24―色仕掛けはおよし下さい
アルベルトには、目の前の状況が現実だとは思えなかった。
有り得ない。
絶対に有り得ない、こんなことは――。
夜も更けた頃に主君に呼ばれて寝室に来てみれば、ネグリジェ姿の彼女に出迎えられ、寝台の上から手招きされた。
その時点でパニックである。
薄い生地を重ねた純白のネグリジェは首元がゆったりと開き、無防備な白いうなじや鎖骨に目を奪われる。
エルフリーデは、従者に着替えを手伝わせるということをしない。
普段はドレスで隠れているふくらはぎや膝もあらわになっており、いつもきちんと正装をした姿を見ている分、それだけで露出が多く感じて戸惑ってしまう。
「どうした、アルベルト。こっちへ来ないか」
呆然と固まるアルベルトを、心なしか艶っぽい響きを含んだ声が誘う。
「へ、陛下…。わたくし、理性が…」
見かねたエルフリーデは立ち上がり、アルベルトのほうへ歩み寄った。
白い脚が踏み出すたびに、アルベルトはその美しい滑らかな線に釘付けになる。
「アルベルト」
甘い声で名を呼びながら、エルフリーデはアルベルトの首の後ろに腕を回してそっと指先を組む。
ぶら下がるような姿勢で上目遣いに見上げる青い瞳が、切なげに潤んでいる。
仄かに甘い香りがする。
「陛下…いけません…お戯れは…」
そう言いながら、アルベルトはエルフリーデを抱きしめようと腕を伸ばした。
言っていることとやっていることがちぐはぐだ。
「待て、アルベルト。…私のことを、どう思う?」
不安げに斜めに視線を逸らした後、その角度からいじらしく青い瞳が見上げる。
ふっくらとした薄紅色の唇が少し開いたままなのが妙になまめかしく見えて、アルベルトはすぐにでも吸いつきたくなるのを必死に堪えた。
「どどどど、どうとは、その…」
余裕を無くして、アルベルトは満足に言葉を紡げない。
このまま勢いをつけて抱きすくめながらその唇を奪いたい衝動ばかりが湧き上がるのを、辛うじて抑えようとする。
「少しくらいは、愛しいと思うか…?」
少し下がった眉尻が心細げで、妙に扇情的で困る。
きめの細かい白い肌が、すぐ目の前で滑らかに艶めいている。
ほんのりと染まった頬が可憐で、守りたいという想いと、滅茶苦茶に蹂躙したいという欲望がせめぎ合う。
胸を破りそうなくらいに鼓動は激しくなり、熱く昂った身体はもう抑え込めないとアルベルトは思った。
「愛しています――!」
ほとんど叫ぶようにそう言うと、がばりとエルフリーデを自分の胸に抱き込んだ――つもりだったのだが。
その腕は空を切った。
「ふむ。今度こそいけそうだな」
少し離れたところから、冷静な声が凛と響く。
「へ…?」
転移して逃げられたようだと気づいて、声のしたほうを振り返った。
「前回は、色仕掛けをしても見事に玉砕した。やり方が雑だったのかと省みたのだ。その後、西の森に住む女性にヒントを得て、マシなやり方を考えた」
冷めた口調で説明が続く。
アルベルトは、やり場のない熱を持て余して、もどかしくその場に立っていることしか出来ない。
「あまり失敗を繰り返しては、あちらにも耐性ができてしまう。だから、先にお前で試そうと思ったのだ」
「そ、そんなご無体な…」
アルベルトは、今度ばかりは主君が恨めしく感じた。
おかげで少しいい思いができたと言えなくもないが、明らかに生殺しである。
「お前にしたようにすれば、今度こそあれも私の手に落ちよう」
「いけません、陛下!そんなことをなさっていては、陛下の貞操がいくつあっても足りません!愛と劣情は違うのですよ!」
「だが、お前も愛しているなどと口にしていたではないか?」
「そ、それは…!」
もともと愛していたのだなどと、言えるはずもなく言葉に詰まる。
「そろそろ少しくらい振り向かせておかないと、間に合わないと思わないか」
主君の勘違いを正すことは、今はまだできない。
「恋に落ちる時は一瞬だと言います。直前まではどうぞ、様子見をなさいませ…!」
そう伝えるのが、精一杯だ。
「確かにな。今すぐエファと対峙しても勝算は低い」
なんとか思い止まってくれそうだと、アルベルトはほっと胸をなで下ろす。
「それから、陛下。試すなどという目的のために、男心を悪戯に弄ぶようなことはお控えくださいませ。わたくし、理性が吹き飛びそうでしたよ」
吹き飛びそうどころか、最終的に吹き飛んでいたのだが、あんなことをされては仕方がないだろう。
よく耐えた方ではないかとすら思う。
「転移してしまえば私を捕えられる者はいない。大丈夫だ」
「そういう問題ではありません!」
「なんだ、まさか本気で惚れたか?」
言葉も出ず、アルベルトは赤面した。少しの間、沈黙が流れる。
「アルベルト…?」
主君のためなら。
どんなことでもできると思ってきた。
それが主君のためなら。
尽くすことが幸せだと。
