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第九話 崩れた教室

朝の空気は、まだ冷たかった。

高台のキャンプから見下ろすと、島の輪郭が朝霧の中にぼやけている。

かつて街だった場所。 その骨組みに、ゆっくりと緑とカビと菌糸が絡みついている。

綾瀬ユウは、スーツのヘルメットを被りながら、Λ−Logosのチェックリストを目で追った。

〈ER−07:標準スーツ《ワーカー》、外部バイオフィルタ二重化完了〉 〈神経インターフェース:ノイズ補正レベル中〉 〈免疫サポート剤:血中濃度、目標域内〉

《本日の目的は、対象“巣”の外周地形確認と、マイクロビオーム勾配の詳細マッピングです》

「中には入らない、ですね」

ユウが念のために言うと、Λ−Logosは即座に肯定した。

《はい。少なくとも今日は。・・“少なくとも”ですが》

後ろで、ルイスが鼻で笑った。

「AIにそう言われると、逆に不安になるな」

隊長のカラム・ウォンは、重装スーツ《ロック》のヘルメットをかぶりながら、短く指示を出した。

「ユウ、ルイス、前衛。俺が後方。森下はキャンプからモニタリング。武器はスタン限定。噛まれたら即報告しろ」

「噛まれたくないんですけど」

ユウのぼやきに、チカゲの声がインカム越しに返ってきた。

「噛まれたくなかったら、あんまり“おいしそう”に動かないことね」

冗談めかした言葉の奥に、本気の警告が潜んでいるのは分かっていた。

高台から、旧校舎群までは緩い下り坂になっていた。

割れたアスファルトと、斜面を這う蔓植物。

ユウは、スーツのバランサーに任せて慎重に歩を進める。 地球の一Gは、やはり重い。筋肉の奥深くで、まだ慣れていない部分がきしんでいた。

「風向き、南東。巣の方からこっちに吹いてきてる」

ルイスが周囲のデータを読み上げる。

《巣からのエアロゾル成分、検出開始。皮膚常在菌由来と思われるモジュール比率が増加中》

Λ−Logosが補足した。

《嗅覚系インターフェースへの入力を三〇%カットします。ER−07の“頭痛”は、昨夜より悪化していますか》

「ギリギリ我慢できるレベルです」

ユウは、眉間の奥を押すように目を細めた。

昨日から続いている鈍い痛み。 月では経験したことのない種類の頭痛だ。

スーツと脳をつなぐインターフェースを通じて、外の“ささやき”が嗅球を直接揺さぶっていると、チカゲは説明していた。

「ある意味、“地球仕様の匂い読み”への即席アップデートよ。ありがたがるべきかもしれないわね」

ありがたがる余裕は、まだない。

旧校舎の端まで来ると、Λ−Logosが警告を出した。

《前方五〇メートルに、構造物内部複層空間。熱源なし。ただし、真菌ネットワーク密度高》

画面に、縦に細長い建物の断面図が浮かび上がる。

学校の教室棟だ。 何階建てだったのかは、崩れた外観からはもう分からない。窓ガラスは抜け落ち、階段の一部も崩れている。

「中を抜けた方が、巣の外周線に早く出られるが・・」

カラムが、建物の横の斜面と、内部通路の二つのルートを眺める。

「外回りにしておきましょう」

チカゲの声が、即座に入った。

「真菌密度が高いところは、行動制御モジュールの“結節点”になっている可能性がある。今日はまだ、そこに触れたくない」

「先生、それって“明日は触る”って意味ですか」

ユウがつい突っ込むと、チカゲは「状況次第」とだけ答えた。

結局、ルートは「建物の外周をなぞりつつ、内部を遠目にスキャンする」に落ち着いた。

ユウが慎重に建物の壁沿いを進んでいると、足元のセンサーが異常を知らせた。

《注意。足下二・三メートル下に空洞。元教室と推定》

「了解。回り込――」

言い終える前に、地面が沈んだ。

アスファルトと土とコンクリートの層が、一気に崩れ落ちる。 ユウの身体は、支えを失って真下に引き込まれた。

「――うわっ!」

叫ぶ間もなく、視界が暗転する。

スーツの自動安全装置が作動し、姿勢制御用のスラスターが一瞬だけ吹いたが、空間が狭すぎた。 壁に肩をぶつけ、腰を打ち、背中から床に叩きつけられる。

鈍い衝撃。 頭の中で、星が散ったような感覚が走る。

《ER−07、落下。高度差約三・五メートル。脊椎加速度、許容範囲ギリギリ》

Λ−Logosの冷静な声が聞こえた。

《スーツ外装、肩部と背部に損傷あり。ただし、内部圧保持は問題なし》

「た、助かりました・・?」

ユウは、息を整えながら身体を起こした。

