33―女王の罪
エルフリーデは、意識を手繰り寄せた。
アルベルトに抱えられているということが、その腕の感触でわかった。
霞む視界がだんだんとはっきりしてくる。
まだ会議室の中だ。
そう時間は経っていないのか。
「陛下、気がつかれたのですね!」
アルベルトの声だ。
部屋を見回す。
全員そこにいる。
視界に入って来たトシツネが、蒼白な顔をして立ち尽くしていた。
その視線は、あらぬ方向を向いている。
手には、黒い水晶。数字は貼られていない。
「っ――!」
無理矢理に、エルフリーデはアルベルトの腕の中から這い出した。
「陛下、いきなり動いては危のうございます!まだじっとしていてください!」
忠節の従者の制止の声を振り切って、女王はほとんど転ぶようにトシツネのほうへ這って行く。
「何してるんだよエル!」
その行動の奇妙さに、皆が女王の向かう先へ視線を向ける。
「トシツネ殿…?」
トシツネの身体へよじ登るようにして、エルフリーデはその手から黒色の水晶を取り上げた。
エルリーデの荒い呼吸が響く。
追いついたアルベルトが、女王の身体を支える。
「トシ、ツネ…」
息も絶え絶えに、エルフリーデが呼びかける。
呆然と、トシツネは言葉を発しない。
焦げ茶色の目は虚ろで、わなわなと震えている。
「トシツネ」
必死になって、乱れた呼吸の隙間からエルフリーデがその名を絞り出す。
トシツネは答えられない。
ただ、乱れた荒い呼吸を繰り返す。
目に光はなく、唇まで青い。
「陛下、お気持ちはわかりますが、今はご自身のことを――」
よろよろと自力で立つこともできない女王を、オットーが諫めようとする。
しかしそれも耳に入らないかのように、女王の目にはトシツネしか映っていない。
「トシツネ!」
エルフリーデがその名を叫ぶ。
ようやく、焦げ茶色の瞳がエルフリーデを見た。
「陛…下…?」
焦げ茶色の瞳はまだ虚ろだ。
蒼白なままの肌が、小刻みに震えている。
「しっかりしろ。お前の現実はここだ」
アルベルトの腕に支えられたままで、エルフリーデはトシツネの肩を掴んで目を合わせる。
少しずつ、震えがおさまっていくのがわかった。
「陛下…。申し訳、ございません…」
トシツネは、掠れた声を弱々しく絞り出した。
「勝手に、陛下の…」
「そんなことは、よい。それより――」
顔色の戻らないトシツネを、エルフリーデはぎゅっと強く抱きしめ――ようとしたのだろう。
彼女はそのまま、アルベルトの腕から抜け出して、トシツネのほうへ飛び込むような形で、彼の身体へのしかかった。
その重みでトシツネは後ろ向きに倒れ、エルフリーデはそこへ覆いかぶさるようにして、気を失っていた。
ごろごろと、黒色の水晶が床を転がっていった。
誰もそれを拾おうとしない。
床の上で重なる二人の身体がぴたりと触れ合っている。
体温を分かち合えば心音が伝わり、不思議と同調していくように穏やかに鼓動が重なる。
焦げ茶色の瞳が、徐々にその光を取り戻していく。
背中を打った痛みを、トシツネはぼんやりと感じ始めた。
ギュンターが、黒色の水晶を床から持ち上げた。
触れずに、空間魔法で。
「トシツネ殿はこれを見たのですね。僕が気付いて差し上げるべきでした」
「それ、そんなにきついのか」
ミリヤムの問いに、ギュンターは黙って頷く。
アルベルトは、本来ならすぐに主君を抱き起さねばならないところ、トシツネの様子を見て少し待っていたようだ。
トシツネが落ち着いてきたのを見てとって、そっとエルフリーデの身体を抱き起し、抱え上げた。
「寝室でお休み頂くことにします。よろしいですか?」
アルベルトのその声に、全員が頷いた。
アルベルトの腕に抱えられたまま、気を失った女王が部屋を出て遠ざかっていく。
その様子を、仰向けに転がったままでトシツネは見ていた。
「この場は解散だ。それから警備を強化する。奴がどこにでも出没するとわかったからな」
