第2話
大島の死体から立ち上る煙が、天井の換気扇に吸い込まれていく。
誰一人として席を立つ者はいなかった。数分前まで普通の教室だった場所は、すでに二つの死体が転がる屠殺場に変わっている。
教壇の上に座るリリスは、足元の惨状など気にも留めず、どこから取り出したのか白磁のティーカップを手に取っていた。隣に置かれた銀のポットから、湯気の立つ紅茶が注がれる。血と焦げた肉の臭いに混じって、ベルガモットの甘い香りが教室に漂った。
「さて、お行儀よく静かになったところで、説明を始めましょうか」
リリスは紅茶を一口すすり、満足そうに目を細めた。
「これよりみなさんには、特別カリキュラム『箱庭の淘汰』に参加していただきます。ルールはとってもシンプル。この学園の中で生き残り、最後まで『カルマ ポイント』を維持することです」
彼女が日傘の柄で教壇をコツンと叩いた。
その瞬間、俺たちの机の上に置かれていたスマホや、ポケットの中の端末が一斉に短い振動音を立てた。
俺は隣で震えている佐藤の様子を窺いながら、ゆっくりと自分のスマホを取り出した。圏外だったはずの画面が勝手に切り替わり、黒い背景に白い文字が浮かび上がっている。
『天城司 保有カルマ ポイント(KP):100』
「みなさんに初期費用として、百ポイントずつ差し上げました」
リリスがティーカップをソーサーに置き、指を二本立てた。
「この箱庭では、水も、食料も、寮の個室の鍵も、すべてこのポイントで購入していただきます。そして大事なことが二つ。一つ目、定期的に開催される『メインゲーム』には全員必ず参加すること。二つ目、理由を問わず、手持ちのポイントがゼロになった生徒は……」
リリスは言葉をを切り、床に転がる佐伯と大島を日傘の先で順番に指差した。
「あちらのお二人のように、その場で退学処分となります」
教室のあちこちから、押し殺した悲鳴が漏れた。
「なんでこんなことをするの!? 私たちをここから出してよ!」
叫んだのは、委員長の神崎だった。彼女は震える膝を必死に抑えて立ち上がり、教壇のリリスを睨みつけていた。恐怖で顔は真っ白だったが、それでもクラスを代表して声を上げたのは立派と言うべきだろう。あるいは、ただの無謀か。
「お答えする義務はありませんが、そうですね……強いて言うなら、あなたたちの中から『本物』を選び出すため、でしょうか」
リリスは楽しそうに笑うと、ふいに視線を動かした。
赤と青のオッドアイが、再び窓際の俺を捉える。
「ねえ、そこの窓際の後ろから二番目の席の彼。お名前は……ええと、天城司くん、でしたっけ?」
心臓が跳ねることはなかったが、俺は内心で小さく舌打ちした。
全校生徒の視線が一斉に俺に集まる。神崎も、鬼塚も、そしてクラスの隅で冷静に眼鏡の位置を直していた生徒会副会長の氷室鏡介も、全員が俺を見た。
「ひ、ひいっ……な、なんでしょうか……」
俺は声を裏返らせ、机の端を強く握りしめて背中を丸めた。誰がどう見ても、突然名指しされてパニックに陥った気弱な生徒そのものだ。
リリスは俺のその演技を見て、面白そうに口元を綻ばせた。抱えているピンクの兎の耳を引っ張りながら、わざとらしいほど優しい声で問いかけてくる。
「簡単な算数の問題です、天城くん。百ポイント持っている人が、百ポイント失ったら、残りはいくつになりますか?」
「え……ぜ、ゼロ、です……」
「正解です。では、ゼロになった人はどうなるんでしたっけ?」
「し、死にます……」
「よくできました。ほら、神崎さん、彼でも理解できるくらい簡単なルールでしょう?」
リリスがクスクスと笑う。神崎は唇を噛みしめて悔しそうに俯き、周囲の生徒たちは「なんだ、ただの見せしめか」と安堵したように俺から視線を外した。氷室にいたっては、俺を一瞥して「取るに足らない雑魚か」とでも言いたげに鼻を鳴らした。
それでいい。
俺は俯いたまま、前髪の隙間からリリスだけを見た。リリスは紅茶のカップを傾けながら、誰にも見えない角度で俺に向かって舌をぺろりと出してみせた。
