34―ある秋の日の足跡
翌朝、エルフリーデが目を覚ますと、アルベルトが寝台脇の椅子に腰かけて眠りこけていた。
一晩中傍についていたようだ。
この従者は、また女王の愛人などという噂が立っても、気にも留めないのだろう。
「アルベルト」
主君の呼びかけにも気づかず、彼は夢の中である。
窓から清々しい光が差し込んで、アルベルトの寝顔を照らしている。
エルフリーデは近づいてそっと手を伸ばして、朝陽に輝く淡い金髪を一房指に絡め取って弄んだ。
それでも気づく様子はなく、彼はぐっすりと眠っている。
「お前には苦労をかけるな」
寝台の上で上半身を起こしながら、眠ったままの従者にねぎらいの言葉をかける。
少しの間、安らかなその寝顔を慈しむ様に眺めていた。
そして完全に寝台から下りると、今まで自分が眠っていたその場所へ、アルベルトの身体を魔法で運んでやった。
「きちんと休むがいい。お前が寝不足では私が困る」
優しく掛布団を引き上げて、彼女の寝台の上でアルベルトを休ませてやると、枕元に書置きを残して転移していった。
転移先は、アルテンブルク王国宰相ハイデマリー・ローザリンデ・キルヒナー侯爵令嬢の執務室である。
誰もいないそこで真っ白な紙にすらすらと羽ペンを走らせ、書置きをする。
そしてすぐにまた、転移していった。
今度の転移先は、王都の街中にある、路地裏のとある酒屋の前だ。
開店前ではあるが、店主が店の前で支度をしている。
「店主。営業時間外ですまないのだが、この酒を一本…いや、十本売ってもらえないだろうか?」
凛と気高い声が、朝の静かな路地裏に響く。
「へい、お客さん!構いませんぜ!って…え!?」
振り返ったら壮絶な美貌の貴婦人が立っているので、店主は口をあんぐり開けて動けなくなった。
そしてそれが、噂に聞く女王の風貌と一致すると気づいて、彼の足が震えた。
「このような時間に迷惑であれば、倍の金額を支払ってもいい」
「と、とんでもごぜえません!」
店主は慌てて指し示された酒瓶を十本差し出し、驚きと混乱を御せないままに代金を受け取った。
「ありがとう。助かった」
ふわりと、絶世の美貌が微笑んだのを見て、店主は腰が砕けてしまった。
この世のものとは思えない麗しさの美女は、次の瞬間には跡形もなく消えていた。
彼女の次の転移先は山奥である。
鮮やかに紅葉した木々が茂り、清流が入り乱れる美しい斜面。
そこに建つ、傾いた木の小屋の前に立つ。
コンコンッ――。
「おらんわーい」
「ご隠居。手土産に例のお酒をお持ちしました」
少しだけ扉が開き、ローマンが白い髭を覗かせる。
「十本持ってきたので、手が塞がっております。お手数ですが扉を開けて頂けますか?」
期待通り、勢いよく扉が開け放たれた。
「これじゃこれじゃ、わかっとるわい!」
ローマンはエルフリーデの手から酒瓶を三本もぎ取って、
「これ以上は持てんからお前さんが運んで来るんじゃ」
と、小屋の中へ招き入れた。
相変わらず雑然とした室内に足を踏み入れると、
「こっちじゃ」
と、入口からは死角になっている奥のほうから声がする。
呼ばれた方へ行ってみると、小さめのテーブルの上に、今しがたローマンが置いたばかりであろう三本の酒瓶が並んでいる。
「ここへ置いてくれ」
言われるままに、エルフリーデは残りの酒をそこへ並べた。
テーブルの下には、飲み終わった空の瓶が山のように積み上げられている。
「よろしければ、空瓶は私が持ち帰って処分しておきますが」
「頼む。お前さん、今日はやけに気が利くな?」
皺の深い顔がご機嫌に髭を震わせている。
「ご隠居に相談したいことがございまして。それも、私の臣下にも、誰にも内密に」
「何じゃ?わしの子を産みたいと言われても、それはもう無理な相談じゃぞ?優秀な遺伝子を残したいという女の本能は、よーくわかるがのう」
冗談を言いながら、積み上げられた書物の上に腰かけ、ローマンは話を聞く姿勢を整える。
「実は――」
その頃、アルベルトが目を覚ました。
赤い瞳が最初に見たのは、見慣れない天井である。
そして、彼の主君が漂わせている、なんともいえない甘い匂いに包まれていることに気がつく。
はっとして、彼は辺りを見回した。
ここは主君の寝室で、彼は彼女の寝台に潜り込んで眠っていた。
「なっ!?わたくしはまさか、陛下に何かっ!?」
ばっと掛布団をめくって、自分の身体を確認する。
服装の乱れもなければ、特に違和感もない。
主君も彼も清らかなままであると確信して、アルベルトはほっと胸を撫で下ろした。
そこで、枕元に書置きがあることに気づいた。
恋しい女性の褥で眠った甘い余韻も冷めやらぬまま、彼は宰相であるハイデマリーの執務室へ走った。
トントンッ――と、ノックのお手本のような耳障りの良い音がハイデマリーの耳を打つ。
「キルヒナー宰相、いらっしゃいますか?」
「ええ。アルベルトね。どうぞ」
