第八話 鉄の匂いの人たち
朝、世界が「うるさく」なっていた。
アキは、鼻の奥の痛みで目を覚ました。
頭の前のほう――眉間の少し上あたりが、内側からじんじんと押されている。 殴られたわけでもないのに、そこだけ熱を持っていた。
息を吸う。 汗。血。たくさんの皮膚。
巣の中の匂いはいつもと同じはずなのに、その上から別の層が重なっていた。
――鉄だ。
錆びた鉄ではない。港の残骸や倒れた電柱の匂いとは違う。 もっと鋭くて、冷たい。熱いのに腐っていない、焼いた石の匂いに近い。
胸の奥で、何かが「立ち上がる」感覚がした。 巣母のささやきとは別の、もっと細い糸のような感覚だ。
(来ている)
言葉になるより先に、身体がそう理解していた。
◆
巣母に触れられたとき、アキの頭の痛みはさらに強くなった。
「痛い?」
巣母が短く尋ねる。 アキは、首を横に振った。
実際には痛いのだが、「匂い読み」が痛いのは、別に珍しいことではない。
子どもの頃、高い熱を出したことがある。
目の奥が焼けるように熱くなって、数日間、何も見えなかった。 その代わりに、匂いだけがやたらと鮮やかになった。
畳の匂い、雨の匂い、人の怒りの匂い、悲しみの匂い――すべてが鼻の奥で色になって渦を巻いた。
熱が引いたあと、母親はアキの額に手を当てて「頭が長くなった」と笑った。
同じ頃、巣母に連れられて巣に来た年長の子が、「匂い読み」の役目を教えてくれた。
(鼻の奥に、豆みたいな玉があるんだ。そこが他の奴よりでっかいと、お前みたいになる)
意味はよく分からなかったが、アキはそれ以来、自分の頭の前の方に「匂いの玉」が入っているものだと思ってきた。
今、その玉が膨らんで、頭蓋骨の内側を押している。
巣母はアキの額にそっと指を押し当てた。 指先からささやきが入り込んでくる。
(今日も、外だ) (海の匂いを、見ろ)
それを聞いた瞬間、鉄の匂いがさらに濃くなった。
◆
海までの道は、よく知っている。
割れたアスファルトの上を、草を踏み分けて進む。
アキの後ろには、見張り役の少年と、運び手の女が一人ついてきている。 今日は狩りではない。匂いを見る日だ。
風が斜面を駆け上がってくる。
潮の匂い。腐った海藻の匂い。崩れたコンクリートの粉っぽさ。 それらが混ざり合ういつもの「海の匂い」の中に、やはりあの鉄が混じっていた。
「鼻、どう?」
少年が訊く。 彼はまだ「匂い読み」ではないが、アキの顔色でおおよその状況を読む術を覚えつつある。
「うるさい」
アキは正直に答えた。
「鉄が、叫んでる。海の上から」
少年が、不安そうに海の方を見た。
砂浜に出ると、鉄の匂いはさらに強くなった。 昨日までと決定的に違うのは、「どこから来ているか」がはっきりと分かることだ。
上だ。
風に乗ってくるのではない。 海からだけでもない。空から、まっすぐ降ってくる。
アキは無意識に、眉間を押さえた。
鼻の奥の玉が、上を向いて膨らんでいるような感覚がする。 匂いが線になって、空の一点から垂れてきているのが見えるようだった。
砂を踏みしめ、波打ち際まで歩いていく。
海面は、少し荒れている。 遠くの方、水平線の近くで、小さな白い泡が規則的に立ち上がっては消えていた。
(そこじゃない)
アキの中の何かが、否定した。
もっと近い。もっと高い。 視線だけでは見えない位置。
耳の中で、キーンという音がした。
それは、あの日、夜の海辺で空の光を見た時と同じ音だ。 ただし、今日はもっとはっきりしている。低い唸りと高い笛の音が重なったような、不快な響き。
「アキ?」
後ろから呼ぶ声で、我に返った。 運び手の女が、心配そうにこちらを見ている。彼女には、この匂いは弱くしか届いていないのだろう。
「・・巣母に伝える」
アキはそれだけ言って、海に背を向けた。
◆
巣母は、体育館の端で布を干していた。 獲物の血が染み込んだ布を海水で洗い、干して、また使う。
巣の布は常に足りない。新しい布を手に入れた記憶は、アキにはない。
「鉄が、落ちてきてる」
アキは回りくどい前置きなしにそう言った。
巣母は、洗濯紐から手を離し、アキを見た。
