20―先生に怒られる
その少年に与えられた職務であるはずの側仕えとは名ばかりで、女王の傍らにいることを建前上で納得させるための言い訳にすぎない。
そもそもこの女王には、既に完璧な従者がいて何もかもをこなしてしまう。
エルフリーデは、その日の午後もひとり、淡々と執務室で仕事をこなしていた。
淡い金髪の従者は時折、紅茶の世話をしに来るが、基本的に彼女の仕事の邪魔にならぬよう、最低限にとどめている。
その執務室の隣を、従者は控室兼事務室として与えられている。
そこで、女王の側仕えであるはずの少年が、机に向かって勉強をしていた。
「文法は正しいですが、発音が曖昧ですね。口をもう少し大きく開けて、顎の動きを明確にして御覧なさい」
「はい、先生」
先生と呼ばれたアルベルトは、本来の仕事に支障をきたさないギリギリまで、トシツネの教育のために時間を当てていた。
彼らはこうして、教師と生徒となって過ごすことが日常化しつつある。
アルベルトは、こんな平凡な人間の少年に、初めから喜んで教育を施してやっているわけではなかった。
しかし、敬愛する主君のため、彼を完璧な紳士に育て上げると決め、今ではやりがいを感じてさえいる。
恋い慕うあの女性にせめて恋敵が相応しくあらねば、彼の報われない想いが慰められない。
傍から見ればなんとも憐れな愛のかたちなのだが、本人はそれほど自分を不幸とも思っていなかった。
彼は恋する一人の男であるより先に、女王の誇り高き臣下なのだ。
「よろしい。意外と吸収が早いと褒めておきましょう。鞭打ちを免れましたね」
「ありがとうございます」
「少し休憩に致しましょう」
アルベルトは、まずは女王の紅茶の世話をと部屋を出ていき、二人分の紅茶と菓子を用意して戻って来た。
「すみません。先生にお茶のご用意までして頂いて」
「今はいいのですよ。そのうち代わってもらいますから」
お茶の淹れ方や配膳の作法もそのうち教育される、ということらしい。
「それより。少し男同士で話をしましょうか」
赤い瞳が、何やら不穏に光る。
「あなた。陛下のどこが気に入らないのです?」
「えっ」
少年の焦げ茶色の瞳がたじろぐ。
「今朝、陛下がご立腹でしたよ。あなたに色仕掛けが通じない、と」
トシツネはぎくりとする。
「陛下のことは心から尊敬しております。気に入らないなんてとんでもありません」
大真面目に答えた少年に、そうだろうとでも言いたげにアルベルトは何度も頷いた。
そして、
「尊敬だけですか?」
はぐらかそうものなら許さない、とでも言うように、アルベルトはじっと視線を逸らさない。
「敬愛しております」
「敬愛?」
「その…お慕いしております」
「ふむ」
少年の心臓がバクバクと騒いでいる。
先生に怒られる、と子供のようなことを考えた。
「つまりそれは、恋ですか?」
瞬間、少年の顔が真っ赤に火照った。
「あの、分不相応な感情だという自覚はあるのですが、その…」
アルベルトは相変わらず視線を逸らさない。
逃げ場は無いようである。
「…はい」
諦めて認めた。
赤い瞳が少年を見つめ続けている。
居心地が悪い。怒るならば早く怒ってほしい。
「わたしにそんな感情を抱く権利などないことは、わかっています!ですが、隠し通しますから…」
「ほお、なるほど」
アルベルトは、何か納得したように頷いている。
怒るつもりはないらしい。
「もう少し、こちらの準備が整うまでは、そのままでいいのかもしれませんね。ですが、時期を間違えないようになさい」
どういうことかと、問いかけるような視線をトシツネはアルベルトに向ける。
「エファの言ったことを覚えていますね?」
「はい、勿論です」
「こちらに打って出る準備ができた段階が、あなたが告白する最良のタイミングです。ムードや感情の高ぶりに任せて、時期を誤ってはいけませんよ?」
神妙な顔で、トシツネは頷く。
彼が彼女のものになったとき、エファが迎えに来る。
少年の恋は、もっと深刻な問題の鍵なのであり、浮ついた気持ちで楽しめるようなものでは、最早なくなっているのだ。
「主君をたばかるのは、わたくしとて心が痛みます。ですが当分は、あなたがまだ陛下に惚れていないということにしておきます。他の皆様にも口裏を合わせて頂けるよう、わたくしからお伝えしておきます」
主君のためならば、主君をたばかる覚悟をも忠節の従者は決める。
トシツネにもそれが理解できた。
「幸いと言っていいものか、陛下はあなたに好かれているなどとは思っておられません。そればかりか、他に想う女性がいるのではと疑っておられるほどです」
グサリと、胸の奥の柔らかいところに何かが刺さるような痛みがあった。
しかし、そんなことは背負わねばならぬ責任に比べれば小さなものだ。
「そのため、あなたを一生懸命口説いていらっしゃるようですが。例えあの美貌で色仕掛けをされようと、真に忠義を全うしたいならば、想いを隠し通すのですよ。まあ男ですから、隠し通せぬこともあるでしょうが…心は奪われていない振りをなさい」