そのノックと声で、ハイデマリーにはアルベルトだとわかった。
この従者はよく、女王と宰相の橋渡し役となって駆けずり回っている。
「失礼致します」
扉を開けて入ってきたアルベルトは、完璧な所作で礼をする。
「陛下からの書置きに、本日午前中の居場所はキルヒナー宰相にだけ伝えてあると――」
「緊急時以外は尋ねるなって書いてなかったかしら?」
アルベルトが言い終わらないうちに、下縁眼鏡の奥から若葉色の瞳を光らせて、ハイデマリーが窘めるように問う。
「その通りでございます。が――」
「駄目よ。それとも緊急時なの?」
口調を強めて、ハイデマリーが再度厳しく問う。
「いいえ…」
いつも完璧な姿勢のアルベルトが、小さくなっている。
「諦めなさい。王命なんだから、逆らえるわけないでしょ。あなたの敬愛する女王陛下のご意思よ。わかった?」
「はい…」
ハイデマリーのこういう厳格なところを、女王は信頼している。
彼女なら、身内だからと秘密を漏らす心配はない。
「あ、ちょっと待って!」
すごすごと帰って行こうとするアルベルトを、ハイデマリーが呼び止める。
「いかがなさいましたか?」
「アルベルト、あなた、幽霊見たことある?」
ここで初めて、少女の幽霊目撃情報が、女王の耳に入る準備が整うのである。
―――――――――――――――
黒い空間に浮く廃城に、少女の絶叫が木霊する。
「うああああああああ!まだか!まだか!ヴィンフリートぉおおおおお!」
「エファ様、もうすぐです、耐えてください」
赤い髪に白い瞳の男が、窯の中で血の様な色の液体を煮ている。
「痛い、痛い、痛いぃいいいいいいいいいい!」
栗色の巻き毛を振り乱して痛みに悶える少女には、右腕が無い。
布を巻きつけた肩口からは、赤黒く血が滲んでいる。
「あの女ぁああああああああ!許さぬぅうううううううう!」
少女の切れ長の目は、充血して凄まじい形相をしている。
「ヴィンフリートぉおおおおおお!何故、わらわの器を人間の身体にしたぁああああああ!岩にでもしたほうがまだよいわぁああああああああ!」
「エファ様、無理をおっしゃらないでください。核が魂として定着するには、この世界でそれに適したかたちをとる必要があるのです」
男の表情は読めない。しかし、少女はそれどころではない。
「あの女めぇええええええええ!わらわの、わらわの腕をぉおおおおおおおお!」
あまりの痛みに、愛らしい口元から唾液を溢しながら、少女はのたうち回っている。
「いったい何をされたのです?」
赤い液体をかき混ぜながら、男が問いかける。
「捥がれたぁああああああああああああ!」
そう叫ぶ少女の言葉だけでは、具体的にどうやって腕を捥がれたのか、男にはわからなかった。
予定よりも相手の力が強いと聞いた時に、対策を練るべきだった。
いくら精霊エファの力が勝るとはいっても、これから奪おうをしているものをなるべく無傷で残そうとすれば、不利な勝負だったのだ。
男――ヴィンフリートは、この誤算に内心で舌打ちする。
「ヴィンフリートぉおおおおおおお!早くぅううううううう!早くぅうううううううう!!」
絶叫が木霊する。
ヴィンフリートはもう、聞き飽きていた。
「ええ、もうすぐできますから」
新しい腕が完成したところで、接合部の痛みはしばらく消えないだろう。
痛み止めを使ったところで、要するにそれは神経を麻痺させるものなのだから、身体の動きも魔力制御も鈍る。
ただでさえ不利な勝負なら、しばらくは打って出ることを控えたほうがいい。
あとはこの精霊がそれに同意するかどうかだ――そう、ヴィンフリートは考えながら、赤い液体を掻き回す。
「痛いぃいいいいいいい!痛いぃいいいいいいいい!」
しかし、エファも手ぬるいとヴィンフリートは思う。
目的の身体以外は傷つけても構わないのだ。
見せしめに一人殺し、人質を一人取りと、容赦せずに犠牲にしていけば楽に勝てるものを。
だいたい、初めにあの女を誘き出した時に、全ての片を付けてしまえばよかったのだ。
エファのやり方は回りくどい。
あの時だって、女だけを連れてくればいいものを、わざわざ人間を攫って追いかけてくるか試した。
こんなことばかり繰り返して痛手を負っていては、自業自得ではないか。
ヴィンフリートは、エファの非合理的な振る舞いにほとほと呆れ果てている。
「エファ様、そろそろ使えますよ、この痛み止め」
まだ熱いそれを、ヴィンフリートは柄杓に掬い上げる。
「早く、早くぅううううううううううう!」
おぞましい形相のエファが、ヴィンフリートに肉薄する。
「少し冷ましてからにしてください。火傷をします」
「早くぅうううううううう」
痛みに溢れた涙と鼻水と唾液が、目を血走らせて悶える少女の化け物のような形相を汚していた。
エファが出てくるといつも叫んでますね…。
しかもすごい形相をしているという。
せっかくの美少女なのに。
美少女好きの方々、申し訳ありません。




