12.薄氷の上を歩く
「まさか、こんなに早く処理していただけるとは」
メイビーンは、数時間前に三人を案内したのと同じ部屋に三人を連れていくと、開口一番そう言ってまだ呆然としていた。
しかし、すぐ表情を引き締めてダージリンが手にしているビニール袋に目を向ける。
「でも、まだ証拠品を見せていただいていません。そちらを見せてもらっても構いませんか」
「ええ」
アールグレイの返答に、ダージリンがガラスのテーブルの上にビニール袋を載せ、手早く袋の口を開けた。
「すぐに腐敗することはないと考え、冷凍などの処置は一切していません。死後そのままの状態となっています」
メイビーンは、やや身を乗り出して、手首を眺める。それから、すぐに顔を上げた。
「この方がラッセル様の刺客だという根拠はどこにありますか」
「おっしゃると思いました」
アールグレイが笑いながら、懐からフェレスが持っていたIDカードを取り出す。
「これで信じてくださいますか」
メイビーンはIDカードを受け取り、じっくりと観察する。
カードに書かれている情報は多くはない。顔写真と所属、生年月日、階級などだけだ。
「こちらも」
ダージリンがフェレスの写真を見せる。アールグレイとカモミールが話している間に撮影していたのだ。
メイビーンは顔を上げた。
「でも、このIDが本物だという証拠が」
「IDカードには普通、組織名を書いておくものではないですか」
メイビーンはカードに視線を落とす。組織名の記載がない手帳に。
「私たちがもし手帳を偽装しようとするのなら、疑われないように組織名まで書いておくと思います。誰でも本物だと信じて疑わない作りにするでしょうね」
「では、このカードは本物……?」
カモミールの方を見るメイビーンに、カモミールは頷いて、すぐに目を逸らした。カモミールは、どうしてもメイビーンを好きになれない。
メイビーンは丁寧に頭を下げた。
「疑ってすみません。刺客を倒し、ラッセル様の安全を確実にしてくださったこと、感謝します」
「私たちは依頼をこなしただけですから」
「皆さんのこと、最初は疑っていました。本当にすみませんでした」
顔を上げたメイビーンは頬を赤らめて、今までで最も打ち解けた様子で話す。
失礼します、と言ってメイビーンは一度席を外し、すぐに戻ってきた。
「これが報酬になります」
メイビーンは、アールグレイに小切手を手渡す。
「これはどうも」
アールグレイは嬉しそうに受け取った。
「ところで、ラッセルさんには会わせてもらえないのですか」
アールグレイは、ふと気づいたように訊ねる。
「はい、ラッセル様には、皆様に依頼を受けていただいたことをお知らせしていませんから」
「ラッセルさんに一度会って話をしておきたいのですが」
「それはできません」
メイビーンは、きっぱりと拒絶した。
「すみません。ラッセル様からは危険を遠ざけておきたいのです。皆さんは、ラッセル様が本当に実在するか疑っているかもしれません。しかし、ラッセル様は確実に存在します」
ラッセルの実在は、三人もそれほど疑っていない。メイビーン一人で現執者のことを知り得たはずがないからだ。
メイビーンは真面目で疑り深い人間だが、現執者との繋がりはなさそうだ。あるとすれば、ラッセルという人間以外にいない。
この屋敷は莫大な資金が掛かっている様子だが、その割に人気がない。使用人もいない。メイビーンの話からも、邸宅にはメイビーンとラッセルしかいないと読み取れる。他の人間との繋がりがある様子でもないのだ。
最初に邸宅を訪問した際、足跡のつきやすい土の上には、車庫に向かう一筋の足跡とタイヤ痕しか見つからなかった。それがラッセルのものだとすると、メイビーンは今日、外出していないことになる。
自然、ラッセルとは何者なのかが気になるところだが……。
「ラッセル様には危険を近づけさせたくありません。皆さんが危険だと言っているわけではありません。私はラッセル様が、ご自身のせいで誰かの命が消えたと知ることを避けたいのです」
アールグレイは、メイビーンを見る。メイビーンも、アールグレイを強い目線で見返した。誰かを思う強い意志。アールグレイの中にはない意志。
メイビーンが、柔らかく微笑んだ。
「あの方は、人一倍心優しい方ですから」
やはり
分からない。
「分かりました」
アールグレイは、あっさりと告げると立ち上がった。
