浜昼顔
これで小田原の北条本家、上総から下総や常陸との国境、上野の北条氏堯は連結したのである。
それを見届けて義長は小田原へと旅立った。
今はもう天下を見分し、行く末を観ずるべきと考えたのである。
ユキと歩く。無論人目があるから、同道する訳にはいかない。狐のユキは道野辺の溝等を歩く。しかし義長は、その足取りを見守っている。
小田原は温暖な土地であった。道野辺に花が咲いている。浜昼顔であった。淡い桃色の花である。潮騒も聞こえる。
義長はその花を取った。ユキが不思議そうな顔をしている。浜昼顔を手渡した。
宵闇の迫る頃、旅籠である。義長はユキに促した。ユキは一世一代の覚悟で女に化けるのである。類稀なる美人の姿。男が幾人も振り向く。
義長は、そのユキを静かに導いた。
翌日、二人で街を歩いてみる。相変わらずユキを男達が振り返る。豊かで賑やかな街並みである。
広大な小田原城は、民にも開かれた造りである。もしも事があるならば、民を収容しての籠城が充分に可能になるであろう。
我が国の全てが此の様な城を備える豊かさがあるならば、と義長は目を細める。
二人で歩いた。穏やかな気持ちである。歩き続けると浜辺へと出る。浜昼顔も咲いていた。ユキは、その花を自分で手にした。
並んでユキと浜辺に座る。
しかし戦国の世は、義長に安穏をやはり許しはしなかった。
打ち寄せる青い波。陽を弾いて輝く波頭が白く盛り上がったかと思うと、瞬く間に弛緩して、浜辺に吸い寄せられるようにして広がる。
砂浜に転がる小石の様な物を押し流しては、再び海原へと引き返していく。波は又も畝っては、押し寄せて来る波と打ち合って陽の光を複雑に弾き、彼方へと去って行く。寄せる波は再び浜辺と届いて、砂浜に波紋を広げる。
その大海原の向こうから吹いて来る爽やかな風。
女人のユキが目を細めている。
風は空から降り下って、微かに陽や雲の気配を伝えていると思った。そして波面に攫われた風は微かに騒めいて、いつしか義長に声となって囁くのであった。
義長の体に奇妙な感触が生まれる。背筋が冷たくなっていた。風は声を強めて義長に聞かせた。
「京の都」
「桔梗の花の」
「乱れけり」
謎である。
其処は天下布武を実現し始めている織田信長が、鉄壁の様に抑えている場所ではなかったのか。
義長は浜辺に居る。ユキと座っている。それは何も変わらなかった。
「京の都」
「桔梗の花の」
「乱れけり」
しかし、義長の鋭敏な心は其の体から動き始めている。
ユキも気配を察知した様だが、これも何も変わらぬ風に、繰り返し寄せる波と天空の爽やかさを孕む風の中に座っている。
「京の都」
「桔梗の花の」
「乱れけり」
その夜の事。
義長は北条氏政の夢枕に立ってみた。
しかし、そこには朧な霧が掛かっているばかりだったのである。
簾を上げるようにして、義長は進み入るしかなかった。
ようやくに臥所に立って言う。
「織田信長の天下は乱れます。今、この小田原を発して構えておくならば、殿こそが天下を取れます」
北条氏政はようやくに目を醒ます。
「今夜は、まあ不思議な夢を見ることであるよ」
氏政は生欠伸を噛み殺しただけであった。
「天狗となる」
義長は迷いのない口調で言った。
「はい」
ユキは頷いた。
「先に女化へ、帰っていなさい」
「はい」
「必ず帰るから」
ユキが両手を揃え、再び頷いた。
「もし女化でないとすれば、阿波の大杉様で待つが良かろう」
ユキはまた頷いて、じっと義長を見詰めている。
天狗となった義長は天空へと向かうのである。