その場で一番立場が上になったミリヤムが、そう言って部屋を辞す。
オットーは黙ってそれについていく。
「トシツネ殿、ちょっと」
トシツネを助け起こしながら、ギュンターが優しい声色で話しかける。
「どこまで見たのですか?」
なるべく穏やかに、ギュンターが問いかける。
「金色の目が、片方見ていて、叫んだところまで…」
思い出すと恐怖が蘇り、トシツネは震えながら答えた。
ギュンターはゆっくりと頷き、トシツネの両肩をしっかりと掴む。
「大丈夫です。陛下もおっしゃったように、あなたの現実はここです」
そうしてギュンターのほうを見ていると、悪夢の男のダークブロンドの髪や、薄い唇を思い出しそうになった。
しかし、目の前のギュンターはその男とは全く違う。
涼し気な目元から覗く、ライトグレーの優しい瞳。
柔らかく包み込むような声色。
トシツネの中に、安堵が満ちていく。
「はい、すみません。もう大丈夫です」
呼吸を整え、トシツネはギュンターを真っすぐ見返す。
優しく、落ち着かせるように、ギュンターは微笑んで頷く。
「今、辛いと思いますが。少し確認をさせてください」
トシツネは頷いた。
「あなたは、陛下にとって最も辛い過去を見ました。それは同時に、陛下の罪を見たということでもあります」
ギュンターの言いたいことが、トシツネにはすぐにはわからなかった。
「僕の兄上――陛下のお父上は、公には行方不明ということになっています。その意味がわかりますか?」
ゆっくりと、トシツネは頷いた。
彼にもわかる。
それはつまり、親殺しの罪をエルフリーデが隠蔽しているということだ。
「その上で、あなたは陛下に、変わらぬ忠誠を誓いますか?」
それは、問われるまでもないことだった。
トシツネの答えは決まっている。
「はい。陛下にどんな過去があろうとも、わたしは陛下に全てを捧げます」
ギュンターは、少し難しい表情をして頷く。
「それは、信仰ですか?それとも絆ですか?」
トシツネには、答えられなかった。
自分でも、よくわからなかった。
しばらく、トシツネは考え込んで困っていた。
「自分でもわからないのですね」
優しく、ギュンターが確認する。
「はい、すみません」
「いえ、構いませんよ」
男性にしては随分と白くたおやかな手で、ギュンターはそっとトシツネの背中を撫でて落ち着かせた。
「僕は、陛下の臣下です。兄上の治世の頃は、忠誠心など欠片もありませんでしたが、今の陛下にならばどこまでもお仕えしたいと思います」
ギュンターは、少し遠くを見るような目で、穏やかに語る。
「陛下の治世になってから、この国は随分と良くなりました。長い間、兄上が行方不明になってくれたことを、幸運としか思っていませんでした。僕もこの水晶を見るまで、真実を知らなかったのです」
同じ悪夢を見たギュンターが傍にいるということが、トシツネには心強く感じた。
それくらい、あの記憶にトシツネは恐怖していた。
「あなたもそうだと思いますが、僕もあの記憶を、幼気な少女だった陛下の視点から体験しました。兄上のしたことはそれは恐ろしく、あのような最期を迎えたことも自業自得と思えるくらいに、惨い男だとよくわかりました。けれど――」
エルフリーデの視点からあの記憶を自分のことのように見てきたトシツネには、あの男の手から必死で逃れたがる少女の、身体の奥から湧き上がるどうしようもない叫びが、自分のものとして感じられる。
「それでも、罪は罪なのですよ。仕方が無かっただとか、ああしなければどうなっていたかとか、思いたい気持ちは僕も同じです。しかし、そういった全てを、相手を殺すことと秤にかけても正当化できるほど、我々は大きな存在ではありません。陛下自身、それをわかっておいでのはずです」
トシツネにもわかる。感情としてはわかりたくはないとしても。
「あなたの忠誠心が信仰のようなものならば、陛下に全てを委ねてついていけばいいのかもしれません。ですが、あなたのそれが絆なら、同じものを背負う覚悟こそ誠意だと僕は思います」