ラッセルにどうしても会いたかったわけでもない。ここで対立する意味はあまりなかった。
「それでは、私たちは仕事を済ませたので帰ります」
「ありがとうございました」
メイビーンは、三人の旅人が家の敷地を出て行くのをいつまでも見送っていた。
三人の後には、カモミールがつけた足跡だけが残された。
「これは俺が保管しておくから」
カモミールは、アールグレイが手に持つ小切手をかすめ取る。
「あ、それは駄目だ」
アールグレイが真剣に言う。
「何でだよ。アールグレイに渡したら、全部無駄に消費するだろ。意味の分からない使い方をしないように、俺が管理する」
「そういう嘘だろ」
「は? 違う。ダージリン、言い返してやれ」
「ダージリン、これは、私とカモミールの戦いだ。口出しは不要」
「ダージリンも報酬を受け取る権利があるだろ」
「はぁ……」
アールグレイが額に手を当てる。流れた髪の間から、細めた目が覗く。
「ここで命を懸け合うことになるとは思わなかったよ」
アールグレイがベルトに挟んだナイフに手を伸ばす。
「は? ちょっ、おいっ! 意味が分からねえ。何で報酬の管理者を決めるだけで命の取り合いになるんだよ?」
「簡単です、カモミール」
いつの間にかカモミールの背後に回っていたダージリンが、カモミールの手から小切手を取り上げる。
「こうすればいいのです」
ダージリンは、小切手を、あろうことかアールグレイに返してしまう。
「ああーっ! 何してるんだよ!」
「申し訳ありません」
ダージリンがカモミールに向かって頭を下げる。
「殺傷沙汰を止めるには、こうするしかありませんでした」
「他に何とでも方法があるだろっ」
「ありませんでした」
「んなわけあるかっ」
「まあまあ、二人とも落ち着こう」
アールグレイは笑顔で二人を眺めている。
「誰のせいで俺が怒っていると思っているんだっ」
怒鳴った後、カモミールは目の前で倒れゆくフェレスの姿を思い出す。
カモミールは、静かに口を開く。
「この切手は、一人の人間の命と引き換えに得たものだ。簡単に消費していいものじゃない」
アールグレイは、小さく息をつく。
「まだそんなことを言っているのか。もう、終わったことじゃないか」
「そうだ、終わったことだ」
カモミールは、自分の手のひらを見つめる。
射撃後の、ダージリンの無表情。血を流しながら笑うアールグレイ。
この世界でおかしいのは、カモミールの方かもしれなかった。
そうであっても、カモミールは割り切れない。
カモミールだけは、正気を保っていなければならない。そう思っていた。
「だから、俺の中にいつまでも残り続けるんだよ」
冷たい風が、三人の間を通り抜けていった。
誰も何も言わない。
ダージリンが、一人、カモミールの方へと歩みを進めた。
顔を上げたカモミールに、ダージリンは切手を手渡す。
「久しぶりに、お好きな買い物をしてください」
自分だけは正気を保っていなければならない。しかし、アールグレイやダージリンとまったく話が通じないわけでもないのだ。おそらく、まだ互いに互いを知らないだけだ。
カモミールはふっと笑った。
「……それにしても、隠し事が多い依頼人だったな」
カモミールがぼやく。
アールグレイは笑う。
「いいじゃないか、報酬が満額もらえたんだから」
「お前な……」
「私たちが詮索することじゃないよ。知らなくていいなら、知らないでおこう……」
一転、アールグレイは声を明るくする。
「それより、この臨時報酬で何を買おうか」
「臨時収入じゃねえよ。計画的に使わないと、すぐに消えるぞ」
「まずは銃弾を受けた壁の修理です」
「だな。仕方ないから、ひとまずは車の中に溢れている角材で穴を塞いでおくか」
「ほらね、角材はこういうときに役立つんだよ。やっぱり買っておいてよかったじゃないか」
ダージリンは、感心したように頷いた。
「なるほど、アールグレイはこの未来を見越していたのですね」
「ないない。あり得ない。アールグレイ、何度も言うが、角材は絶対にいらなかった」
アールグレイは、カモミールの言葉を笑って無視した。
「他はどうする。今日くらい外食するか。いつも缶詰めや干物じゃ生命の質が下がってしまう気がする」
「俺はUSBメモリがほしい」
「それはいくらだ。高すぎるなら駄目だ」
「大丈夫だよ。アールグレイが買った角材の数十分の一の値段だからな」
三人は、日常と異常の境界を歩く。