上を見上げると、そこには四角い穴と、崩れた床板の断面が見える。 穴の縁から、ルイスの顔を覆ったヘルメットが覗き込んでいた。

「おい、大丈夫か!」

「物理的には、たぶん」

「精神的には?」

「落とし穴に落ちた気分です」

「事実そうだ」

上からカラムの声が落ちてきた。

「そのまま動くな。周囲の構造をスキャンする」

ユウは、命令通りその場で息を整えた。

暗い教室跡。 ひしゃげた机と椅子、天井からぶら下がった蛍光灯の残骸。

壁の一部には、まだ色褪せたポスターの切れ端が張り付いている。 その上を、灰色のカビが覆っていた。

《真菌密度、予想より一五〇%増し》

Λ−Logosの声が、ヘルメット内で響く。

《しかし、すぐに深刻な侵襲が起こるレベルではありません。・・興味深いですね。この空間は“長く守られていた”形跡があります》

「守られていた?」

ユウが問うと、AIは壁面の解析画像を表示した。

《菌糸の層が、外側から内側へ向かって何重にも“フィルタ”のように重なっています。外の世界と、この空間のあいだに、意図的な“膜”が作られたような構造です》

「誰が、何から守ったんでしょうね」

コメントした瞬間だった。

ヘルメットの外側――空気の中で、匂いの波が揺れた。

潮でも、カビでもない。 汗と土と血の匂い。そのどれとも違う層が、一気に濃くなる。

人だ。

《前方二時方向、距離一一メートル。熱源二》

Λ−Logosが告げるのと、ユウがそちらを向くのはほとんど同時だった。

教室の出入口だった場所の影から、二つの影がこちらを覗いていた。

一人は、細い。

青黒い髪が肩のあたりで切り揃えられ、顔には土とすすがついている。 服は擦り切れたジャージのようなもの。 その目だけが、暗がりの中で異様に光っていた。

もう一人は、髪を布でまとめ、腕から肩にかけて包帯を巻いている。

その包帯の下から、かすかに湿った匂いが漂ってきた。 皮膚と血と、膿みかけの傷の匂い。だが、その下に何か甘い匂いが混じっている。

ユウは、反射的にスタンガンユニットに手を伸ばした。

だが、引き抜く前に、Λ−Logosの声が耳を打った。

《待て》

珍しく、命令形だった。

《噛まれる距離まで近づかれる前に、まず“観察”しろ》

ユウは、武器に伸ばした手を止めた。

両手を胸の前に上げ、できるだけ脅威にならない姿勢を示す。 それでも、スーツの体格とヘルメットの無機質な顔は、どう見ても“鉄の化け物”にしか見えないだろう。

細い方――少年らしき方が、一歩前に出た。

彼の鼻が、わずかに動いたのが分かった。 犬のように、空気を嗅いでいる。

その瞬間、ユウの額の奥の痛みが、急に鋭くなった。

(嗅がれている)

そう直感した。 少年の嗅球――鼻の奥の「匂いの玉」が、自分のスーツの外殻をなぞっているのが、なぜか「分かる」。

匂いが、互いの間で干渉し合っている。

「・・鉄」

少年が、かすかに口を開いた。 古い日本語のイントネーションだが、単語自体は聞き取れた。

「鉄の・・人」

ユウは、言葉を失った。 その声は、恐怖と好奇心の両方を含んでいた。

彼の後ろにいた包帯の少女が、半歩前に出る。 彼女は、手を伸ばした。

まるで、何か柔らかいものに触れたい子どものように。

「やばい、“触り型”だ」

Λ−Logosが言った。

《皮膚常在菌優勢の“皮型”。接触による感染モジュールの交換が主なコミュニケーション手段の一つになっている》

「ここで避けたら、“敵”扱いされませんか」

ユウは、とっさに訊ねた。その問いには、自分でも驚いた。

《されるでしょう》

Λ−Logosは即答した。

《が、受け入れれば、こちらのスーツ外殻に“彼らのネットワークの入り口”が刻まれます》

どちらを選ぶか。

その判断を迫られているのだと分かった瞬間、ユウの掌に汗が滲んだ。

少女の指先が、ヘルメットのバイザーに触れた。

コン、と軽い音がする。 透明なポリマーフィルム越しに、細い指が滑った。

その指先から、ごくわずかな湿り気と熱が伝わってくる気がした。

Λ−Logosが、外装センサーのデータを一斉に読み上げる。

《皮脂成分検出。常在菌群配列、接触点から侵入開始。外殻表面に薄いバイオフィルム形成》

ユウは、息を止めた。 少女は、何度か指でバイザーをなぞったあと、満足したように目を細めた。

その瞳の色は、海の浅瀬のような淡い茶色だった。

「冷たい」

彼女が、ぽつりと言った。

ささやきが、巣の奥から流れ込んでくる。 ユウには言葉としては分からない。ただ、空気の密度が変わるのを感じた。

(噛め) (逃げろ) (見ろ)

