第1話
五月の第三水曜日、午後二時。
現代文教師の佐伯が教壇に立ち、抑揚のない声で教科書の俳句を読み上げていた。教室には午後の気だるい空気が淀んでいて、前の席では男子が数人、机に突っ伏して眠っている。
俺――天城司は、窓際の下から二番目の席で頬杖をつき、黒板の右上にある時計を眺めていた。チャイムまであと二十五分。授業が終わったら、夕食まで寮の部屋で眠る。それが今日残された俺の予定のすべてだった。
全寮制のここ聖櫃学園高等部二年のC組には、三十六人の生徒がいる。成績や運動神経、あるいはクラス内の立ち位置に順位をつけるなら、俺は常に十八番目あたりにいた。目立たず、落ちこぼれず、揉め事も起こさない。教室の隅に立てかけられた掃除用具のように、いてもいなくても誰も気に留めない存在だ。
「では、この句の解釈について。神崎、答えてみろ」
名前を呼ばれ、中央の席から学級委員長の神崎凛音が立ち上がった。背筋がまっすぐに伸び、黒髪が肩から滑り落ちる。よく通る声で彼女が答え始めると、周囲の男子たちが熱っぽい視線を向けた。少し離れた席から、サッカー部エースの鳳颯太が爽やかな笑顔を向けている。
絵に描いたような青春の一場面だ。
俺は視線を外し、左手の窓に目を向けた。窓の向こうには、グラウンドと裏山が見えているはずだった。
だが、俺が顔を向けたその瞬間、外の景色が消えた。
霧が出たわけでも、カーテンが閉まったわけでもない。ガラスの向こう側にバケツでペンキをぶちまけたように、窓という窓が一瞬でどす黒い赤色に染まったのだ。前の窓も、後ろの窓も、廊下側の欄間さえも例外ではなかった。わずか二秒足らずで教室は外光を失い、生徒たちの顔に不気味な赤い影が落ちた。
「な、なにこれ……?」
神崎の声が止まった。教室中がざわめき始め、後ろの席にいた空手部主将の鬼塚猛が椅子を蹴倒して立ち上がった。鬼塚は舌打ちをしながら窓に歩み寄り、錠に手をかけた。
動かない。溶接でもされたかのように、窓枠はピクリともしなかった。
「おい、なんだよこれ、停電か?」
隣の席の佐藤健太がポケットからスマホを取り出し、画面を叩いた。すぐにその顔から血の気が引く。
「なあ天城、お前のスマホ電波あるか? 俺のやつ、いきなり圏外になったんだけど」
俺も自分の端末を取り出して画面を見た。『圏外』の二文字。学内Wi‐Fiのアイコンも消えている。建物全体が強力なジャミングを受けている証拠だ。
「し、静かにしろ! 席を立つな!」
教壇の佐伯が声を張り上げたが、その声は裏返っていた。佐伯は教科書を机に置き、一番近くの窓ガラスを平手で何度か叩いた。ガラス特有の軽い音はせず、分厚い鉄板を叩いたような鈍い感触だけが返ってくる。
「どうなっているんだ……ちょっと職員室を見てくる!」
佐伯は踵を返し、教室の前の扉へ歩み寄ってドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていなかった。だが、佐伯がノブを回した瞬間、教壇の上の換気口から「カチリ」と小さな金属音が鳴った。
生徒たちの騒ぎ声にかき消されるほどの微かな音だった。しかし、たまたま教壇の上を見ていた俺の目には、換気口の隙間から落ちてきた一本の細い線が、赤い光を反射して佐伯の首に巻きつくのがはっきりと見えた。
瞬きをする暇もなかった。
線が、一気に引き絞られた。
佐伯は悲鳴すら上げられなかった。自分の喉を掴もうとした両手が空を切り、次の瞬間には、滑らかな断面を見せて首から上が肩から滑り落ちた。ゴトリ、と重い音を立てて頭部が床に転がり、最前列の女子生徒の靴先にぶつかって止まる。
頭を失った首の断面から、動脈血が噴水のように吹き上がった。黒板に書かれていた白墨の文字が、端から真っ赤に塗り潰されていく。
一拍遅れて、教師の胴体が血溜まりの中に倒れ込んだ。
教室が、三秒間だけ完全に凍りついた。
直後、最前列の女子が鼓膜を裂くような悲鳴を上げた。パニックが爆発した。椅子を倒して後ろへ逃げ惑う者、腰を抜かして床を這う者、嘔吐する者。あの神崎でさえ、両手で口元を覆ったまま椅子にへたり込んでいる。
「し、死んだ……! 佐伯先生が死んだぞ!!」