彼女の目は、巣の誰よりも「奥」に焦点を合わせる癖がある。 アキの額の向こう側――匂いの玉があると、本人が信じている場所を真っ直ぐ見ているように感じる。
「どこから?」
「空の上から。海の匂いとも違う。・・前に、お腹の中で感じた匂いに似てる」
自分でも、妙な言い方だと思った。
何年か前、まだ巣母が別の子どもを身籠っていた頃、アキは彼女の腹に耳を押し当てたことがある。
そのとき、かすかに鉄のような匂いを感じたのだ。 血の匂いと似ているが、もう少し冷たく、機械に近い匂い。
それを「お腹の中の匂い」として、どこかで覚えていた。
巣母は、小さく息を吸った。
「巣の外の鉄? 内の鉄?」
外。 中。
アキは、言葉の意味を噛みしめた。
「外。・・でも、中に入りたがってる」
その瞬間、巣母の瞳の奥で、ささやきが揺れたのを感じた。
(まだ早い) (でも、無視はできない)
巣母は布から手を離し、手を拭いた。
「吠え場が、動いているかもしれない」
「吠え場?」
「鉄の匂いを、奴らも嗅いでいれば、吠えるわ。南を見てきて」
アキは頷き、体育館を飛び出した。
◆
学校の校舎を抜け、南の崩れた住宅地へ向かう。
ここは、吠え場の連中の縄張りに近い。 境界線を越えないように、アキは慎重に足を運んだ。
途中で、キが追いついてきた。
「どこ行くの」
腕の包帯は新しいものに替わっているが、その下で傷はまだ治りきっていないはずだ。 彼女はそれでも、走るのを止めない。
「吠え場を見る」
「鉄の匂い?」
アキが頷くと、キは鼻をすん、と鳴らした。
「わたしにも分かるよ。・・頭の皮の下が、びりびりする」
キは「皮型」だ。 皮膚の常在菌たちと強くつながっている。彼女は接触に敏感で、その代わり、匂いには鈍いと思われていた。
だが、今日は違う。
「前みたいな、雨の匂いじゃない。もっと、硬い匂い」
彼女の言葉はいつも感覚的で、抽象的だ。 アキは、それを自分の鼻の中で形にする。
雨。 柔らかい匂い。
今日の鉄は、それとは反対だ。乾いていて、硬くて、形を変えない。
(鼻の玉が、大きくなっていく)
歩くたびに、額の奥が鼓動と一緒にドクンと鳴る。
視界の端に、匂いの筋が見える。 吠え場の方角からも、別の鉄の匂いが細く伸びてきている。
◆
吠え場の手前の高台に登ると、南の住宅群が見渡せた。
崩れた家々。 骨組みだけ残ったマンション。 その間を、何かが走り回っている。
吠え声が上がった。
ワォォォン。
短く、鋭く、途切れのない吠え。 アキの鼻に、別の匂いが流れ込んできた。
汗と血と、乾いた唾液。 それに交じって、鉄。吠え場の連中の体臭に、見慣れない鉄の層が重なっていた。
「奴らも嗅いでる」
アキが低く言うと、キが唇を噛んだ。
「・・先に見つけたの、どっちだろ」
吠え場の方から、何かが「こちらを見ている」感覚がした。 レンの声は聞こえないが、彼の群れが、山の上の匂い読みの気配を嗅ぎ取っているのかもしれない。
そのとき、空気がわずかに変わった。
風が一瞬止まり、次の瞬間、別の方向から吹き始める。 鉄の匂いが、はっきりとした線になって、アキの鼻を打った。
上だ。 頭上。
「・・伏せろ!」
言うより早く、身体が動いていた。
アキはキの腕を引き、崩れたブロック塀の陰に身を隠した。胸を地面に押し付け、息を潜める。
空を、何かが通り過ぎた。
音はほとんどない。 しかし、匂いははっきりしていた。
焼けた金属。 滑らかな油。 人の皮膚の匂いが、その下にごく薄く貼り付いている。
――鉄で包んだ、人間。
頭の奥で、匂いが形になる。
アキは、そっと目だけを上げた。
視界の端に、一瞬だけ、光るものが見えた。 鳥より少し大きい影が、白い腹をちらりと見せて通り過ぎ、遠くの高台の向こうへ消えていく。
「あれ・・」
キが、小さく声を漏らした。
「空の魚、みたい」
アキは答えなかった。 喉が乾いて、声が出なかった。
鼻の奥の玉が、今までで一番膨らんでいる。 痛みはあるが、それ以上に、匂いが鮮やかだ。
鉄の線が、空から地面へ、そこからどこかへと伸びて行くのが、色付きの糸のように見えた。
「巣母に伝えないと」
アキは、ようやく言葉を搾り出した。
◆
巣に戻る途中、世界の匂いが微妙に変わっていることに気づいた。