性格の悪い女だ。俺がわざと目立たないように立ち回っているのを完全に理解した上で、こうしてちょっかいを出して反応を楽しんでいる。
「それでは、さっそくですが」
リリスが紅茶を飲み干し、教壇の上で立ち上がった。黒い日傘がふわりと揺れる。
「この教室から出るための、最初のチュートリアル ゲームを始めましょう。題して――『無記名 追放投票』です」
スマホの画面が再び振動し、新しいウィンドウがポップアップした。
『第0ゲーム:無記名・追放投票』
『制限時間:120分』
『ルール:現在生存している35名の生徒で投票を行う。各自、自分の端末から1名を選んで投票せよ(自分自身への投票も可能)。制限時間終了時、最も多くの票を集めた1名を退学処分とし、残りの34名は教室からの退出を許可する』
画面の文字を読んだ生徒たちの顔から、さらに血の気が引いていった。
「ちょっと待ってよ!」
神崎が悲鳴のような声を上げた。
「そんなの、私たちに仲間を一人選んで殺せっていうことじゃない!」
「ええ、そうですよ。日本語は読めるようですね」
リリスはあっけらかんと言い放ち、破れた兎のぬいぐるみを片手で持ち上げた。
「ただし、私はとても慈悲深いので、みなさん全員が誰一人欠けずに生き残る『抜け道』を一つだけ用意してあげました」
その言葉に、教室中の生徒が顔を上げた。
「投票は一人一票。そして、自分自身に投票することも可能です。つまり……三十五人全員が、それぞれ『自分自身』に一票ずつ入れた場合、全員が『一票』で並びますよね? その場合のみ、今回のゲームは『該当者なし』として、全員無傷でクリアといたします」
教室の中に、ざわめきが広がった。
「ぜ、全員が自分に入れれば、誰も死なないのか……!」
隣の佐藤が、すがるような声で言った。
「そうだ! みんな、聞いたか!?」
立ち上がったのは、サッカー部エースの鳳颯太だった。彼は教室の中央に進み出ると、力強い声で周囲に呼びかけた。
「誰かを犠牲にする必要なんてない! 俺たち全員が、自分の名前を書いて投票すればいいんだ! そうすれば、誰一人死なずにここから出られる!」
「そ、そうよ! 鳳くんの言う通りだわ!」
神崎もすぐに同調した。クラスの二大リーダーが声を上げたことで、絶望に染まっていた教室の空気が一気に希望へと傾いていく。「そうだ、自分に入れよう」「俺たちならできる」と、生徒たちが次々に頷き始めた。
俺は机の下でスマホを握りしめたまま、冷めた目でその光景を眺めていた。
全員が自分に一票を入れて、全員が一票で並ぶ。確かに、ルール上はそれで全員が助かる。
だが、それは『全員が100%ルールを守る』という前提が成り立つ場合だけだ。
投票は「無記名」で行われる。誰が誰に入れたかは、開票されてもわからない。
もし、三十四人が真面目に「自分自身(1票)」に入れ、たった一人だけが裏切って「他人のA(1票)」に入れたらどうなるか?
裏切った人間は「0票」になり、絶対に処刑されない安全圏に入る。そして、裏切り者に票を入れられた哀れなAは、自分で自分に入れた1票と合わせて「2票」になり、単独トップで処刑されるのだ。
ゲーム理論における典型的な『囚人のジレンマ』。いや、それ以上にタチが悪い。
なぜなら、他人を一人でも処刑に追い込めば、自分が死ぬ確率はゼロになるからだ。
俺はちらりと教室の隅を見た。眼鏡をかけた氷室が、バカを見るような目で騒ぐ神崎たちを見つめている。彼も当然、このルールの欠陥に気づいている。そして後ろの席では、鬼塚が生き残った二人の取り巻きと顔を突き合わせ、低い声で何かを囁き合っていた。
教壇の上で、リリスが日傘の陰からクスクスと笑っている。
「制限時間は二時間です。仲良く話し合って、素敵な結論を出してくださいね」
全員生還など、最初からあり得ない。
二時間後、この教室で確実に三人目の死体が出る。俺がやるべきことは一つだけ……その死体が「俺」にならないよう、今のうちに盤面に細工をしておくことだ。