佐藤が俺の腕にしがみついてきた。爪が制服の上から肉に食い込み、ガタガタと震えている。
俺は佐藤に合わせて肩をすくめ、同じように怯えている表情を作った。
……だが、たかが一人死んだだけだ。血が飛び散っただけで、何をそんなに大騒ぎする必要がある? それよりも、ルミノール試薬による検査を逃れるには、どれくらい念入りに掃除すればいいのか。俺が気にしていたのは、そちらのほうだった。
オカルトでも超能力でもない。今、佐伯の首を切断したのは高張力のピアノ線かタングステンワイヤーだ。換気口の奥に小型のウインチが仕込まれている。八十キロ以上の張力で一気に引けば、人間の頸椎など簡単に断ち切れる。
問題は、誰がいつこの教室にそんな殺傷トラップを仕掛けたかだ。
パニックに陥った男子生徒の数人が後ろの扉へ殺到しようとした、その時だった。
前の扉が、外側からゆっくりと押し開けられた。
扉の下端が佐伯の死体にぶつかり、鈍い音を立てて止まる。
教室中の悲鳴がピタリと止んだ。皆の視線が、一斉に扉の向こうへ集まる。
入ってきたのは、一人の少女だった。
年は俺たちと同じか、少し下に見える。腰まで届く銀色の髪に、精巧な黒のゴシックドレス。屋内だというのに、その右手には黒いレースの日傘が差されていて、左腕には綿がはみ出た薄汚いピンク色の兎のぬいぐるみを抱えていた。
ヒールの靴底が佐伯の血溜まりを踏み、パチャリ、と小さな音を立てる。
少女は足元の死体など一瞥もせず、教壇の上に上がると、佐伯の教科書を床へ払い落として、机の真ん中に腰を下ろした。
日傘が少し持ち上げられ、銀色の前髪の奥から二つの瞳が覗く。
右目は血のように赤く、左目は氷のように青い、オッドアイだった。
「ごきげんよう、二年C組のみなさん」
少女は机の上で足をぶらつかせながら、童話でも読み聞かせるような甘い声で言った。膝の上に置いたボロボロの兎の頭を、白い指先が優しく撫でる。
「私はこの箱庭の管理人を務めます、リリスと申します。ああ、そこの先生は『開始前の無断退出』というルールに違反したため、先ほど退学処分となりました」
誰も声を出せなかった。荒い呼吸音と、誰かのすすり泣く声だけが教室に響いている。
「ふ、ふざけんじゃねえぞ……!」
沈黙を破ったのは、鬼塚だった。鬼塚は青ざめた顔を無理やり歪ませ、教壇の上の小柄な少女を睨みつけた。そして、隣にいた取り巻きの大島の肩を乱暴に突いた。
「ただのガキじゃねえか! おい大島、あいつを引きずり下ろせ! 鍵を出させるんだ!」
大島は唾を飲み込んだが、相手が細腕の少女一人だと見て取ると、パイプ椅子を振り上げて教壇へ突っ込んだ。
「てめえ、ふざけた真似しやがって!」
教壇の前の床は踏むな。
俺は心の中でそう呟いた。もちろん、声に出して止める義理はない。リリスがさっき教壇に上がった時、彼女の歩幅は不自然なほど大きく、教壇手前の床板だけを跨いで避けていた。
案の定、大島の足が教壇の縁を踏んだ瞬間、床板の隙間から青白い火花が弾けた。
「がっ――!?」
空気を焦がす轟音とともに、大島の巨体が激しく痙攣した。手から離れたパイプ椅子が宙を舞う。わずか数秒ほどで、肉と布が焼ける鼻をつく臭いが教室中に充満した。電流が止まった時、大島は全身から白い煙を上げる炭の塊になって、佐伯の死体の隣に倒れ込んだ。
「あら、言い忘れていました」
リリスは小首を傾げ、レースの日傘をくるりと回した。
「運営スタッフへの暴力行為も、即刻退学となります。お気をつけくださいね」
もう、指一本動かせる者はいなかった。大島をけしかけた鬼塚は、顔をひきつらせたまま腰を抜かし、自分の椅子に崩れ落ちた。
俺は視線を落とし、制服の襟に顔を埋めるようにして、恐怖に震えるフリを続けた。
だが、俺が目を伏せるほんの一瞬前。
教壇の上のリリスが、ぴたりと動きを止めた。赤と青の双眸が、泣き叫ぶ三十人以上の生徒たちを素通りして、窓際の後ろの席にいる俺の目をまっすぐに射抜いた。
気づかれたのか?
リリスの唇が、三日月のように弧を描いた。彼女は薄汚れたピンクの兎を胸に抱き寄せると、赤い右目だけを細めて、俺に向かって小さくウインクしてみせた。
どうやら俺の平穏な高校生活は、ここで終わりらしい。




