30―師弟と絆
眼球をいくつ潰したか。
血は出ないし、生きていないことはわかっている。
けれどその感触があまりにおぞましく、まるで残虐行為を繰り返しているかのような気持ちの悪さが胸に広がっていく。
投げ入れられた箱の外は、内側からは見えなかった。
トシツネの焦げ茶色の瞳に滲むのは、不快と疲労ばかりである。
この金の瞳を、彼はエルフリーデの記憶の中で見たことがあった。
あの恐怖が蘇りそうになるのを、必死に抑える。
今はそんな場合ではないのだ。
こうしている間、トシツネは実質人質となって彼女の足を引っ張っている。
この眼球の群れを潰し尽せばこの事態から抜け出せるなら、彼にはそうするより他にない。
鍛えられた若い体躯を懸命に動かして、標的を確実に潰していく。
あと数個という時、疲れた彼の中に湧き上がった想いは、ひたすらにエルフリーデに会いたいというそれだけだった。
「これでっ!最後だ!」
ぐちゃりと剣先で柔らかいものを潰す嫌な感触が、最後まで彼の手に馴染まず繊細な心をいたぶった。
けれど同時に達成感が満ちていく。
落ちていく残骸を見届けながら、剣を鞘に納めた。
これで出られると、ルフリーデのもとへ戻れると思っていた。
思っていたのに――。
彼は背後から迫って来た異質な何かに、衝撃と共に意識を奪われた。
気づけば、古代の円形闘技場のような場所にいた。
昼間のように明るいその空間には、青い空が広がっているが太陽は見当たらない。
頭がガンガン痛む。
トシツネは誰もいない客席の見下ろす舞台の片側におり、出入口は閉め切られている。
対面には、淡い金髪を煌めかせ、理知的な赤い瞳を持つ女王の従者がいた。
「……」
アルベルトは無言無表情でトシツネを見据えた。
その赤い瞳と目が合うのは、随分久しぶりに感じられた。
「あ、あの…。ここはいったい…」
いくらトシツネが特別聡くはないとはいっても、この状況をアルベルトだけが把握していると考えて問いかけたわけではなかった。
それはただ、口をついて出てきただけの言葉で、アルベルトもまた彼と同じように突然にこの空間に送り込まれたのであろうとは、察している。
「ええと、その」
黙ってトシツネを見ているだけのアルベルトに戸惑い、トシツネはきょろきょろと辺りを見回す。
居心地の悪さに耐え切れなくなって、閉ざされた出入り口の大きな門に駆け寄って、それをこじ開けようと力を込めて見たが、それも徒労であった。
「――闘技場の舞台に二人で閉じ込められているということは、それはつまり戦えということです」
初めて口を開いたアルベルトが、厳しい声をトシツネに投げかける。
トシツネは、もといた場所まで歩いて戻って、おそるおそるアルベルトの様子を窺った。
女王自慢の従者は、いつも通り美しい姿勢で立ち、毅然と前を見据えている。
「剣を取りなさい」
言うと同時に、アルベルトは腰の剣を抜いた。
その無駄のない綺麗な所作は、しかし恐ろしい程の迫力があり、トシツネは思わず後ずさった。
「で、でも…」
「何を躊躇うのです」
そんなトシツネに、逃げることを許さないというようにアルベルトは一歩近づく。
「先生と戦う理由がありません」
「あなたにはなくとも、わたくしにはあります」
強い意思を宿した赤い瞳が、その意思を曲げる気はないと口より雄弁に語っている。
「あなたは陛下を悲しませました。わたくしはそれを、絶対に許しません」
どくりとトシツネの心臓が嫌な音を立てる。
アルベルトは怒っている。
そんなことはわかっていたが、トシツネは流石に刃を向けられるとまでは思っていなかった。
しかしこの状況にあっては、彼が本気なのだと考えざるを得ない。
「安心なさい。魔法は無しです。剣だけで勝負をつけましょう」
トシツネはアルベルトの剣の腕がどれほどのものか、よく知っている。
だから万に一の確率でも勝てるはずのないことも、痛いほどにわかっていた。
アルベルトはトシツネの、剣の師でもあるのだから。
ここで剣を取って戦うということは、つまり死にに行くようなものである。
それだけこの常ならば温和な師を怒らせることをした自覚が、未熟な少年にもある。
だから覚悟を決めるべきなのだと、そう思う。
思うのに。
剣の柄にかけた手が震えた。
もう一度、エルフリーデに会いたい。
このまま、嘘をついたままで、永遠に彼女のもとを去りたくない。
その想いが、トシツネの胸の奥で悲鳴を上げている。
「――震えていますね。そんなに陛下に会えなくなることが怖いですか?」
はっとして顔を上げる。
読心の魔法など使えないはずのアルベルトが、何故トシツネの胸の内を言い当てたのかと。
「わかりますよ。あなたはわたくしの教え子ですからね。無駄に度胸だけはあるあなたが、自分の命一つに執着して怯えることなどありません。あなたが恐れることがあるとすれば、それはいつでも陛下のことです」
トシツネの疑問に答えるように、アルベルトは全てを言い当てていく。
