36―人質と空に浮く城
そこは、皇帝クニシゲの執務室。
ハルツネが入っていくと、先程まで人の好い笑顔を見せていた主君の姿が、ほんの僅かの時間の間に消え失せている。
予想だにしなかった光景を目の前に、ハルツネは立ち尽くしていた。
只ならぬ気配を察したのか、魔族の女王とその従者が、許可も待たずに室内へ駆けこんで来る。
「これは、クニシゲ殿にこちらから護衛を派遣しなかった、私の手落ちだ」
見るなり苦い表情でそう口にした美貌の女王の後を追って、遠慮がちにトシツネも室内へ踏み込んできた。
彼もまた、側近のユキマサが大怪我をして床に伏しており、クニシゲがそこにいないという状況を目の当たりにし、事態の深刻さをすぐに理解する。
「ユキマサ殿、お気を確かに」
ユキマサに駆け寄ったアルベルトは、助けを求めるようにエルフリーデを見る。
彼女は黙ってひとつ頷いて、ユキマサに歩み寄りその身体に手を翳した。
青白い光がそのたおやかな白い手に宿り、光に触れたところからユキマサの傷が癒されていく。
「……」
治癒魔法を見るのは、ハルツネにとって実はこれが初めてではない。
彼の率いた反乱部隊のうち負傷者は、ことごとく魔族の手で治癒されてから投獄されたのである。
だが魔法というものをハルツネは、何度見ても見慣れそうになかった。
「かたじけない…」
傷も癒えて痛みも取り去られ、身体を動かせるようになったユキマサが、美貌の女王を申し訳なさそうに見上げていた。
「そんなことより、何があったのか聞かせてもらえまいか?」
焦った様子のエルフリーデに、アルベルトに助け起こされたばかりのユキマサが頷く。
「ミカゲです、陛下を連れ去ったのは」
「間違いないか?」
「いつものようにフードを被っておりましたが、声は間違いなくミカゲのものでした。床から砂が生えるように盛り上がり、それがミカゲになったかと思うと、立ち塞がる拙者を大きな力で跳ね除けて、皇帝陛下を…」
その時、大きな揺れが起こった。
エルフリーデたちがこの国に来てから遭遇した、四度目の地震である。
クニシゲの机の上からペンや小物が転がり落ち、紙の束が崩れてはらはらと舞う。
壁際の棚は音を発てながら半端に開き、飾られた絵が額ごと傾いた。
数十秒で、それは収まる。
「…多いな。やはりこの揺れは今回の件と関係があるのか」
それは女王の独り言であったが、凛と低く響く声はその場の全員の耳に届き、不吉な予感に彼らの心をざわめかせた。
「それで、ユキマサ殿。クニシゲ殿とミカゲの居場所について、手掛かりはないか?」
青い瞳で真っ直ぐにユキマサを見据え直して、エルフリーデが彼に問いかけた。
「はい。こちらをご覧ください」
皇帝の側近が懐から取り出し、異国の女王に恭しく手渡したのは、色紙を切り貼りして作られた赤い彼岸花であった。
それを目にした時、エルフリーデの秀麗な眉目が不快気に歪んだのを、皆が目撃した。
「これを、女王陛下にと、ミカゲが」
彼女の様子に怯みながらも、ユキマサはおずおずとそれを差し出す。
「こんなものを私に持たせて、奴はどうするつもりなのだ」
やむを得ないといった程で、エルフリーデはそれを受け取った。
すると、彼女の優美な手指が色紙の彼岸花に触れた瞬間に、それが空中に溶け出すように分解して光の筋になり、文字を浮かび上がらせた。
精霊言語で記されたその文章を、ユキマサやハルツネは読むことができない。
「…何と書いてあるのだ」
ぼそりと、ハルツネが独り言ちた。
すると、トシツネが兄の隣に歩み寄って口を開く。
「皇帝陛下を返してほしければ、空の城へ来いって」
その声は小さく、ハルツネへの答えとして紡がれたものであった。
「お前、これが読めるのか」
「うん」
小声で交わされる兄弟のやり取りを頼りに、ユキマサもまた主君の状況を知る。
「しかもトシツネを連れて来いとはな。悉く私の大切なものを巻き込むつもりか」