いくつもの衝動が、少年と少女の身体を通り抜けている。

少年は、歯を食いしばった。 彼の顎の筋肉がぴくりと動く。

噛みつきたい衝動が、鼻の奥の匂いの玉と、巣母からのささやきの間で揺れているのが見えるようだった。

ユウは、ゆっくりと手を上げた。

掌を開き、指を広げる。 武器ではないことを示すため。

それから、掌を胸の前に当て、自分を指さす。

「ユウ」

ヘルメットのマイクを通じて、その音は少し歪んで教室に響いた。

少年と少女が、同時に目を瞬かせる。

「ユ、ウ?」

少年が、ぎこちなく真似をした。 その瞬間、教室の天井がわずかに軋んだ。

「ユウ、何をしている。応答しろ」

カラムの声が、インカムを通じて飛び込んでくる。

「すみません、少し・・忙しいです」

ユウは、教室の入口にいる二人から目を離さずに答えた。

「現地個体二体と接触。敵対行動なし。・・接触は、“事故”です」

「事故?」

「落ちました」

上から、短い沈黙が降ってきた。

「ふざけている場合か」

カラムが低く唸る。

「現在位置からの救出ルートを検討中だ。だが、敵対の可能性があるなら――」

「撃たないでください」

ユウは、即座に遮った。

「今のところ、噛まれてはいません。・・触られましたけど」

「触られた?」

チカゲの声が割り込んできた。

「どこを」

「ヘルメットのバイザーです。Λ−Logos、外装感染状況」

《バイザー外面に、接触個体由来と推定されるバイオフィルム形成。内部への侵入は現在のところゼロ。フィルタ防御は機能しています》

チカゲが、ほっとしたように息を吐くのが聞こえた。

「いいわ、そのまま。――できるだけ、長く観察して」

「救出は?」

カラムが訊く。

「もちろんやるわよ。でも、これ以上の“初接触”のチャンスはないかもしれない」

医官らしからぬ言葉だった。 だが、この状況で科学者が前面に出るのは、ある意味当然でもある。

教室の入口で、少年が一歩近づいた。

ユウと少年の距離は、もう数メートルもない。 少年の瞳が、ヘルメットの反射でユウ自身のシルエットを映している。

ユウは、再び自分の胸に手を当て、「ユウ」と繰り返した。 少年は、口の中でその音を転がすようにしながら、自分を指差した。

「・・アキ」

Λ−Logosが、即座に音声を解析する。

《固有名詞。音韻パターンから、古い日本語の命名体系の名残と推定》

「アキ」

ユウは、その音をできるだけ丁寧に真似した。 少年――アキの肩が、わずかに緩む。

少女が、包帯の下の腕をさすりながら、自分の胸を指差した。

「キ」

声は小さいが、はっきりしていた。

「アキとキ」

ユウは、二つの音を繋げてみせた。

名前が交換される。 それだけのことなのに、教室の中の空気が変わる。

ささやきのノイズが、ほんの一瞬だけ、整った波形に近づくのをユウは感じた。 巣の中の「呼び名」と、外から来た鉄の匂いの中の「名」が、重なり合う瞬間。

そのときだった。 教室の外――廊下の奥から、低い唸り声が聞こえた。

グルルルル・・。

アキとキの身体が、同時に強張る。 キの包帯の下で、皮膚がざわざわと動くような匂いがした。

吠え場の匂いだ。

《接近中。中型捕食動物+人間由来行動相ハイブリッド》

Λ−Logosが告げる。

《距離二〇メートル。速度上昇》

カラムの声が、鋭くなった。

「ユウ、一旦退け。上から救出する」

「了解――」

ユウは、アキたちに向けて両手を広げ、後退のジェスチャーをした。 そして、崩れた壁の方へと下がろうとした瞬間、廊下の奥から影が飛び出した。

犬のような、狼のような、しかしどこか人間じみた動き。 口を大きく開け、歯を剥き出しにして飛びかかってくる。

その目は、完全に「噛め」とだけ言っていた。

ユウは反射的に、スタンガンユニットを抜いた。

「――来るな!」

電撃が放たれ、影の肩口に命中する。 獣が悲鳴を上げて転がる。その後ろから、人間の影が一つ現れた。

レン。

名前は知らなくても、その立ち姿だけで「群れの牙」であると分かる男だった。

痩せた体に張り付いた筋肉。唇の端についた血。 その目に宿る「噛む」衝動。

