40・夢かうつつかって、異世界の場合はどっちなんでしょうね。まあもちろん、信じたいものを信じて前に進むしかないんですけど。
「橋田さん、ヤスコちゃんって、まだ12、13歳くらいよねえ。高子ちゃんみたいに小悪魔な歌を作れるものなのかしら」
「……瑞恵さん。ヤスコちゃんは、本気よ」
橋田さんが、興奮を抑えるように胸を押さえて瑞恵に言う。
「近い将来、都を離れなくてはならない運命を、あの子は知っているわ。きっとこの歌に、ありったけの思いをこめるはず!」
この目は、昼ドラの最終回を前にしたおばちゃんの目だわ。そう気づいた瑞恵は、事の重大さにはっとする。
「恬子殿、どういたしました? もうしばらく、お考えになりますか」
筆を持ったまま宙に目をやるヤスコちゃんに、業平がやさしく声をかける。
「いいえ、業平殿。ただ、わたくしは……」
ヤスコちゃんは、自分でもどうにもできない感情を持て余しているように、首を振った。
「この歌が、未来のわたくしを言い当てたかのようで……そら恐ろしゅう気持ちになったのでございます」
「未来の、恬子殿、ですか……」
腑に落ちない顔をする業平を見て、ついに吹っ切れたようにヤスコちゃんは筆を走らせた。
「きみやこし われやいきけむ おもほえず 夢かうつつか そばかとうふか」
ヤスコちゃんが詠み上げる。
瑞恵は、はっと息をのむ橋田さんを見て、真似して「はっ」と言った。
だれも、何もいわなかった。
瑞恵の小芝居を完璧にスルーし、高子姫が感嘆のためいきをもらした。
「恬子殿……あなたのまっすぐなうたは……わたくしがとうに、失ってしまった輝きを持っていらっしゃいますね」
「高子さまは、だれよりもまぶしくいらっしゃいます。あなたさまは太陽、わたしは月。わたしには、月影を見上げ、この歌を思う老いた自分が見えるようでございます」
「ミズエー。ヤスコちゃんと、おひめさま、なにしてるのー。にこらもいれてほしいなあ」
「ニコラはこっちで、すじこでもしゃぶってなさい。じゃましないの」
「すじこ、もうない。そば、ほしい」
「そばも、もうないわよ! あんたたちがずるずる食べるから! ねえ橋田さん、ヤスコちゃんのうたは、そばかとうふか、って、そばも入っているわね」
「そうね。今日の日の全部を、歌いたかったんでしょうねえ」
しみじみと言う橋田さん。
「ところで、ヤスコちゃんのうたはどういう意味なの?」
「あなたが来たのでしょうか。わたしが行ったのでしょうか。あれは夢だったのか、現実だったのでしょうか。そばだったのか、とうふだったのでしょうか」
「……ねえ、だいぶ認知機能が低下しているっぽいけど、大丈夫? うちのおしゅうとめさん、最後の何年かそんな感じで大変だったけど」
「そういうことじゃないわよ。これは、禁断の恋の歌よ。ことばにできない関係の、どうしようもない思いを、混沌に託してうたっているわけ」
「ふうん。それにしても、そばだったのか、とうふだったのかって、それくらいは分かってほしいけどねえ。作ったかいがないわ」
「ミズエ! ヤスコちゃんのわるくち、いわないの!」
「やだニコラ、ぷんすかしちゃって。別に悪口じゃないわよ」
「ヤスコちゃんは、そばのうたを、うたってくれたんだよ。とうふばっかりじゃ、かわいそうだから」
「あら、そうなの?」
「そうだよ。そばもおいしいのに、とうふのことしかいわないと、そばは、さみしいよ」
「……思いがけず、深い解釈をするわねえ」
「そばにいるのに、さみしいよ」
「橋田さん大変! ニコラが、『蕎麦』と『傍』で、掛けことばしてる!!」
「すごいわねえ、ニコラ。瘤取りと小太りの掛けことばより、だいぶ上等だわ」
「ちょっと橋田さん。あたしじゃないわよ、その掛けことばしたのは」
「ニコラもちょっと歌ってみたら? 瑞恵さんより、才能ありそうよ」
「にこら、うたはちょっと……」
なぜかニコラは照れて、ぽてぽて瑞恵のそばを離れると、ヤスコちゃんの膝に甘えた。
ペリカン柄のパジャマを着て横座りになりニコラの頭を撫でていると、ヤスコちゃんはぐっとおさなく見え、さっきの歌が嘘のよう。
「恬子殿……夢かうつつか、さだめる宵が、いつか訪れるでしょう。わたくしはそのときまで、決してこの歌を忘れませぬぞ」
業平が目尻を拭いながら言う。
「橋田さん! 業平さん、また泣いているわよ! まったくよく泣く男ねえ」
「瑞恵さん、偏見だめっ」
「ふふ、業平殿。そなたには、あまたの女人が言い寄りますゆえ、わたくしのことなど、いつしかお忘れになるでしょう」
「恬子殿。業平は、女人のすがたは忘れようとも、歌は決して忘れませぬ。すぐれたお歌は身がほろびても心に生き続け、語り継がれていくのです」
「業平さん、たまにはいいこと言うわね! 歌の名人っぽい!」
「瑞恵殿。いよいよ、わたくしの番ですね。豆腐のお礼に、せーぶぽいんととやらを、この業平の歌で開けてみせましょう」
業平に言われて、瑞恵と橋田さんは、気の抜けた顔を見合わす。
「そういえば、そういう趣旨だったわね、この歌会」
「そういえばそうよ、瑞恵さん。基経さんの宝船にあるセーブポイントを開くために、優れた和歌が必要なんだったわ」
「業平さん、ナイスよ! よくぞ思い出させてくれました!!」
「……ダンチの方。そなたたちの頭は、大丈夫か。夢かうつつか、分かっていらっしゃるか?」
「基経さん、心配しないでよ! いま思い出したから大丈夫!」
「……それでは、詠ませていただきます」
業平が、かすかに微笑みながら筆をとった。




