7―橋の上の二人
午前中に予定されていた会談は滞りなく進行し、予定時刻より一時間以上も早く終わった。
エルフリーデにとっては非常に邪魔な、書記やら何やらといった腹を割れない人間たちが同席していたため、予定していた内容に淡々と同意を交わし、さっさと書類に署名して終わらせたのである。
手始めに、講和条約および不可侵条約を結んだ。
イヅノメ皇国側では、千五百年ほど前に出した宣戦布告を取り下げていないままにここまで来ており、かたちの上ではこれをもって終戦ということになるらしい。
アルテンブルク側にしてみれば、勝手に宣戦布告してきて、勝手に攻め込もうとしてきたものを、追い返して千五百年。戦争していたつもりも何もない状況である。
お互いに被害も無ければ捕虜もいない、敗戦国を決めて賠償など行う必要もないと見なし、歴史上類を見ない“協議終結”つまり引き分けという滑稽なかたちで、書面上は進めることになった。
その辺りはエルフリーデにとって、後に問題が残らないかたちで処理されるのであれば、何でもよかった。
更に、イヅノメ皇国が戦争状態に入った場合、同国が相手国へ防衛目的を除く一切の攻撃を行わない限りにおいて、アルテンブルク王国はイヅノメ皇国の防衛と人民救済に全面的支援を約束するという、一見何のことだかよくわからない条約を取り付けた。
つまり、イヅノメ皇国にその意思がないのに他所から戦争をふっかけられた場合、自分から攻撃を仕掛けず守りに徹するなら、アルテンブルク王国が魔族の圧倒的な力をもってイヅノメ皇国を守ってやるということである。
これは一方的にイヅノメ皇国側のみに利のある条件に見えるが、魔族と関わることによりイヅノメ皇国に生じる国際的不利益と、今回講和を持ちかけたのがイヅノメ皇国側であることを鑑みるに、当然の条件だと言ってエルフリーデが強引に押し切った。
事前にこの案を伝えてあった皇帝以外の同席者たちは、面食らった表情をしていた。
航行や貿易に関する協定については、現時点では時期尚早ということで、その案だけをまとめた。
それらを今自由化したところで、魔族側がはしゃいで人間側が怯えるだけなのである。
当面の間は用があればお互い、皇帝宛てや女王宛てに招待状なり通行許可証なりをやり取りすることとした。
その後、余った時間を利用して、エルフリーデはクニシゲに二人だけで話がしたいと持ち掛けた。
これに対し、クニシゲは頬を染めて満面の笑みで快諾した。
広く見晴らしの良いよく整えられた庭園に出て、その中央にある鯉の泳ぐ池にかけられた赤い橋の上に、二人は立った。
彼らの話が終わるまで、この庭園に他に誰も入れないようにと、人払いもしてある。
他者から見ればこれは、男女の語らいでもしているように見えるだろう。
しかしこの場所は、最も盗み聞きされづらいという理由でエルフリーデが希望したのであり、この女王に甘い語らいを交わす目的はない。
クニシゲの側では、かなり期待していたのであるが。
「ミカゲという陰陽師から目を離さないで欲しい」
開口一番、エルフリーデはそう口にした。
「ミカゲのことを、疑っておいでですか?」
エルフリーデは、池を見下ろす形で隣に並ぶクニシゲに、身体ごと真っ直ぐ向き直った。
「率直に言うと、疑っているどころか、あの男は貴殿の信頼につけこんで、この国を裏から動かそうとしていると思っている。だがこの私の本音は、どうか誰にも話さないで欲しい。貴殿に対する私の信頼に、応えて頂けると嬉しい」
美しい青い瞳から一心に視線を注がれて、この願いを聞き入れないという選択肢はクニシゲには浮かばなかった。
「口外しないことはお約束しましょう。しかし、それは考え過ぎではありませんか?」
白い瞼と長い睫毛を伏せ、僅かに艶やかな黒髪を揺らしながら、美貌の女王が首を横に振る。
その動作ひとつとっても優美で、クニシゲの鼓動は高鳴ってしまう。
「今回の件、我々魔族にとっては願っても無い他国との国交回復の好機だ。しかし、貴国の側にはリスクが大きすぎる。私が貴殿の忠節の臣下ならば、決してこんな進言はしない」
凛と透き通った声が、気高く響く。
その姿は、為政者として全てを知り尽くしているのかと思わせるほどの威厳を放っていた。
「ですが…。実際こうして貴女とお話してみて、魔族は人間界で言われているような存在とは全く違うとわかりました。長い歴史の中で生じていた誤解を解き、貴国との関係を本来あるべき姿にすることは、正しいことではないのでしょうか?」
クニシゲは、納得いかない様子である。
「貴殿は、純粋で正義を愛する人なのだな」
ふっと、奇跡のような美貌に笑みが浮かんだ。
クニシゲはその瞬間、目だけでなく身体ごと釘付けになって、痺れてしまった。
