49―嵐の後
朝陽が差し込む頃には、その場所では決まって鳥が歌っている。
美しい庭を持つ王宮は、彼らを誘う木々や花に不足したことはない。
寝台の上で目を覚ますのは、その精霊にとって約二千年ぶりだった。
それも、その柔らかく大きな寝具の心地良さは、初めて体験するものだ。
天井の高い広い部屋は、王の寝室なのであろう。
それにしては、華美な装飾などは排されているという印象を受ける。
身体の節々に痛みを感じる。
昨日のことを思い出せば、無理もない。
あの魔物が二度目の光を吐き出していれば、彼女とて無事であったかわからない。
その場で青白い光を全身に纏おうと考えて、やめた。
彼女はその光を使い慣れていない。
膨大な魔力をほとんど使い尽して、回復もままならない今、少しでも無駄遣いすべきではない。
瞳の中を意識する。
そこにいるもう一人に呼びかける。
代われ、と。
白い瞼を閉じ、もう一度開く。
青い瞳が僅かに宿す光のかたちを変える。
奥へ退いた光の意を汲んで、彼女は全身に青白い光を纏った。
すると、痛みは全て消え去った。
「皆が無事か確認する」
独り言のようなそれは、同じ身体の中にいるもう一人へ告げる言葉である。
女王は誰の手も借りずに手早く身支度を整えて、さっさと寝室を出て行った。
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「おいギュンター!起きろよ!朝は一緒に走るって約束だろ!」
彼が深い眠りから突然引き上げられたのは、衝撃が走ったからだ。
微睡んでいる暇もない。
眠っていたギュンターの上に何故か覆いかぶさっているのは、彼が思いを寄せる上司なのである。
掛布団の上からずしりとのしかかる、彼女の重みを感じる。
健康的に日焼けした艶やかな肌が、琥珀色の瞳が、近い。
高く結い上げられた白銀の長髪の一房が、さらりとギュンター目掛けて流れ落ちてくる。
「そ、総帥!?どうしてこんなところに!?」
「お前が日課をすっぽかそうとするからだ!」
「鍵は!?」
「針金で開いた」
「年頃の女性が、男の寝台に勝手に上がり込むものではありません!」
「まーた、そんなこと言って!あたしだから、いいんだよ!」
ニカッと、白い歯を剥き出して彼女は太陽のように笑う。
清らかな百七十歳の貴公子の理性を粉砕しにかかる、誘惑の女神である。
ギュンターは思った。
今日という今日は、この無邪気な小悪魔に知らしめてやらねばなるまい。
男という生き物が、いかに危険で獰猛な獣なのかを。
「っ!?」
ぐいっとミリヤムの身体を寝台の上に引き倒しながら、彼はするりと下から抜け出し、逆に彼女の上に覆いかぶさった。
驚いて目を見開く寝台の上の彼女に、ライトグレーの真剣な眼差しを落とす。
「お前…」
呆けている彼女を見下ろしながら、その唇に熱い視線を送る。
「やるじゃないか!これは、一本取られたわ!」
バンバンと、笑いながら背中を叩かれた。
格闘技の技をかけたつもりではなかったのだが、彼女には通じなかったようである。
手強過ぎる相手を前に、ギュンターは特大の溜め息を吐いて、黙って寝台から下りた。
「さあ、ひとっ走り行こうぜ!」
嬉しそうに言いながら、さっさと起き上がったミリヤムはひょこひょこと部屋の外へ向かう。
そんな彼女の後姿がなんとも愛おしいのだから、文句の一つも引っ込んでしまう。
惚れた弱みというやつである。
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「全員無事。被害は北の無人地区のみと」
半月型の下縁眼鏡の奥で、若葉色の瞳が安堵の色を浮かべた。
アルテンブルク王国宰相、ハイデマリー・ローザリンデ・キルヒナー。
彼女は女王から計画の全容を聞かされていた、数少ない臣下である。
その上、万が一失敗したら、王に成り替わった精霊を暗殺する計画まで託されていた。
「よかったわ、本当に。賞与も給与も心配しなくていいし」
ふうっと息を吐き出した彼女は、薄く紅を引いた唇を柔らかく引き上げて微笑んだ。
「アルベルト。それで、私と結婚しない?」
悪戯っぽい視線の先には、淡い金髪と赤い瞳を持つ理知的な美青年がいる。
「わたくしのような身分の無い者では、釣り合いません。せっかくですが、遠慮させて頂きます」
などと、尤もらしい理由をつけて即座に断る彼は、今日は冷静に冗談として受け止める余裕があった。
「そうよねえ。陛下がご無事なら、私だってあなたを慰める必要もないし」
きょとんと、女王の自慢の従者は、理解が追いつかないという表情を浮かべる。
「もう言ってもいいと思うから言うけれど。当初の予定だとね、あなた今頃、絶望に打ちひしがれて放心状態になってるはずだったのよ」
主君が死ぬつもりだったことは、彼も聞かされたので知っている。
しかし、その後のことを主君は彼女に何か託していたらしいということには、今気がついた。
「陛下ったら酷いのよ。例え陛下の身に最悪の事態が起きても、私なら他人を慰めるくらいの余裕を保っていられると思っていらっしゃるんだから」