彼の鼻も、アキと同じように動いた。

鉄の匂い。 スタンガンの焼けた匂い。 アキとキの匂い。

それらを一瞬で嗅ぎ分け、レンは低く唸った。

「・・外の牙か」

Λ−Logosが、マイクで拾ったその声を解析する。

《言語パターン:意味不明瞭。“牙”という単語のみ確信度高》

ユウは、レンから目を離さずに、上の穴に向かって叫んだ。

「今すぐロープを!」

「了解!」

ルイスの声と同時に、穴の縁から救助用のカーボンロープが下りてきた。

ユウは片手でロープを掴み、もう片手でスタンガンをレンに向けたまま、アキたちの方へ一瞬だけ視線を向ける。

「――また」

言葉を探して、見つからない。 代わりに、ヘルメット越しにうなずいた。

アキの目が、わずかに揺れる。 彼の鼻が、ユウの匂いをもう一度深く吸い込んだ。

キが、包帯の下の手をぎゅっと握りしめ、その拳を胸の前で小さく振った。 それが「行くな」なのか「また来い」なのか、ユウには分からなかった。

次の瞬間、ロープが引かれた。

身体が宙に浮き、教室の床が遠ざかっていく。

レンが一歩前に出る。その唸り声が、低く高く揺れた。

スタンガンの照準は最後まで彼から外さなかった。 だが、引き金は引かなかった。

穴の縁を越え、崩れた床の上に転がり出ると、ルイスが手を伸ばして引き上げてくれた。

「まったく・・派手な初接触だな」

「事故です」

ユウは、息を切らしながら答えた。

「完全に、事故でした」

「そういう“事故”が、これからたくさん起きるでしょうね」

チカゲの声が、少しだけ高揚していた。

「で、どう? “匂いの子”たちは」

ユウは、ヘルメットを外さないまま、額を押さえた。

「アキとキ。名前を交換しました」

その一言で、Λ−Logosの内部ログが静かに書き換わるのが分かった。

〈対象個体No.01:Aki〉 〈対象個体No.02:Ki〉

「それと・・」

ユウは、バイザーの外側についた、ほとんど見えない薄膜を指先でなぞった。

「ここに、“彼らの世界”の入り口を、少しだけもらいました」

Λ−Logosが、その指先の動きをなぞるように言った。

《ええ。こちら側の扉も、少しだけ開いた》

初接触は、事故だった。

落ちて、出会って、触られて、吠えられて、逃げた。 だが、その事故の跡は、スーツの外側にも、ユウの嗅球の奥にも、巣のささやきにも、確かに残った。

それはもう、「なかったこと」にはならない種類の痕跡だった。




♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠




読むための手助け用語・世界観ノート 9


■ 「事故」という名の運命 科学の世界では、事故は「エラー(間違い)」ですが、物語の世界では「運命」の別名です。 ユウが教室に落ちたのはミスですが、そのおかげでアキたちと出会えました。 「計算通りにいかないこと」からしか、本当の関係は始まらない。Λ-Logos(論理)には予測できなかった素敵なエラーです。

■ 「守られていた」教室 AIが発見した、菌糸による「フィルタ」。 これは、アキたちの巣が、この場所(教室)を「大切な保存場所」あるいは「ゆりかご」として扱っている証拠です。 ウイルスはただ人間を襲うだけでなく、何かを守り、育てようとする「母性」のような意志を持っていることが示唆されています。

■ 名前を呼ぶことの魔法 今までAI上で「対象個体サンプル」として扱われていた少年が、「アキ」と名乗った瞬間、ユウにとって「かけがえのない個人」に変わりました。 名前を交換することは、お互いを「景色の一部」から「物語の主人公」へと引き上げる、最も古くて強力な魔法です。

■ 扉が開く キがバイザーに触れたことで、スーツに「バイオフィルム(菌の膜)」がつきました。 これは物理的には「汚れ」や「汚染」ですが、心理的には「招待状」や「キスマーク」のような意味を持ちます。 「私たちの世界に入ってきてもいいよ」という、言葉なき承認の印。ユウはその意味を、肌感覚で理解し始めています。

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