アルベルトが、真剣ながらも羨まし気な視線を投げる。
「はい」
はらはらするような気持で、トシツネは返事をした。
主君の前で普段どれだけ浮かれてしまっているか、見透かされている気がする。
そしてやはり、内心では少しこの先生は怒っているのかもしれない、と思った。
「さあ、そろそろ休憩は終わりにして」
紅茶にも菓子にもほとんど手をつけていない。
少しも休憩にはならなかったのだが。
「このページの最後までいったら、剣の稽古にしましょう。元軍人でもあるあなたには期待していますよ」
「はい、先生」
初恋の人と両想いだと言えば、それはどんなにロマンチックな響きだろう。
けれどその相手を含めた臣下たちから、時期が来るまで片想いだと思い込まされ続けることになる憐れな女王が、この世界にはいるようである。
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数刻後。
剣の音が鳴り響く。
何度も、何度も。
そこは王宮の一角。
よく手入れされた花壇や噴水に華やかに彩られた、平和な中庭である。
「まだ遠慮していますね。本気で来なさい」
淡い金髪を陽の光に輝かせながら、赤い瞳の男が余裕あり気に笑う。
その身のこなしには、一切の無駄がない。
「はい、先生!」
焦げ茶色の髪と瞳を持つ少年が、答えて剣の勢いを増す。
額に流れる汗の粒が、程よく日に焼けた肌の上で光った。
銀の閃きを躱して沈む淡い金色。
その足元へ向かう一閃から革の靴が飛び退る。
上段への追撃に打ち合わされる剣戟。
キーン――と、音を立てて少年の手から剣が弾き飛ばされた。
「そこそこ腕は立つようですが、それだけですね」
「ありがとう、ございました」
乱れた淡い金髪を払い除けて整えた男は、少しも息を切らしていない。
対して、少年は荒い息に肩を上下させている。
「才能は中の上、軍で磨かれていた腕が鈍って今の実力は中の中といったところでしょうか。見た目通りというか」
平凡な容姿を指して言われたように感じ、少年は少し劣等感に胸を痛める。
「けれどあなたには、褒めるべき点があります」
赤い瞳が微笑む。
「そうそう見かけないくらいには、度胸がありますね。そして、戦いながら冷静さを保つことにも長けている」
少年は徐々に呼吸を整えながら、褒められたことに驚いた。
全く歯が立たなかったと思ったのに。
「少しくらい腕が立つ程度では、魔族や精霊を前にしてはただの無力な人間。しかし、今やあなたは我が国の命運を共に背負う重要な立場にありますから、それでは困ります」
少年は頷く。
自分が無力であることはよくわかっているし、そのまま無力でいていいとは思っていない。
しかし、一体どうすればいいのだろうか。
「わたくしの力を、貸し与えましょう。あなたの度胸と冷静さを見るに、なかなか相性が良いはずです」
そう言って、赤い瞳の男――アルベルトは、赤い小さな水晶を嵌め込まれた剣の柄に手を触れて、しばし念じるようにして、赤い光を放つ魔力を注ぎ込んだ。
「この剣にわたくしの魔力を込めました。あなたに貸しておきましょう」
「ありがとうございます」
恭しく頭を下げて、少年――トシツネはそれを大切そうに受け取った。
「わたくしの魔法は少々厄介な炎でして、これは扱いの難しいものです。一度燃え始めれば、そのものを燃やし尽くすまで消えることのない呪わしい炎なのですよ。みだりに使えば世界を滅ぼすことにもなりかねない、忌まわしい魔法です」
ごくりと唾を呑み込んで、トシツネは受け取ったばかりの剣を見る。
「ただし、実体を持つ物のみに使えます。そして、この炎は燃え移ることはありません」
神妙に、トシツネは頷く。
「その剣からこの力を発動することができるのは、一度だけ。柄に手を当てて念じれば刀身に炎が宿るでしょう。使うべき時はあなた自身が判断なさい。陛下の信頼を賜るあなたを、わたくしも信頼してこれを貸し与えます。いいですね?」
覚悟を問われている。トシツネはそう感じて、真っすぐにアルベルトを見上げた。
「はい、先生。必ず、その信頼にお応えしてみせます」
「良い返事です」
若いな、とアルベルトは思う。
若さ故に、この先どんなことでも成し遂げられる、無限の可能性を信じている。
焦げ茶色の瞳には、そんな未熟で傲慢な、けれど美しい光が宿っていた。
今なら少しだけ、主君がこの少年を気に入った気持ちが理解できる気がする。
「さて。ではそろそろ、あなたにはこの国の礼儀作法を叩き込むことに致しましょうか」
「はい、先生。よろしくお願いします」
次々に何でもかんでも叩き込む師に、この弟子は音を上げることなくついて行く。
そういう根性のあるところを、この師は認めている。
トシツネの存在が気に入らないなどとは、アルベルトはもう思わない。
主君から与えられた大切な水晶を託していいと思うくらいには、実は気に入ってさえいるのだった。