ほんの僅かに頬を膨らませ、唇を尖らせて、ハイデマリーは手元の書類に視線を落とす。
その視線は、文字を追うでもなく、ただ下に向けられているだけである。
「私、そんなに薄情じゃないわよ」
ぽとり、と、書類の上に涙が一粒落ちた。
「私だって皆無事って聞いて、大声上げて泣きたいんだから」
ぼろぼろと涙を溢し始めた宰相を前に、完璧なはずの従者はどうしていいかわからず、おろおろと立ち尽くしていた。
「もう、このヘタレ従者!私を慰めなさいよ!私って寂しいんだから!話し相手なんかあなたくらいしかいないんだから!」
ハイデマリーの嗚咽が響くが、アルベルトは困惑するばかりである。
「あの…どうぞ」
苦し紛れに、彼は焼き菓子の包みを差し出した。
すると泣きながら彼女はその袋を開け、むしゃむしゃと食べ始めた。
「美味しいじゃないのよ、馬鹿!」
ヘタレ従者と呼ばれた彼が思い出せたのは、女性にとって甘いものは往々にして薬になるという、ちょっとした知識だけだったのである。
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「まーったく、年寄りに無茶をさせよってからに!」
山奥の小屋で、ローマンはがぶりがぶりと酒を煽る。
「大量生産なら町工場でさせればええと思っておったのに!連中にはできんとは、嘆かわしい!」
鳶色の瞳が、その様子を微笑みながら見守っている。
「友よ。それは、後進の育成を怠った君自身にも責があるのではないかな?」
「わしは別に、弟子を取ることを拒んどるわけじゃないわい。この山まで教えを請いに来る、気概ある弟子を待っとるんじゃ。街はうるさくて汚くて、三日と耐えられん」
そんな偏屈なところを含めて、オットーは彼を友人として信頼しているのである。
自分の心が、目が、耳が、肌が、正しいと思ったことを貫く。
酒という唯一の弱点を除いては、世の中のあらゆる欲に惑わされずに、この老人は彼にとって愛でるべきものを見誤ったことはないのである。
「あの王様には、たっぷり肩揉みをさせんと気が済まん!本当にちゃんと無事で生きとるんじゃろうな?」
そんな言い方をしながらも、この老職人が彼女の身を案じていることが、古い付き合いのオットーにはわかる。
「ああ。ひとつだけ問題を残しているが、皆無事だ」
オットーがそう答えると、深い皺を更に深めて、ローマンは破顔した。
「なんじゃ。死ぬ死ぬと口で言う奴ほど、死なんもんじゃ。このわしのようにな」
満足気に酒をがぶ飲みするローマンの頬が赤く、アルコールに上気していた。
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少年は、起きてすぐに鏡の前に立った。
返り血は無い。
平凡な顔立ちの、どこにでもいそうな顔の自分が、鏡の中でも同じように間の抜けた表情をするだけである。
喉を突き刺して殺したという、おぞましい感触。
それが悪夢のように、彼の手の神経にこびりついている。
彼は元軍人である。
人間同士で戦争をしたこともある。
その時だって、人の身体に刃を立てて、肉を裂いたはずだった。
なのに、いったい何がこんなに違って、彼は今自分のしたことが恐ろしくなるのだろう。
生きることの価値を知ったからか。
誰かの言うことを鵜呑みにせず、考えることを知ったからか。
殺せと命じられて、それが正義だと肯定され、自分自身が使い捨ての殺人機械として何も考えずに生きることが、できなくなったからなのか。
鏡の中の顔が青ざめている。
覚悟が足りなかったのだろうか。
後悔はしていない。
あの男は、彼の最も大切な女性の名を、ぞっとするほどの悪意をもって唱えようとしていた。
あの呪術が発動していれば、彼女はどうなっていたかわからない。
彼女を守るためなら、少年は世界だって滅ぼす。
彼らを守って戦っていた精霊エファも、あの男を始末しろと命じていた。
皆にとっても、あれでよかったのかもしれなかった。
けれど。
震えが止まらない。
喉を突き殺し、存在そのものを滅ぼす炎で焼いた。
取り返しのつかない、贖いのきかない、罪。
その重みを、背負って生きる。
生きる資格がどうとか、そんなことを言って逃げはしない。
逃げはしないけれど。
手が、足が、震える。
わかっている。
主君だって、それを背負っているけれど。
彼は主君を罪人だなどと、本当の意味で心から思ったことはない。
これは、そういう類のものと見なされるのだろう。
だからこそ余計に、罪が自分の中だけに満ちていく。
行き場のない罪が。
師から借り受けた剣を見遣る。
この剣で行った残虐を、師に褒められるのだろう。
そして皆に褒められるのだろう。
主君を守ったと、感謝されるのだろう。
そうして、彼の罪は彼の中に押し込められ、永遠に内側から彼を苛むのだ。
鮮血のような真っ赤な髪、蛇のような眼窩から覗く白い瞳、あの男の悪魔のような笑みを。
それを葬った者の責任として、少年は決して忘れることはないのだ。
敵が人型だと、斃す時に色々と感じてしまいますね。