やはりこの従者は少年の師なのだ。
そこには確かに師弟の信頼があったというのに、トシツネは女王の元を離れると言い出したことで、それをも裏切ったことになる。
「それほどまだ陛下を想っていながら、何故陛下の想いを踏みにじるようなことをしたのです?」
アルベルトが一歩トシツネのほうへ距離をつめると、トシツネはたじろぐ。
数舜遅れで一歩後退して、やっとのことで少年は口を開いた。
「そ、れは…。わたしが陛下を繋ぎ止めていていいわけがないんです。わたしは、陛下に相応しくありません」
「何故そう思うのです?」
トシツネは言葉に詰まった。
理由ならいくらでもあった。
それらを全てどうでもいいと思えるほどに、エルフリーデが好きだったというのに。
アルベルトを納得させられる答えなど、到底導き出せなかった。
「あなたが人間だからですか?何の取り柄もない自分に自信が無いからですか?」
責めるようにまた一歩、アルベルトは距離を詰める。
トシツネはおずおずとその分を後退する。
「それとも、あの陰陽師の戯言を真に受けて、陛下が呪いのせいであなたを選んだとでも思ったのですか?」
アルベルトがまた一歩、トシツネを追い詰める。
抜かれた剣先は下を向いているというのに、少年の胸には師の言葉が容赦なく刺さっていく。
「あなたが陛下の足手纏いだから?碌に役にも立たず守られてばかりで、陛下の弱みになってしまうからですか?」
そしてまた一歩、詰められた距離を後退する。
何もかもが図星で、胸を串刺しにされたかのように、もうトシツネは立っていられないほどの痛みを感じていた。
「先生、全部わかっていらっしゃるなら、どうして――」
「陛下を侮辱するのもいい加減になさい!」
怒声が飛ぶ。
憤りに震えるアルベルトは、肩で呼吸をしている。
「見損ないましたよ。あなたはもっと、見込みがあると思っていました。こんな馬鹿な生徒に陛下の最も近くを譲ろうと思っていた、わたくし自身の馬鹿さ加減にも失望しました!」
見たこともない程鋭い眼光を放ち、赤い瞳は焦げ茶色の瞳を一心に睨めつけていた。
「陛下があなたを選んだというそのご意思に、半端な信頼を示しておいて今更裏切るなど、どれだけ無礼なことかわかりませんか!」
「だって…。だって、わたしが選ばれる理由がありません!」
悲鳴のように絞り出したトシツネの声は、掠れながら響いていく。
「何故そう及び腰なのです?こんなにも陛下に大切にされておきながら」
「それは、わたしが運良く陛下に拾っていただけて、全てが幸運でしかなくて、その上に何のお役にも立てなくて、陛下を危険に晒して、だから…」
焦げ茶色の瞳に涙が滲む。
しかしそれを零す権利はないと思い、トシツネは堪える。
「偶然で得た不当に大きなものは、堂々と手にする資格がないと?」
「そう、そうです!」
赤い瞳に静かな炎が揺蕩う。
それは決して、我を失うような怒りではないことが、トシツネには伝わってきた。
アルベルトはまだ、トシツネの師として接している。
「違いますね。あなたはもっと大切なことに気づいていない」
静かな声に込められているのは、裏切られた憤りや、許せない苦しみを突き抜けた、信じたいという希望の残滓。
それがわかった時、恐怖は消えた。
「恋や忠誠など一夜で芽生えます。ですが絆は違います」
焦げ茶色の瞳で、静かに見つめ返す。
「絆は、築かなければ生まれることのないものです。あなたと陛下が過ごしてきた時間の中で、それを確かに感じたのではありませんか?」
ゆっくりと頷いた。
その絆は、トシツネとアルベルトの間にもまた、確かに築かれてきたものである。
「出会いは確かに偶然で起こったものかもしれません。初めはお互い一目惚れだったかもしれません。釣り合う釣り合わないを気にするようなこともあるでしょう。けれどこの期に及んで、そんなことが絆にすらも勝る重要なことだとでも思うのですか?」
今なら剣を取れる。
師の想いを受け止めるために。
そして師に教えを乞うために。
自分からは見えない己を、彼の目に映して知るために。
「あなたにならわかるはずです。他でもない、わたくしの信頼して止まない陛下が、唯一無二と決めた相手なのですから。わたくしはあなたを許せなくとも、あなたを信じる陛下を信じることはできます」
トシツネの耳の奥で、エルフリーデの声が蘇る。
『それがお前の手にまだあるということは、いざという時アルベルトはお前を見捨てない』――彼女がそう評した剣に、少年は視線を向ける。
「例え恋も忠誠も投げ捨てても、絆は消えるものではありません。さあ、剣を取りなさい。教育のやり直しです!」
「はい、先生!」
トシツネは、アルベルトから貸し与えられたその剣を抜く。
間髪入れずに、剣戟が響いた。
とても書きたかったシーンのひとつです。
読者の皆様のお気に召すものになっていればいいのですが…。
好きなことを好きなだけ書いているこの物語をご愛読下さる方々には、感謝が尽きません。




