『手を出したら殺しますよ』9
抱きすくめられる事に慣れた、なんて決してない。
自分の体がすっぽり長身に包まれて、体格差や耐性の無い他人の体温、香りを感じると頭の奥がクラクラしてくる。
拒否反応とは明らかに違う反応が、自分の内で沸き起こる。
そういうのにまだ戸惑いを感じるのだ。
「駄目ですよ、花音さん」
結城さんは囁いた。私を抱きしめたまま、内緒話するみたいに声を潜める。
長身を少し屈ませ身体を密着させて。猫がすり寄る様に頬を私の頭へくっつけた。
――花音。
その時、そう呼ばれた気がしたのは気のせいだろうか?
早鐘を打つ心臓の音に邪魔されて、よく分からない……。
――花音。何処にいるの?
「…………え?」
結城さんの唇がこめかみに触れ、吐息がかかる。そのあたたかさにビクッと大袈裟なほど反応してしまう私。心も同時に震えた。
(……なに? これ……)
見知らぬ感覚に少し恐怖を覚える。
だって結城さんは何も声を発しなかった。届いたのは吐息だけ。だとしたら、今微かに聞こえたのは誰の声だというんだろう。
「花音さん」
――花音。
「花音さん」
――花音、
「駄目だといったばかりです」
――何処にいる?
重なる声がまるで二重奏の様に。
響いて、届いて、
「……?」
訳が分からなくて。
余り身動き取れない中で、私は声のした方を見た。
「貴女って人は本当に……。なんて聞き分けのない」
見上げた結城さんの瞳はいつも以上に色が濃い。勿論、呆れと嘲りに近い色で、だ。
それをたたえたまま綺麗な顔を僅か数センチまで近づけ、結城さんは、
「ここまで手を煩わせますか……」
唇の端を引き上げて不敵に笑った。
「ならば私も、少しばかり意地悪を企みましょう」
意図が読めない呟きに、私はそもそもから疑問を感じる。
――これは私に向けられてる言葉?
(目は合ってるのに、見られてない感じが、する……?)
こんな至近距離。ピントもボヤけそうな近さで、自分がそう思うことも不思議だけど。
心臓は相変わらず騒いでいる。それが、一層激しくなる事態になったのは、直後の事だった。
「―――, ―――.」
結城さんの吐息が耳に侵入してきた。
何かを囁いたらしいけど、掠れた音は不鮮明すぎて聞き取れない。
耳に触れる吐息は熱い。含んだ空気が多い分、くすぐったさが皮膚を弄ぶ。
感覚の恥ずかしさに身をよじって逃げようとしたけど、結城さんは腰に回した手に力を入れて許してはくれなかった。
「いえ。……少し待って」
「……!」
囁き。髪に彼の指が絡む。大きな手が後頭部を抑える。
がんじがらめの状態で半分パニックの私に、容赦ない仕打ちは続いた。
「……っ!?」
耳朶をやんわりと食む唇は、突然の刺激に驚き跳ねた私を笑う。
そして更に、一ミリも離れることなく、ささやかな刺激をちょっとだけ攻撃的にしてきた。
甘噛みされた耳朶。
背中がゾクゾクして、全身の肌が粟立った。
「……んっ」
「―――, ――――.」
結城さんはまた何かを耳に囁いた。今度は反対側の耳へ。
そして、同じ様に唇で耳を食み、少し刺激的に歯を立て甘噛み。
「んんっ……!」
「……花音さん?」
両耳にそんな事されたら、全くたまったもんじゃない。危うく膝から崩れ落ちるかと思った。
「大丈夫ですか? でも」
力が半分以上抜けてしまった私を、結城さんは支えながら笑う。
「予想以上に、イイ声で。ここ以外では出さないでくださいよ?」
「……出すわけ……っ! 結城さんが変な事するからじゃないですか!」
「嗚呼……残念」
グッと相手の胸元を押し出す。
足に力を入れ、手先に抗議を籠めると、結城さんの体は意外にもすんなりと離れてくれた。
「あともう少し、かな……? と思ったんですけど」
「な、な、何がですかっ!」
結城さんの微笑みが意地悪に見えた。すっごい意味深。
なのに……。
それ以上は何も言わずに、けろっと何事もなかった様に「紅茶、お代わり飲みます?」と聞いてくる結城さん。ひどい。やっぱり意地悪。
私は首を振った。こういう時の追求は諦めるしかないって事位は、もういい加減気付いてる。
「いえ。……あの、結城さん」
それよりも、さっき中途半端に終わっている話が気になった。
「ん?」
立ったまま半分に減った紅茶を見、私は結城さんに言った。
「あの子……。お母さんにちゃんと会えます……よね?」
書いて貰った自分の似顔絵を思い出す。
丁寧に描かれた、お母さんの絵も。
笑顔と不安げなあの子の表情を思うと、力になれなかった無力さがどっしりと胸にのし掛かった。
今更……。今更なんだけど。
「…………」
結城さんは、すぐには答えてくれなかった。
「想いは通じますから」
やっと一言だけ言ってくれた結城さん。
「またお店に来てくれると良いですね」
私が仲良く親子連れで現れる事を期待すると、彼はフッと小さく笑った。
「……えぇ……叶うならば」
そういう口調が何となく重い。
結城さんも私と同じで、男の子の件では無力感を感じてるのかもしれない、と思う。
ずっと外であの子の母親を探し続けていたのは、他ならぬ彼だったのだから。
「…………」
「そういえば話は変わりますが、花音さんのアルバイト先はあの店から近かったですよね」
「あ。そうですね……。割と近いかも」
「今度、仕事っぷりを拝見に伺おうかな」
「え。……大丈夫ですから!?」
何が大丈夫なんだか。
ひきつった頬を向けると結城さんは楽しそうに笑ってる。
重い空気を彼が変えてくれたのは分かったので、私もやれやれ……と笑った。
「……って、結城さん!? 本当にそれだけで来ないでくださいよ!?」
「客として行く分には問題無い訳ですよね。行ったらたまたま花音さんの姿を見かけて……。うん。いいですよ?」
「“いいですよ”って何ですか……もう」
結城さんの事だから、教えなくてもバッチリシフトに合わせて来店するに違いない。
(どうか面倒な事にだけはなりませんように……)
好奇心の塊で元々結城さんに興味がある友人と、時々おかしな勘違いをする先輩。
二人の顔を思い出しながら私は「明日からのバイトは違う意味で気が抜けない……」とこっそり思うしかなかった……。