叶わぬ恋でよかった。
主君の幸せのためなら、自分などいくらでも肥やしになろう。
少しでも役に立つために、全てを捧げよう。
そう、思っていたはずなのに。
「お前、泣いているのか?」
「…そんな、はずは」
涙が。
気づかないうちに涙が溢れていた。
一度それを認識してしまっては、もう止まらなかった。
嫌だ。
見られたくない。
こんな姿、主君にだけは。
アルベルトは振り返って走り去った。
「あ、おい!」
追いかけようとして、エルフリーデは思い止まる。
今は、そっとしておくべきなのだろう。
自分が行ってもきっと慰めることはできない。
いつでも忠節な従者をあんなに泣かせたのは、自分なのだろうということくらいは、わかるのだから。
傷つけた。
きっとアルベルトの中の大切な何かをどうしようもなく傷つけてしまった。
そしてその心中を、今も理解してやれていない。
駄目な主君だと情けなくなる。
明日になったら謝ろう。
きちんと話をして、少しでもわかってやりたい。
ずっと支えていてくれた、大切な、とても大切な臣下だから。
そう考えながら、エルフリーデは眠りについた。
―――――――――――――――
翌朝、目の腫れたアルベルトがいつものようにエルフリーデの寝室に紅茶を持ってきた。
「おはようございます。ダージリンティーをお持ちしました」
その声も、従者のお手本のような立ち振る舞いも、いつも通りだ。
泣き腫らしたであろう瞼だけが、分厚く腫れぼったい。
目を合わせずに、完璧な所作で彼は紅茶を注ぐ。
「アルベルト」
「はい、陛下」
エルフリーデはしばし逡巡した。
この従者は、何事もなかったようにやり過ごすことを望んでいるのだろうか。
しかし、エルフリーデとしては、謝罪くらいしないでは気が済まない。
「すまなかった。私は臣下の心情を推し量ることもできず、辛い想いをさせた」
青い瞳が真剣な眼差しを向ける。
「おやめください。王が臣下に謝罪など」
「それでも」
声を強めて、エルフリーデはアルベルトにうったえる。
「お前は私の大切な臣下だ。だというのに、傷付けて泣かせてしまった」
「謝罪すべきはわたくしのほうです。お見苦しいところを――」
「謝るな。お前は悪くない」
アルベルトは、腫れたままの目をそっと主君に合わせた。
美しい青い瞳が、まっすぐにアルベルトの赤い瞳を捉えている。
「お前はいつでも、よく仕えてくれている。私のために全てを整え、傍に寄り添っていてくれる」
「それは、従者として当たり前のことです」
「私が過ちそうになれば窘めてくれて、気落ちしていたら励ましてくれる。どんな時も私を一番に考えて、必要なものを差し伸べてくれる」
「それがわたくしの仕事ですから」
「お前がいるから、安心して無茶ができる。お前がいるから、誰に何と言われようと強くあれる。お前がいてくれるから、どこへ行っても、お前のところへ帰ってくれば良いと思える」
アルベルトは、何も言えなくなった。
こんな言葉をもらえることが、臣下としてどれだけ栄誉なことか。
「私は、お前が大切だ。だというのに、試す目的などに利用して、本当に悪かったと思っている。これからは、もっとお前を大切にする。だから――」
その言葉を聞いて、ようやくアルベルトは自分が泣いた理由がわかった。
そして、ああよかった、と思う。
「だから、これからも私の傍にいてくれるか?」
辛かったのは、悲しかったのは、想いが届かないからではない。
自分はただ、臣下として大切にされたかっただけなのだ。
だから、この先もこの主君に仕えていける。
もう、大丈夫だ。
「勿論です、陛下。誠心誠意、お仕え致します」
腫れた瞼の奥から、微笑みを向けた。
青い瞳が、安堵の色を浮かべる。
「ですからどうか、わたくしの願いを聞いてくださいませ」
「どんな願いだ?」
「もう、色仕掛けはおよし下さい。彼にも、わたくしにも、他の者にも」
きょとん、と一瞬、主君は不思議そうに首を傾けた。
「ご自分のお身体を餌に男性を惑わすなど、陛下ご自身の女性としての尊厳を傷つけることに繋がる行為です。誇り高き王のやっていいことではございません」
きっぱりと言い放つアルベルトに、エルフリーデは素直に頷いた。
「ああ、そうだな。お前の言う通りだ。私にはやはり、お前が必要だ」
大切な人に必要とされている。
それはどれだけ幸福なことだろう。
アルベルトは心の底からの笑みを浮かべて、
「当然です。わたくしが一番、陛下のことをよく見ているのですから」
などと、少し自惚れて胸を張る。
彼にとって、敬愛も、恋慕の情も、差し出すことはできても分かち合うことはできない。
けれど、絆は確かに、同じ想いで彼と彼女を結んでいる。
そう、信じられた。
女王様ご乱心気味ですね…。
平日は7時と19時に投稿していく予定です。