忌々し気に言いながら、エルフリーデは薄紅色の美しい下唇を噛む。
そこでまた、大きな揺れが彼らを襲った。
数秒もすれば、それは収まり、静寂が訪れる。
「五度目だ」
冷えた声でエルフリーデが呟く。
そして白い瞼を一度閉じ、それをもう一度開いた時、彼女は感情を殺し威厳を湛えた女王らしい表情をしていた。
「あなたがたの皇帝陛下は、無事にお返しすると約束しよう」
ユキマサ、ハルツネ、そしてトシツネを、美貌の女王は順に見据えた。
“あなたがた”の中にトシツネが含まれているのだということに思い至った時、トシツネの中の伝えていない想いが暴れ出しそうになった。
だが、今はそんな時ではないと弁えている少年は、それを抑え込む。
「かたじけない…!」
側近として主君を守れなかった情けなさに震えながら、ユキマサが悔し気な声を絞り出す。
護衛に任じられておきながら主君を守れなかったハルツネにしても、同じように情けない思いに苛まれている。
「否。今度の件、ミカゲの目的は私一人なのだ。よりによって一国の主を人質に取られたのも、私のせいだ。私が全てを巻き込んだ。あなたがたは皆、その被害者だ」
温度の無い声が凛と響く。
深く青い瞳は、毅然と前を見据えている。
「悪魔と誹られ、魔王として忌み嫌われてきた私が、事実あなたがたのもとへ厄災を運んできた。諸悪の根源は私だ。気の済むまで恨みも憎しみも私に向けるがよい」
それは全てを背負おうとする、暴君の慈愛であっただろうか。
「人間の力ではどうしようもない問題を持ち込んだのは私だ。だから、あなたがたは何一つ情けなく思うことも恥じることも無い。全てが片付いた時、胸を張って皇帝と共にこの国を建て直してほしい」
奇跡のような美貌が、ふっと柔らかく微笑んだ。
その表情の変化に、彼らは呆気に取られて見入ることしかできなかった。
自らを諸悪の根源と言い切った後に、エルフリーデは女神のように美しく微笑する。
その意味を理解し得ないままに、彼らの胸の内にはあたたかな光が差した。
「行くぞ、アルベルト。トシツネ、悪いがもう少し協力を頼む」
そう言ってエルフリーデは、固有空間を開く。
「拙者も!お供をさせてください!」
そこへユキマサが、供を申し出る。
「ならない。非力な人間を連れて行っても、足手纏いになるだけだ」
冷たく言い放つエルフリーデの声に、ユキマサは俯いて黙った。
だがトシツネには、そこに含まれているエルフリーデの慈しみがわかる。
「ユキマサ殿は、主君の留守を守れ。ハルツネ殿もだ」
これ以上言うことはないとばかりに、美貌の女王は彼ら二人から視線を離して、トシツネを固有空間へ放り込んだ。
「アルベルトは、そのまま来い」
そう言ってエルフリーデは、固有空間を閉じた。
始終出しゃばらず見守っていた従者は、黙って頷く。
自分ともう一人くらいならば、この女王は空間魔法で飛行させることができる。
彼女はその方法で、護衛役も兼ねているアルベルトを同行させるつもりだった。
つかつかと窓際に歩み寄ると、魔族の女王は勝手に窓を開け放ち、バルコニーに出た。
昇りきった朝陽に明るく照らし出された皇都が、彼女の眼下に広がっている。
空を見上げれば、ここに来る前には無かった城らしきものが、確かに浮いていた。
エルフリーデが浮き上がると、アルベルトが彼女の膝下に支えるように腕を回し、もう一方の腕を背に添えた。
まるで従者の腕に女王が座っているような格好である。
「失礼する」
そう言ってその状態のままで空に向かって飛んで行く彼女らを、ユキマサとハルツネは呆気に取られて見送った。
あの格好がスカートの中身を見せないための気遣いであったと彼らが気づくのは、女王と従者の影が遥か上空へ消え去った、ずっと後であった。
女王様のパンチラが無くてがっかりした方がいらっしゃったら、ごめんなさい。
いらっしゃらなかったらそれはそれで、余計なことを申しましてごめんなさい(笑)