同じものを背負う。
それは、あの少女のしたことを仕方のないこととして庇うのではなく、罪と認めた上で一緒に背負うことなのだろう。
「僕は、陛下の罪ならば自分の罪として背負います。もしあなたも、自然とそうしてくださるなら――」
そこまで言ってから、ギュンターは少し逡巡する素振りを見せた。
「僕は全面的に応援しますよ。あなたが一生涯、陛下の隣で全てを分かち合う、王婿殿下となることを。そうすれば、僕とも親類ですね」
にこりと、ギュンターは柔和に微笑んだ。
トシツネには、何を言われているのかすぐにはわからず、数舜ぽかんとしてしまった。
「あ、あの…。王婿って、結婚ということですか?」
「おや?そのつもりはなかったのですか?」
耳まで真っ赤に火照らせながら、トシツネは混乱していた。
「え、あ、あの、あの!わたしは人間ですし!身分も、特にありませんし…。む、無理ですよ!」
ギュンターはそんなトシツネを、微笑まし気に見ている。
「そんなことは、あの暴君が何とかしますから、あなたが心配することではありません。大切なのはあなたの覚悟ですよ」
だんだんと、ギュンターの声が愉快気な色を帯びていく。
「覚悟って、それはその、国を半分背負う覚悟ということですか…?」
「ええ。そして、お世継ぎを設けるのも大切なお役目になりますから、その覚悟も」
最早ギュンターは、トシツネの反応を見て楽しんでいるようだ。
「およ、およ、お世継ぎって…!わたしは人間ですよ!?魔法の才能の問題とか、色々…」
若いトシツネとしては、色々と想像してしまうものもあり、大いに取り乱している。
「まあ、そういう問題もあるでしょうけれど。陛下はお美しいので忘れがちですが、そろそろお世継ぎのことを真剣に考えなければならないお歳でおられます。このままでは、望まぬお相手と渋々ながらの政略結婚ということになりかねません。陛下だって信頼関係の無いお相手よりは、きちんと絆のあるお相手のほうがいいでしょう」
トシツネだって、望まぬ相手とやらにあの恋しい女性が好きにされてしまうのは、度し難い。
「健康な子供を授かることを考えると、あなたも若いうちのほうがよろしいかと思いますし」
悪戯っぽい笑いを浮かべながら、ギュンターが畳み掛ける。
「せっかくあなたには、陛下のものになる大義名分があるのです。このチャンスを逃す手はありませんよ。陛下のこと、慕っているのでしょう?」
かぁっと、トシツネの頬に熱が集積していく。
「は、はい…。ですが、陛下のお気持ちが、一番大切では…」
「それについては、こちらで心配することはありませんよ。政略結婚よりもあなたのほうがいいと陛下が思われれば、あなたが選ばれるというだけの話ですから。ね、簡単でしょう?」
「え、あ、その、あの、はいっ!」
全く簡単ではないのだが、トシツネは色々な期待や不安を膨らませるうち、すっかりのぼせ上って思考がまとまらなくなってしまった。
「さて。あなたの顔色もすっかり良くなりましたし。今夜は一人で眠れますか?」
ギュンターが、慈しむ様に微笑んだ。
そこでようやく、ここまでのやり取りが全てギュンターの気遣いだったのだと、トシツネは気づいた。
「はい。ありがとうございます」
「ここの片づけは僕に任せて、あなたはもうお行きなさい。では、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
最後まで柔らかく微笑むギュンターの優しさに、トシツネは心から感謝した。
そして、一連の会話の中でギュンターが発した、“親類”という言葉を思い出し、温かい気持ちになった。
「危のうございます」、という表現。
私が子供の頃は、まだ駅のホームやエスカレータのアナウンスでよく聞いたのですが。
最近は全く耳にしなくなりました。




