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第八話 鉄の匂いの人たち

朝、世界が「うるさく」なっていた。

アキは、鼻の奥の痛みで目を覚ました。

頭の前のほう――眉間の少し上あたりが、内側からじんじんと押されている。 殴られたわけでもないのに、そこだけ熱を持っていた。

息を吸う。 汗。血。たくさんの皮膚。

巣の中の匂いはいつもと同じはずなのに、その上から別の層が重なっていた。

――鉄だ。

錆びた鉄ではない。港の残骸や倒れた電柱の匂いとは違う。 もっと鋭くて、冷たい。熱いのに腐っていない、焼いた石の匂いに近い。

胸の奥で、何かが「立ち上がる」感覚がした。 巣母のささやきとは別の、もっと細い糸のような感覚だ。

(来ている)

言葉になるより先に、身体がそう理解していた。

巣母に触れられたとき、アキの頭の痛みはさらに強くなった。

「痛い?」

巣母が短く尋ねる。 アキは、首を横に振った。

実際には痛いのだが、「匂い読み」が痛いのは、別に珍しいことではない。

子どもの頃、高い熱を出したことがある。

目の奥が焼けるように熱くなって、数日間、何も見えなかった。 その代わりに、匂いだけがやたらと鮮やかになった。

畳の匂い、雨の匂い、人の怒りの匂い、悲しみの匂い――すべてが鼻の奥で色になって渦を巻いた。

熱が引いたあと、母親はアキの額に手を当てて「頭が長くなった」と笑った。

同じ頃、巣母に連れられて巣に来た年長の子が、「匂い読み」の役目を教えてくれた。

(鼻の奥に、豆みたいな玉があるんだ。そこが他の奴よりでっかいと、お前みたいになる)

意味はよく分からなかったが、アキはそれ以来、自分の頭の前の方に「匂いの玉」が入っているものだと思ってきた。

今、その玉が膨らんで、頭蓋骨の内側を押している。

巣母はアキの額にそっと指を押し当てた。 指先からささやきが入り込んでくる。

(今日も、外だ) (海の匂いを、見ろ)

それを聞いた瞬間、鉄の匂いがさらに濃くなった。

海までの道は、よく知っている。

割れたアスファルトの上を、草を踏み分けて進む。

アキの後ろには、見張り役の少年と、運び手の女が一人ついてきている。 今日は狩りではない。匂いを見る日だ。

風が斜面を駆け上がってくる。

潮の匂い。腐った海藻の匂い。崩れたコンクリートの粉っぽさ。 それらが混ざり合ういつもの「海の匂い」の中に、やはりあの鉄が混じっていた。

「鼻、どう?」

少年が訊く。 彼はまだ「匂い読み」ではないが、アキの顔色でおおよその状況を読む術を覚えつつある。

「うるさい」

アキは正直に答えた。

「鉄が、叫んでる。海の上から」

少年が、不安そうに海の方を見た。

砂浜に出ると、鉄の匂いはさらに強くなった。 昨日までと決定的に違うのは、「どこから来ているか」がはっきりと分かることだ。

上だ。

風に乗ってくるのではない。 海からだけでもない。空から、まっすぐ降ってくる。

アキは無意識に、眉間を押さえた。

鼻の奥の玉が、上を向いて膨らんでいるような感覚がする。 匂いが線になって、空の一点から垂れてきているのが見えるようだった。

砂を踏みしめ、波打ち際まで歩いていく。

海面は、少し荒れている。 遠くの方、水平線の近くで、小さな白い泡が規則的に立ち上がっては消えていた。

(そこじゃない)