港の残骸から立ち上る鉄の匂いと、 吠え場の鉄、 それから――空から来た鉄。
それぞれの鉄が、違う色を持つようになった。
港の鉄は茶色で、吠え場の鉄は黒。空の鉄は、白い。
鼻で色を見るなんて、昔のアキには考えられなかった。 今は、それが当たり前に感じられる。嗅いだ瞬間、頭の中に色と形が浮かぶ。
嗅球――鼻の奥の玉――を通して、匂いが「地図」になっていく。
巣の入口の前で、巣母が待っていた。 彼女の鼻も、わずかに赤くなっているように見えた。
「見た?」
「見た。・・鉄の魚。鉄の人たち」
アキは、空を指差しながら説明した。
言葉にならない匂いを、何とか形にしようとする。巣母は黙って聞いていた。
「港の鉄じゃない。吠え場の鉄とも違う。・・巣の中の、血の匂いの鉄に、一番近い」
巣母の瞳が、わずかに揺れた。
「お腹の匂い?」
「そう。あのときと同じ」
巣母は、自分の腹にそっと手を当てた。 その動きに反応するように、巣のささやきがざわりと揺れる。
(来る) (外から) (中に入りたがっている)
巣母は、短く息を吐いた。
「聞こえる?」
「何が?」
「ささやきの“音”が、変わってきてる」
アキは、巣母に促されるように目を閉じた。
巣の呼吸。子どもたちの寝息。吠え場の遠吠え。海のざわめき。 それらの下に、もう一つ、細い「線」のようなささやきが混じっているのが分かった。
それは、まだ巣とはつながっていない。 吠え場とも違う。
けれど、まったくの外でもない。どこか、懐かしいような、胸の奥をくすぐるような、奇妙なニュアンスを持っている。
「・・聞こえる」
アキはそう答えた。
「巣の外の声。でも、巣母みたいな声」
巣母は、ほとんど笑いそうになった顔で、しかし笑わずに頷いた。
「鉄の匂いの人たちが、近くに来る。吠え場も、それを追う。島は、今までと違う“風”になる」
巣母の声が、巣全体に広がっていく。
(見ろ) (嗅げ) (選べ)
ささやきの調子が、わずかに変わった。 命令ではなく、「問い」に近い揺れが混じる。
アキの嗅球――鼻の奥の玉――を通して、匂いが「地図」になっていく。
(外から来た鉄に、どれくらい近づくのか) (どこまで中に入れるのか)
その答えは、まだ匂いの形を持っていない。 ただ、世界の匂いのパターンが、確かに変わり始めていることだけは、はっきり分かった。
夕方、風向きが変わって、鉄の匂いは少し薄れた。 だが、アキの中の鼻の玉は、しぼむことはなかった。
世界に、新しい匂いの色が増えた。 それはもう、前の世界には戻らないという予感と、一緒にあった。
♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠
読むための手助け用語・世界観ノート 8
■ 「匂い読み」と共感覚 アキの能力は、ただ鼻が良いだけではありません。 匂いが「色」や「線」に見えたり、「音」として聞こえたりする「共感覚」です。 脳の中の「鼻の玉(嗅球)」が発達しすぎて、視覚や聴覚の回路と混線している状態。 だからこそ、言葉では説明できない「鉄の感情(叫び)」まで感じ取ることができるのです。
■ 鉄の匂いの三色 アキが感じた「鉄」の違いは、それぞれの集団の性質を表しています。
港の鉄(茶色):錆びた廃墟。死んだ過去の文明。
吠え場の鉄(黒色):血と泥にまみれた武器やガラクタ。暴力と野蛮の象徴。
空の鉄(白色):ユウたちの宇宙船。清潔で、精巧で、冷たい科学の象徴。
■ 「お腹の匂い」と「空の鉄」 アキが、空から来たユウたちの匂いを「巣母のお腹の中(胎児)」の匂いと似ていると感じたのは何故でしょう? それはどちらも「守られた、清潔な命の匂い」だからです。 地球の厳しい環境で泥にまみれて生きるアキたちと違って、ユウも胎児も「無菌のカプセル」の中で育った存在。 この直感が、彼らが敵ではないかもしれないという予感に繋がっています。
■ 選べ、という問い 今までの「ささやき」は、「増えろ」「逃げろ」といった単純な命令でした。 でも、異質な存在が現れたことで、巣のウイルスも進化を迫られています。 「あいつらを受け入れるか、拒絶するか?」 この問いは、群れ全体が次のステージへ進むための試練なのです。




