13―精霊の狂気
光る苔の淡い光が、洞窟内を照らし出す。王族の血を引く者がそこを歩けば、自然と正しい道へ導かれる。
少女のかたちをした石の前。そこにエルフリーデは立ち、その依り代へ手を伸ばす。
封印は、補強を必要としない程度の強度を保っていた。
そして彼女の背後で、ピシリと空間が裂けて、闇が口を開く。
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「おっかしいぃいいいい!人間なんかが大事なんてぇええええ!」
腰まで伸びた栗色の巻き毛を振り乱して、人形のような愛らしい少女が叫び狂っている。博物館で見るような古い様式のドレスを纏い、興奮に靴を踏み鳴らして踊るように足踏みした。
「人間なんか人間なんか人間なんかを好きになってあの女、ばあああああああか!」
動きを止めて天を仰ぎ、両手を上に突き出して少女が叫ぶ。
上向きに反った長い栗色の睫毛がかわいらしく、ぱっちりとした切れ長の大きな目は青い瞳が印象的だ。瑞々しい肌は、大人になりきらないふっくらとした輪郭に縁どられながら、華奢な体格を健康的に見せている。
黙っていれば可憐なこの美少女は、しかし言動が狂人そのものだ。
「人間なんか人間なんか人間なんか!」
ふと憎々しげに下を向いた少女は、足元に転がっていた少年を踏みつける。
微かな唸りと共に、焦げ茶色の睫毛が震えてその目が開いた。
黒い空間にどこかの廃城が浮いていた。古い様式の建築なのだが、半壊した壁や柱の歪な面は新しく、最近壊されたように見えた。
「人間!なんか!こうして!こうして!こうしてやる!」
何度も何度も、少女は忌々しそうに少年の腹を踏みつけた。少年は痛みに耐えて奥歯を噛み締める。
少女の言っていることは、断片的にしか少年にはわからない。これは精霊言語なのだと理解した。
しかし不思議なことに、少女の足が少年を踏みつける度、言語によらずその意思が伝わってくる。
少女の足による攻撃が止まると、ゼエゼエと少年は堪えていた呼吸を再開した。
栗色の巻き毛の間から、青い瞳がじっとりと少年を見下ろす。その青が、憧れる女性と全く同じ色に見えて、少年は驚きに目を見開いた。
「なあにこれなあにこれ、地味地味地味ぃいいいいいい!」
たっぷりと嫌味ったらしくそう言い終わると、軽やかなステップで少年から離れ、キャハハハと声を上げてくるくる回りながら、少女は笑い踊った。
そして突然、笑い声と動きをピタリと止めて、
「来た」
低い声で呟いた。
突如、ぶわっと下から風が吹いてでもいるように、少女の栗色の巻き毛が逆さに靡く。
「にいいい、があああ、さあああ、なあああ、いいいいいい!」
呪文のようにそう叫びながら、少女は両腕を広げて遠くを見る。ここにない何かに向かって、力を振るっているような姿に見えた。
黒い空間で、ピシリ、ピシリと亀裂が走る。それらは口を開いて、どこか別の空間の風景を覗かせる。
幾度も亀裂が現れては消える中で、少年は感覚を研ぎ澄ませる。
感じる。初めてあの女性を目にした時に感じ取った、魔性のものの気配。亀裂の向こうに、恋しい女性がいる。
ピシリ、ピシリと幾度目かの亀裂が響き続ける。少年は立ち上がり、狙いをすました。あの亀裂に飛び込めば、あの女性のところへ戻れると確信したのだ。
耳を澄まし、目を凝らす。亀裂がそこにあるのは一瞬だ。次に裂ける場所を予測できなければいけない。法則性は無いが、癖はあるはずだ。
ピシリ、ピシリ――そこだ。
彼は跳躍した。
しかし、
「なあああああにを、しているうううううう!」
血走った目の少女が浮遊し、両腕を広げた姿勢を崩さずものすごい速度で視界に迫って来る。
そのまま、少女の足で胸から蹴り倒された。