アキの中の何かが、否定した。

もっと近い。もっと高い。 視線だけでは見えない位置。

耳の中で、キーンという音がした。

それは、あの日、夜の海辺で空の光を見た時と同じ音だ。 ただし、今日はもっとはっきりしている。低い唸りと高い笛の音が重なったような、不快な響き。

「アキ?」

後ろから呼ぶ声で、我に返った。 運び手の女が、心配そうにこちらを見ている。彼女には、この匂いは弱くしか届いていないのだろう。

「・・巣母に伝える」

アキはそれだけ言って、海に背を向けた。

巣母は、体育館の端で布を干していた。 獲物の血が染み込んだ布を海水で洗い、干して、また使う。

巣の布は常に足りない。新しい布を手に入れた記憶は、アキにはない。

「鉄が、落ちてきてる」

アキは回りくどい前置きなしにそう言った。

巣母は、洗濯紐から手を離し、アキを見た。

彼女の目は、巣の誰よりも「奥」に焦点を合わせる癖がある。 アキの額の向こう側――匂いの玉があると、本人が信じている場所を真っ直ぐ見ているように感じる。

「どこから?」

「空の上から。海の匂いとも違う。・・前に、お腹の中で感じた匂いに似てる」

自分でも、妙な言い方だと思った。

何年か前、まだ巣母が別の子どもを身籠っていた頃、アキは彼女の腹に耳を押し当てたことがある。

そのとき、かすかに鉄のような匂いを感じたのだ。 血の匂いと似ているが、もう少し冷たく、機械に近い匂い。

それを「お腹の中の匂い」として、どこかで覚えていた。

巣母は、小さく息を吸った。

「巣の外の鉄? 内の鉄?」

外。 中。

アキは、言葉の意味を噛みしめた。

「外。・・でも、中に入りたがってる」

その瞬間、巣母の瞳の奥で、ささやきが揺れたのを感じた。

(まだ早い) (でも、無視はできない)

巣母は布から手を離し、手を拭いた。

「吠え場が、動いているかもしれない」

「吠え場?」

「鉄の匂いを、奴らも嗅いでいれば、吠えるわ。南を見てきて」

アキは頷き、体育館を飛び出した。

学校の校舎を抜け、南の崩れた住宅地へ向かう。

ここは、吠え場の連中の縄張りに近い。 境界線を越えないように、アキは慎重に足を運んだ。

途中で、キが追いついてきた。

「どこ行くの」

腕の包帯は新しいものに替わっているが、その下で傷はまだ治りきっていないはずだ。 彼女はそれでも、走るのを止めない。

「吠え場を見る」

「鉄の匂い?」

アキが頷くと、キは鼻をすん、と鳴らした。

「わたしにも分かるよ。・・頭の皮の下が、びりびりする」

キは「皮型」だ。 皮膚の常在菌たちと強くつながっている。彼女は接触に敏感で、その代わり、匂いには鈍いと思われていた。

だが、今日は違う。

「前みたいな、雨の匂いじゃない。もっと、硬い匂い」

彼女の言葉はいつも感覚的で、抽象的だ。 アキは、それを自分の鼻の中で形にする。

雨。 柔らかい匂い。

今日の鉄は、それとは反対だ。乾いていて、硬くて、形を変えない。

(鼻の玉が、大きくなっていく)

