19 糸の採取ですが
ほんの少し。そう決めて私たちは先ほどの道を戻った。蜘蛛たちの巣がある隠し扉の前へ。
私が通ってきた場所はぽっかりと穴が空いていたけれど、早くも修復は始まっているようだ。中を見通すには既に視界が悪い。あれだけの蜘蛛が挙って糸を吐けば修復速度は桁違いだろうとは思うけれど、それだけ早く隠す必要があるということだろうか。
「二人ともこの中にいた蜘蛛を見た? あれが何か知ってる?」
尋ねた私にオユンはかぶりを振るけれど、バルは知っているようだ。見たことがある、と答えた。
「ホルホイの詩に出てくるアールズによく似ている。暗い場所を好んで巣食い、静かに生きるものだ。洞窟の外で見る蜘蛛はほとんど群れないが、此処の蜘蛛は群れていただろう。恐らく光を必要とせず、僅かな振動で判断している。最下層まで来たのは今回が初めてだが、ドルマーと下層まで来た時にも見た。定期的に上層へ向かっては推測だがネズミを捕食しているんだろう」
ネズミ、と私は洞窟に入って進んだ先で見たネズミの大群を思い出した。彼らも此処では弱者の部類に入るのだろうか。地面を覆い尽くしそうなほどの数だったのは、常に命の危険が隣り合わせで誰かが生き延びることを期待しているからかもしれない。
「だが彼らも生き物だ。子を育てる間は危険が少ない場所へ籠るんじゃないか。餌を捕るのは群れの一部で、此処にいるのは育児中の個体ばかり。あるいは」
バルは言葉を切り、私たちの顔を順に見た。
「成長して巣立ちを迎える個体の可能性もある」
「……うげ」
オユンが嫌悪感を滲ませて耐えきれなかった様子で声をあげた。長い脚が迫ってきたことを思い出すと私も好意的にはなれず、苦笑した。故郷の山で遊んでいる時、蜘蛛の巣に何度頭を突っ込んだか知れない。顔や腕にへばりついた糸は不快感を抱かせるには充分で、けれど巣を壊された蜘蛛にとってみても幼い私は憤慨の対象だったろう。生活圏が近ければそういうこともある。でも、此処の蜘蛛は。
「いずれにせよよく知らない相手だ。出入り口の糸を少しもらったら急いで撤退しよう。手に違和感があるようならすぐ捨てていく。ツァガーンの衣に必要な糸を見つけた今、お前を無傷で帰すのが俺の仕事だ。解るな?」
バルは最後、オユンに問いかけた。オユンは渋々といった様子で頷く。彼女自身が最下層に来た証になると口にした糸であるなら途中で諦めることになっても翻しはしないだろう。そもそも持ち帰れるかどうかも怪しい代物だったことを思えば紡ぐ糸を見つけたことさえ大収穫と言える。
「本当ならロディたちを待ちたいところだが……灯りも限界だな」
バルが自分の持つ松明と私が持つランタンを見比べて冷静に言った。戻る道を思えば灯りは出口まで必要になる。火の魔法が使えるロディが此処にいない以上、そして松明になる材料が乏しい場所だからこそ、この灯りを基準に考えなくてはならない。
「この洞窟で二人を闇雲に探すのは得策じゃないと考えて出口に向かった可能性はあるわ。ドルマーとセシルと合流しているかも」
それは希望的観測だけれど、なくはないとも私は思っていた。ロディとラスがバルやオユンのように二人一緒にいるならより安心だけれども、ひとりずつ逸れていることも考えられる。どちらに進むべきか解るなら行くも戻るも選べるだろうけれど、二人は此処に来たことなどない。どう進めば何処へ続くのか、判りはしない。足元が崩れて私のように下層に落ちたなら上を目指せば出入り口に近づくことは判っても、ラスはともかくロディに岩壁を登る技術があるようには思えなかった。
「何にせよ、戻って誰かがこの洞窟にいると解ったなら準備を整えなくちゃ。あのネズミの大群をどう突破するかは考えないといけないけど、蜘蛛の糸があったら警戒して近づいてこないかもしれないわ」
捕食される側なら敵の一部は警戒心を抱かせるだろう。此処の蜘蛛は網を張る。ならその網にかかって絡め取られ、命を落とした同胞を見ているかもしれない。その糸を抱えた私たちが通れば、警戒して道を空けるか興奮して再び飛びかかってくるかのどちらかだろうと思われた。
「それなら急いだ方が良いわ。採るわよ──」
オユンが意を決した声で告げ、果敢にも巣に手を伸ばそうとする。それをバルが止め、代わりに松明を渡した。遠目にも彼女の手が震えているのは判ったから、バルはそれを引き受けたのだろうと思う。
「ツァガーンの衣を取りに来たのは俺だ。衣を紡ぐために必要なアールズの糸を採るべきは、俺だろう」
「……そうね。それにあたしが手を出すより、魔物に待ち望まれた子の方が刺激しないかもしれないし」
オユンはそう言いながらバルの言葉に従った。伏せられた目の奥で安堵が隠されたのをバルは見たのかも知れない。肯定も否定もせず、ただ穏やかに笑った。
「だが俺は糸繰りには不慣れでな。どのくらいあれば何かを作るに足りるかはお前の教示が必要だ、オユン」
「何を作るかによるでしょ。衣を作るのは無理。手や足にも二本あることを考えると結構必要だけど……」
考えながらオユンが受け渡された松明をぐっと握る手に力を込めるのが見えた。バルは音まで聞こえたかもしれない。
「……顔の覆いや髪飾りにする程度なら、バルが持てるだけ持てば充分だと思う。松明ならこのままあたしが持つし、帰り道にどうにもできないならその場で少し置いて行くのも仕方ない。そもそも、糸として使い物になるかも判んないんだから、多少は余分に持って行かないといけないんじゃない?」
必要な分だけとは言っても、初めて持ち帰るならどのくらいが適量か判らない。オユンの言にバルは息を吐きながら、それもそうかと同意した。すまんな、と断りながらバルは腕を伸ばして蜘蛛の糸を集めていく。くるくると巻くようにして、繭玉にしていく目は真剣で、卵はいないか、気づいて迫ってくる蜘蛛はいないかと警戒しているのが分かった。
そうして目の前のことに夢中になって集中していたせいか、私は忘れていた。
蜘蛛は、上から迫ってくるのだということを。
2025/03/02の夕方:誤字らを召喚していたので修正しました!キーボードの予測変換、時々「有りうるかも…?」と思う変換を第一に出してくるのでうっかり騙されます!きたれ学力!




