばらく黙した後、夜空に流れる雲を見あげてポツリと呟いた。
「――よし。こうなったら、取り戻しに行くぞ」
「……へ?」
三本指を立てたまま、ぽかんとしている紬を、拓陸は溜息混じりに見遣った。
「おまえ、明後日まではこの屋敷にいるんだろう? 秋穂に機織りを教えるのは明日までだ。明後日は俺と一緒に、都に行くからな」
「都って……まさか、売った反物を探しに行くつもりなの!?」
仰天する紬に、拓陸は淡々と言葉を続けた。
「三倍値で買い取られたなら、おそらくそれよりは高い値で売りに出されているはずだ。もし売れてたら、俺がその倍額で買い戻してやる!」
「ろ、六倍以上!? ……なんだ、じゃあ最初から若君に売ったほうが良かったんだ。え、でもなんで急に?」
「なんでもクソもあるか! おまえ、織り姫になりたくないんだろう?」
「そ、そうだけど……あの、わたしの反物って、都で売っちゃいけなかったのかな?」
おそるおそる尋ねてくる紬に、拓陸は渋面を浮かべて低く唸った。
「――役人や宮廷関係者の多い都なんかより、まだこの辺りで売られるほうが、よっぽど取り戻しやすかったはずだ。とにかく三日後だ。わかったな」
「はーい。……はぁ、都かぁ。凪沙兄様になんて言いわけ……え!? ってことは、わたしまた凪沙に叱られるんじゃないの!? 若君、やっぱりわたし、都には行かない!! 正直に話したら、凪沙に殺されちゃうってば!! どうしよう!? いやだあああ!!」
「――おまえって、本当に馬鹿。全部、自業自得だろうが。まったく……溜息つきたいのは俺のほうだ」
涙目でなにごとかをブツブツと呟く紬を見遣り、拓陸は都での途方もない探索に思いを馳せ、またひとつ溜息をついた。