「しかし、理想を実現するには、適切な時期に適切な手順を踏む必要がある。即位後間もない若い皇帝が、下準備もなしに魔族と講和条約を結ぶなど、貴国の従来の思想を考えればあまりに乱暴だ。民や臣下の理解を得られない政策は、いかにそれが正しくあろうと、混乱を招くだけで成功しない」
真摯な青い瞳。
その光に、人が好いだけと評されたこの皇帝も、感じ取るものがあった。
耳を傾けずにいられない、皇帝である彼でさえも忠誠心まで抱いてしまいそうな、この女王の持つ特別な何か。
「私は暴君でな。力で黙らせてきたことも多々あった。しかし、貴殿は世界を滅ぼす力も持たぬ、良くも悪くも善良なだけの人間だ。反乱を一人で抑え込むような力は、当然お持ちでないはずだ」
頷いて、クニシゲはこの女王の次の言葉を待った。
「貴殿は暴君や覇者にはならない性質の君主であろう。ならば如何に良い人材を集め、信頼と忠誠を得るかということが重要だ。そういった面で確固とした地盤が固まるまで、賭けに出るような政策は信用を失墜させるだけの可能性が高い。つまり――」
それは傲慢から来る説教ではなく、クニシゲと分かり合うために発せられていく言葉なのだと、彼は感じ取れた。
「そんな主君に、即位後すぐに魔族に使者を送って会談を申し込めなどと進言する臣下がいたら、その者はその時点で警戒に値する。悪意の有無にかかわらず、頼って良い相手だとは言い難い」
こうして丁寧に説明されると、影響を受けやすいクニシゲとしては、その意見に流される方向に傾いてしまう。
エルフリーデはそれをわかった上で、こうしてクニシゲに真剣に理解を求めることにしたのだ。
この皇帝からミカゲよりも強い信頼を得た上で、ミカゲの監視を頼む。
それが、エルフリーデが現状で打つべき一手と考えた。
「しかし、ミカゲの場合は占術による結果ですので、何の力も持たない臣下からの進言とは状況が異なります」
クニシゲの瞳は揺れている。
困惑して、迷っている。
もう一押しだと、エルフリーデは一歩距離を縮めた。
「これは重要なことだ。貴殿は私を信頼してくださるか?」
「ええ、勿論です」
クニシゲは、その近づいたその距離にどぎまぎしながらも、即答した。
エルフリーデから、信頼に値すると感じられるだけのものを、既に示されていると思っているのだ。
「ミカゲと比べて、どちらのほうが信頼に値すると思っておられる?」
「そ、れは…」
若き皇帝は言い淀む。
ミカゲには、占術結果を的中させた実績がある。
しかし、目の前の女王のこの真摯で高潔な瞳の、なんと澄んでいることか。
ここで、方便とばかりにすぐにエルフリーデだと答えないあたりが、この皇帝の不器用で凡庸な誠実さを表していた。
「ならば今は半分で構わない。貴殿の信頼を半分、私に預けてほしい。私はその信頼に応え、反乱からも戦争からも貴殿と貴国を守ると約束する」
すっとクニシゲの片手を取り、エルフリーデはそれを持ち上げて両手で包み込んだ。
その状態で、真っ直ぐに真摯な眼差しをクニシゲの瞳に向けている。
クニシゲの心臓が跳ねあがる。
妙な期待と共に、しかし彼はきちんと、エルフリーデの真剣な意図を受け取っていた。
「私の願いを聞き入れてくださるのなら。ミカゲを傍に置き、その動向に注意していてほしい。決して言いなりにならず、そして追い出さず」
クニシゲは無意識のまま頷いていた。
この美貌から向けられる有無を言わさぬ空気に、ほとんど洗脳されそうだった。
「重要な選択に迷ったら、どうか私に相談してほしい。必ず力になる。占術などよりも、絶対に」
神の手による完璧な芸術のように美しい女にこんなことを言われ、若い皇帝の全身に熱に浮かされたような甘さが広がっていく。
その全てが麻痺してしまいそうな感覚の中で、しかし確かに彼は理解した。
この女王は、為政者の器なのだということを。
そして、その彼女から信頼を求められているということを。
それに自分は抗えないのだということを。
「貴殿に、これを」
エルフリーデは、その手の中に押し込めて隠すように一粒の青い宝石を握らせた。
「これを私から受け取ったことを、誰にも言わないでほしい」
その手をまだ握ったまま、女王は正面からこの皇帝を見据えている。
「その身に危険が迫った時、どうかこれで私を呼んでほしい。念じれば私に伝わる。海だろうが空だろうが駆け付ける」
魔法がかけられた宝石。
そんなものを渡されて驚きながら、クニシゲはその驚愕に勝る甘い喜びに支配されていた。
秘密の共有。
そして、念じれば伝わるという奇跡の様な繋がり。
その上、彼らの前には共に立ち向かうべき危機があり、それを手を取り合って乗り越えていくというお誂え向きの展開までが準備されている。
彼はもう、単に魅力的な異性だと思うだけの範疇を越えて、この美しく気高い女に恋に落ちていた。
勘違いさせやすい女の特徴を備えた女王様、ちょっと危険ですね。