歩くたびに、額の奥が鼓動と一緒にドクンと鳴る。

視界の端に、匂いの筋が見える。 吠え場の方角からも、別の鉄の匂いが細く伸びてきている。

吠え場の手前の高台に登ると、南の住宅群が見渡せた。

崩れた家々。 骨組みだけ残ったマンション。 その間を、何かが走り回っている。

吠え声が上がった。

ワォォォン。

短く、鋭く、途切れのない吠え。 アキの鼻に、別の匂いが流れ込んできた。

汗と血と、乾いた唾液。 それに交じって、鉄。吠え場の連中の体臭に、見慣れない鉄の層が重なっていた。

「奴らも嗅いでる」

アキが低く言うと、キが唇を噛んだ。

「・・先に見つけたの、どっちだろ」

吠え場の方から、何かが「こちらを見ている」感覚がした。 レンの声は聞こえないが、彼の群れが、山の上の匂い読みの気配を嗅ぎ取っているのかもしれない。

そのとき、空気がわずかに変わった。

風が一瞬止まり、次の瞬間、別の方向から吹き始める。 鉄の匂いが、はっきりとした線になって、アキの鼻を打った。

上だ。 頭上。

「・・伏せろ!」

言うより早く、身体が動いていた。

アキはキの腕を引き、崩れたブロック塀の陰に身を隠した。胸を地面に押し付け、息を潜める。

空を、何かが通り過ぎた。

音はほとんどない。 しかし、匂いははっきりしていた。

焼けた金属。 滑らかな油。 人の皮膚の匂いが、その下にごく薄く貼り付いている。

――鉄で包んだ、人間。

頭の奥で、匂いが形になる。

アキは、そっと目だけを上げた。

視界の端に、一瞬だけ、光るものが見えた。 鳥より少し大きい影が、白い腹をちらりと見せて通り過ぎ、遠くの高台の向こうへ消えていく。

「あれ・・」

キが、小さく声を漏らした。

「空の魚、みたい」

アキは答えなかった。 喉が乾いて、声が出なかった。

鼻の奥の玉が、今までで一番膨らんでいる。 痛みはあるが、それ以上に、匂いが鮮やかだ。

鉄の線が、空から地面へ、そこからどこかへと伸びて行くのが、色付きの糸のように見えた。

「巣母に伝えないと」

アキは、ようやく言葉を搾り出した。

巣に戻る途中、世界の匂いが微妙に変わっていることに気づいた。

港の残骸から立ち上る鉄の匂いと、 吠え場の鉄、 それから――空から来た鉄。

それぞれの鉄が、違う色を持つようになった。

港の鉄は茶色で、吠え場の鉄は黒。空の鉄は、白い。

鼻で色を見るなんて、昔のアキには考えられなかった。 今は、それが当たり前に感じられる。嗅いだ瞬間、頭の中に色と形が浮かぶ。

嗅球――鼻の奥の玉――を通して、匂いが「地図」になっていく。

巣の入口の前で、巣母が待っていた。 彼女の鼻も、わずかに赤くなっているように見えた。

「見た?」

「見た。・・鉄の魚。鉄の人たち」

アキは、空を指差しながら説明した。

言葉にならない匂いを、何とか形にしようとする。巣母は黙って聞いていた。

「港の鉄じゃない。吠え場の鉄とも違う。・・巣の中の、血の匂いの鉄に、一番近い」

巣母の瞳が、わずかに揺れた。

「お腹の匂い?」

「そう。あのときと同じ」

巣母は、自分の腹にそっと手を当てた。 その動きに反応するように、巣のささやきがざわりと揺れる。

(来る) (外から) (中に入りたがっている)

巣母は、短く息を吐いた。

「聞こえる?」

「何が?」

「ささやきの“音”が、変わってきてる」

アキは、巣母に促されるように目を閉じた。

巣の呼吸。子どもたちの寝息。吠え場の遠吠え。海のざわめき。 それらの下に、もう一つ、細い「線」のようなささやきが混じっているのが分かった。

それは、まだ巣とはつながっていない。 吠え場とも違う。

けれど、まったくの外でもない。どこか、懐かしいような、胸の奥をくすぐるような、奇妙なニュアンスを持っている。

「・・聞こえる」

アキはそう答えた。

「巣の外の声。でも、巣母みたいな声」

巣母は、ほとんど笑いそうになった顔で、しかし笑わずに頷いた。

「鉄の匂いの人たちが、近くに来る。吠え場も、それを追う。島は、今までと違う“風”になる」

巣母の声が、巣全体に広がっていく。

(見ろ) (嗅げ) (選べ)

ささやきの調子が、わずかに変わった。 命令ではなく、「問い」に近い揺れが混じる。

アキの嗅球――鼻の奥の玉――を通して、匂いが「地図」になっていく。

(外から来た鉄に、どれくらい近づくのか) (どこまで中に入れるのか)

その答えは、まだ匂いの形を持っていない。 ただ、世界の匂いのパターンが、確かに変わり始めていることだけは、はっきり分かった。

夕方、風向きが変わって、鉄の匂いは少し薄れた。 だが、アキの中の鼻の玉は、しぼむことはなかった。

世界に、新しい匂いの色が増えた。 それはもう、前の世界には戻らないという予感と、一緒にあった。




♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠




読むための手助け用語・世界観ノート 8


■ 「匂い読み」と共感覚 アキの能力は、ただ鼻が良いだけではありません。 匂いが「色」や「線」に見えたり、「音」として聞こえたりする「共感覚シナスタジア」です。 脳の中の「鼻の玉(嗅球)」が発達しすぎて、視覚や聴覚の回路と混線している状態。 だからこそ、言葉では説明できない「鉄の感情(叫び)」まで感じ取ることができるのです。

■ 鉄の匂いの三色 アキが感じた「鉄」の違いは、それぞれの集団の性質を表しています。

港の鉄(茶色):錆びた廃墟。死んだ過去の文明。

吠え場の鉄(黒色):血と泥にまみれた武器やガラクタ。暴力と野蛮の象徴。

空の鉄(白色):ユウたちの宇宙船。清潔で、精巧で、冷たい科学の象徴。

■ 「お腹の匂い」と「空の鉄」 アキが、空から来たユウたちの匂いを「巣母のお腹の中(胎児)」の匂いと似ていると感じたのは何故でしょう? それはどちらも「守られた、清潔な命の匂い」だからです。 地球の厳しい環境で泥にまみれて生きるアキたちと違って、ユウも胎児も「無菌のカプセル」の中で育った存在。 この直感が、彼らが敵ではないかもしれないという予感に繋がっています。

■ 選べ、という問い 今までの「ささやき」は、「増えろ」「逃げろ」といった単純な命令でした。 でも、異質な存在ユウたちが現れたことで、巣のウイルスも進化を迫られています。 「あいつらを受け入れるか、拒絶するか?」 この問いは、群れ全体が次のステージへ進むための試練なのです。

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