倒れる前の一瞬、飛び込み損ねた亀裂を通して、麗しい青い瞳と目が合った。
「なぁあああああ、にぃいいいいい、をぉおおおおお、おお」
充血した目を見開いた恐ろしい形相の少女が、少年に馬乗りになっていた。亀裂の出現は止んでいる。
今少年を見下ろす瞳は、やはり先程亀裂の向こうに見た瞳と同じ色をしている。同じ色なのに、与える印象は全く違う。
両腕に拳を作って、少女は振り上げる。そして、少年の顔を両側から何度も交互に殴りつけた。
「あの、女が、そんなに、そんなに、そんなに、恋しいかああああ!」
馬乗りになっている少女の身体は、ドレスの分なのか見た目より重く、跳ね除けることは難しい。
両腕の力はそれほど強くないとはいえ、繰り返し打撃を与えられて頬に痛みが蓄積していくようだ。
拳が打ち込まれる度、また少女の意思が流れ込んでくる。触れると意思が伝わるということなのか。
「人間の、人間の、人間の、くせにぃいいいいい!」
歯を食いしばりながら、徐々に腫れ上がっていく頬が熱を持っていくのを感じた。
答えてやりたかった。何がそんなに気に入らないのか知らないが、彼はあの女性が恋しいと。
そう心に思ったことが少女に伝わったのか、ますます目を血走らせた憤怒の形相で、少女は少年の顔を滅茶苦茶に押さえつけた。
「たかが数十年の命でぇえええええ!愛などとぉおおおおお!どうせどうせどうせどうせ、すぐに裏切るくせにぃいいいいい!」
息ができない。少年の意識が遠のいていく。
怒り狂っている少女の存在を、ただぼんやりと認識しながら、彼の意識は沈んでいった。
はっとして少女は手を放す。
「死んだ?死んだの?死んじゃった?」
先程までの様子が嘘のように無邪気に、ぱっちりと愛らしい目で瞬きながら、少女は少年を覗き込む。
「なあんだ、生きてる」
つまらなさそうに、少女は少年から降りて背を向ける。そして、再度両腕を開いて、栗色の巻き毛を逆さに靡かせた。
「どぉおおおおこだぁああああああああっ!」
ピシリ、ピシリ、ピシリ。
黒い空間に亀裂が走り、洞窟の中の景色が覗く。
「みぃいいいつけたぁああああ!」
狂喜に満ちたその声と同時に、廃城の床に絶世の美女が降り立った。
自ら亀裂に飛び込んだ彼女は、優雅な仕草で黒いドレスの裾を払い、少女の存在など見えないかのように、まっすぐ少年の元へ向かおうとする。
「無礼者ぉおおおおおおおお!」
少女が叫び、突進する。
「精霊エファ」
ぴたり、と。少女の動きが止まる。ちょうど、少年と女の間に割り込むような位置だ。
「わらわの名を、気安く呼ぶな」
人が変わったような低く冷えた声で、少女が言う。
「お前の身体は外にある。ならばその身体は何だ?」
クスクスと、少女は笑う。
目まぐるしく変化する表情は、面を取り換えるかのように一瞬で別物になっていく。
「これは贋作よ。もとより、紛い物の身体であるがな」
愉快そうに笑いながら、少女はつま先を支点にくるりと一回転する。
ひらひらとドレスの裾が舞って、花が綻ぶようだ。
「誰が造った?」
その問いに、少女の顔から表情が消える。
「お前が知る必要はない」
諦めたように、エルフリーデは視線を別の方向へ向ける。そこには、少年が横たわっている。
「それは私が強奪している最中のものだ。返して頂く」
興味深げに、少女は笑う。
「ではまだ、これはお前のものではない、と?」
「そういうことだ」
フンッと、あどけなさを残したその容姿に似つかわしくない仕草で、少女は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「機が熟したら、お前を迎えに行く」
可憐なかんばせに冷酷な微笑を浮かべて、エファはエルフリーデを振り返った。
次の瞬間、エルフリーデと少年は、黒い空間の外へ放り出されていた。