68・わがままニコラがパンを作りたがった気持ちもわかる、やっぱりテンション上がるもんと瑞恵はちょっと胸を痛めたのでした。
「さてじゃあ奥さん方、さっそくタダ働きしてもらいますよ」
パン屋のおばちゃんが値踏みするように、瑞恵と橋田さんを見た。
「はい。異世界のパンを、しっかり修業させてもらいます」
瑞恵は姿勢を正して言い、一礼した。
「瑞恵さん、ちょっと趣旨が違うわよ……」
橋田さんが小声で突っ込む。
「じゃあまずは、このボウルに、粉と砂糖と塩、ミルクを入れて混ぜるんだ」
おばちゃんは、赤ちゃんの湯あみに使うような大きなボウルにどかどかと粉を入れ、それからスプーンでちょいちょいっと砂糖と塩を入れた。
「ミルクはそこの、人肌にあったまったのを使うんだよ」
「瑞恵さん、あたしたちのパン作りと、手順は一緒みたいね」
「本当ね。そういえば橋田さん、パンを手作りするの?」
「カルチャーで、ちょっとね……」
橋田さんのカルチャースクール通いの幅広さは、並大抵ではない。
「どうだ? 粉っぽさはなくなったかい?」
「ええ、大丈夫よ」
「じゃあ、こっちの台で、バターを練り込みながらこねてごらん」
瑞恵と橋田さんの手際のよさに気をよくしたのか、おばちゃんの語尾が少し柔らかくなる。
「ふふふ……パン生地を思いっきりこねるのは、アドレナリンが出るのよね……」
瑞恵は不敵にわらった。
「あたしのてのひらと、パン生地、一対一の勝負の幕開け……いいえこれは、あたしによるパン生地への、一方的な力の行使……悪く思わないでちょうだいよ……」
ねばねばしたパン生地へ、瑞恵の手が伸びる。
「パン生地を、台にこすりつけてのばす! こすりつけてのばす! のばしたやつを集める! 集めてはのばす! せっかく集まったのに、伸ばす! 集まって密になっている場合じゃないと、のばす! でも引きちぎってはだめ! ご縁をちぎってはだめ! だけど密になっちゃだめ!」
パン屋のおばちゃんが、あっけにとられている。
瑞恵の不穏なお料理中継に慣れた橋田さんは、黙々と自分の分のパン生地をのばしている。
「密になっちゃダメ! こらそこ、密ですよ!!……とはいうものの最終的にはひとかたまりになってもらいます」
瑞恵はつやつやとまとまったパン生地を前に、おばちゃんに告げた。
「あ、ああ……そうだね……ひとつにまとまってもらわなきゃね……」
「しかーし! べたべたとなれ合う関係はよくないですよね、パン屋の奥さん!!」
「うん……」
「べたつくやつは、たたく! たたいて水分調整! つまみ上げ、たたきつける! くるっとたたみ、たたきつける! この加減が大事! たたきすぎると、へそ曲げてパサパサになります!」
「……あんた、どこのパン屋の方だい?」
「ふううう。パン屋の奥さん、こんなもんでいかがでしょうか」
「ああ、上出来だよ。じゃあそれはこっちによこして」
「はい、どうぞ。これで発酵させるわけね」
「……」
パン屋のおばちゃんは、なぜか無言で、ひったくるかのように瑞恵からボウルを奪った。
ボウルをかかえ、そわそわと、店の奥のとびらをあけ、駆け込んでいった。
「? あたしなにか、失礼なことしたかしら?」
「したといえばしたような気もするけど……ねえ瑞恵さん。あのパン生地、どうやって発酵させるのかしら」
橋田さんが、瑞恵に言う。
「そりゃ、湯煎かなんかで生地をあっためて発酵させるんじゃない? さすがにこの世界に、発酵機能のあるオーブンはないでしょ?」
「そうじゃなくて。イーストとか、ふくらし粉とか、入ってないわよね、生地に」
「……そういえば!」
「あの、奥さんのそわそわした様子……なにか、秘密があるんじゃない?」
「すごいわ! イーストもふくらし粉も使わずにパンをつくる秘密があるなら、ぜひ教えてもらわなくちゃ!!」
瑞恵は、おばちゃんが出て行った扉に向かう。
「あらやだ、カギかかっているわ」
「ニコラがいたら、体当たりで開けちゃうんでしょうけど……」
「あたしたち、おとなだしね……」
「良識ある、おばちゃんだしね……」
瑞恵は体当たりは諦めて、力をこめてドアノブをがちゃがちゃやってみた。
ガキン!!
「……開いた」
「……瑞恵さん、それ、壊したって言うのよ」
「だってほら、あたしの職業、『おばちゃん』から『驚異のおばちゃん』にアップしていたから……」
「ちょっと力を入れたら、カギくらい壊せちゃうわけね……」
壊しちゃったもんはしょうがないので、薄暗い部屋に瑞恵と橋田さんは忍び込んだ。
「どうしてここ、こんなに暗いのかしら」
「パン屋の奥さんは、どこに行ったのかしらね」
おしゃべりしているうちに、目が慣れてくると、
壁沿い一面に、作り付けてある棚に気付く。
そしてその棚には、
「「……きゃーーーーーーーー!!!!!!」」
まん丸の白い生首が、並んでいた。
「橋田さん! 橋田さん! 大変よっ」
「瑞恵さん! 瑞恵さん! どうしよう!」
「……みーたーなー」
地の底から響くような声がして、瑞恵と橋田さんは息をのむ。
「……パン屋の奥さん!!」
部屋の片隅に、パン屋の奥さんが、ぬうっと突っ立っていた。
「ここを見られちゃ……帰すわけには、いかないねえ……」
おばさんの手から、まん丸の白い生首が、ぼたっと落ちた。
生首は、床に落ち、べちゃっとつぶれた。
「「……あれ?」」
「ねえ橋田さん、生首って、べちゃってつぶれる?」
「さあ……落としたことないから分からないけど、ごろって転がるイメージよねえ」
瑞恵と橋田さんは、床に目をこらす。
「「……パン生地?」」
まん丸の白い生首に見えたものは、
発酵が進み、2倍にふくらんだパン生地だった。
「なあんだもう。パン屋の奥さんったら、びっくりさせないでよう」
「ほんとほんと。あー驚いた」
「それにしても、この棚全部、発酵したパン生地? この部屋に置いておくだけで、こんなにきちんと発酵するの?」
「すごいわねえ。さっきあたしたちがこねた生地って、まだ15分も経ってないわよね? 発酵するのが、早すぎない?」
瑞恵と橋田さんは、小首をかしげる。
「……あんたたちに、黙っておくのは難しそうだね」
パン屋のおばさんは、ため息をついた。
「これがあたしの、増幅の魔法さ……」
おばさんが、こねあげたばかりのパン生地に、手をかざした。
「増幅!」
ほんの一瞬、あわい光にボウルが包まれ、
「「ふくらんだ!!!」」
パン生地が、見事2倍に膨らんでいた。




