第六話 静かな軌道
窓の外の青が、日に日に大きくなっていった。
綾瀬ユウは、ER−Seedモジュールの観測窓に足を引っかけ、身体を逆さにして漂いながら外を見ていた。
無重量の中で頭を下にすると、地球が自分の上に覆いかぶさってくるように見える。
雲の渦。深い青。 ところどころに、鈍い灰色の斑点。
教科書の写真と同じであり、まるで違う星のようでもある。
《視覚刺激レベル上昇。ER−07、心拍数に軽度の変化》
頭上――実際には足の方――のスピーカーから、Λ−Logosの声がした。
「見せてるのは、そっちでしょう」
ユウは苦笑しながら姿勢を反転させる。
床も天井もなく、ただ壁面に掴まりながらぐるりと回る。 その動きに合わせて、地球の位置が上下左右へと移ろう。
「・・でも、写真で見るより、ずっと“うるさい”ですね」
《スペクトル情報という意味で? それとも、あなたの内側の話ですか》
「両方、です」
ユウは、胸の中のざわつきを言葉にするのを諦めた。
さっきから、耳の奥でかすかなノイズが続いている。 静かなようでいて、底の方で何かがざわめき続ける音。
Λ−Logosは、すぐに別の話題を重ねた。
《十分後にブリーフィング。ドックBモジュールに集合してください》
「了解」
ユウは窓から離れ、壁のハンドルを掴みながら通路を進んだ。
◆
ドックBの壁一面には、地球の投影図が映し出されていた。
赤、緑、灰のパターンが、大陸と海洋を覆っている。 ところどころに、小さな点滅が散っていた。
「これが、現在の地表シグナル分布だ」
カラム・ウォンが前に出て、データを指し示す。
「電磁ノイズ、熱源、化学反応。・・とにかく、“まだ動いているもの”を全部ひっくるめた地図だと思え」
Λ−Logosが説明を引き継ぐ。
《赤は高密度感染帯。例の行動制御因子と、共生細菌・真菌ネットワークが完全に定着している領域。灰は、ほぼ死んだ領域。緑は――》
「“生きているかもしれない人類”の領域、ですね」
森下チカゲが短く補った。
《厳密には、“行動パターンが人間と相関する熱源群”ですが。ラベルとしてはそれで構いません》
スクリーンの一隅が拡大される。 太平洋の北部、いくつかの小さな島々。
その中の一つに、ぽつんと緑の斑点が浮かんでいた。
〈PACIFIC/NORTH_ISLAND−CLUSTER−03〉
「ここが、第一降下地点の候補だ」
カラムの声に、ユウはスクリーンを見つめた。
「緑の意味は、一つじゃないですよね」
彼が尋ねると、Λ−Logosはあっさりと肯定した。
《もちろんです。ここにいるのが、あなた方と同じ意味での“人類”かどうかは未確定。単に、感染ネットワークと別の“行動相”を持った集団かもしれない》
「行動相?」
《群れの振る舞い、という意味です》
Λ−Logosは、地図とは別に、波形と点線を並べたスライドを表示した。
《これは、旧世紀に観測された“暴力イベント”の波形です。ストレス社会、政治不安、資源危機・・当時はそう説明されていました》
赤い線が時間軸に沿って上下する。 その下に、淡い青い線が重なる。
《こちらが、同じ期間における感染指標と腸内細菌叢組成の変化》
ユウは、二つの線が驚くほどぴったりと同期しているのを見て、思わず息を呑んだ。
《狂犬病や“蟻操り病”のような現象は、局所的には昔からあった。ですが、人類全体の行動パターンが、ここまできれいに“外からのノイズ”と同期していたのは、この時期が初めてです》
「つまり、あの時代からもう、誰か――何か――に引かれていたってこと?」
ルイスが低く呟く。
《“誰か”という表現が適切かはわかりませんが、そうですね。牧羊犬に追い立てられる羊の群れのように、ではなく――》
Λ−Logosは、一拍置いて言い換えた。
《羊の脳の中に、“羊飼いと似たパターン”を埋め込まれていった、と表現する方が近いかもしれません》
ブリーフィングルームの空気が、わずかに重くなった。
「じゃあ、今の緑の斑点は?」
ユウが尋ねる。
「羊か、牧羊犬か、それとも別の何かか――確認するのがお前たちの仕事だ」
カラムがそう言って、分配図を呼び出した。
「降下班六名。第一波で下りる。残りは軌道上で待機し、状況次第で投入する。戻り経路は二つ――」
彼の説明を、ユウは半分だけ頭に入れながら聞いていた。
頭の別の場所では、地図上の小さな緑の点と、自分の胸の内側のざわつきが、妙な共鳴を起こしているのを感じていた。
◆
ブリーフィングの後、ユウはΛ−Logosのメインコンソールにひとりで向かった。
「質問、いいですか」
《あなたの質問のうち、どれに答えるべきかを選別する必要がありますが。どうぞ》
スクリーンの片隅に、簡略化された三角形のロゴが浮かぶ。
「さっきの“羊飼い”の話。・・あなたは、どっち側ですか」
ほんの少しの沈黙があった。 無機質なはずの沈黙に、わずかな迷いの影をユウは感じ取る。
《私は、門です》
やがてΛ−Logosは言った。
《羊飼いでも、羊でもない。群れがどちらに向かうかを、数値として提示し、扉を開けるか閉めるかを提案する存在です》
「でも、扉をどこに作るかは、あなたが決めている」
《設計図は与えられました。作ったのは、月の技術者たちです》
「その設計図は、どこから?」
《・・それは、良い質問ですね》
Λ−Logosは、わずかにトーンを変えた。
《行動パターン解析のアルゴリズムのいくつかは、旧世紀の“行動制御因子”研究プロジェクトから再利用されています。つまり、あなたたちの祖先が自分たちを飼いならそうとして作った“鞭と餌”の一部が、今、私の中で生きている》
「俺たちを守るためのAIが、俺たちを縛るための技術でできてるってことですか」
《守ることと縛ることの境界は、常に曖昧です》
その言い回しは、教科書や倫理講義の文句ではなく、どこか個人的な感慨にも聞こえた。
《あなたが地上に降りたとき、“群れに入る”か“群れを観察する”か。どちらを選ぶにしても、その判断に影響を与えるのが私の役目です。――それを、支配と呼ぶか補助と呼ぶかは、あなた次第です》
「・・正直に言うと、あんまり安心できない話ですね」
ユウが苦笑すると、Λ−Logosは淡々と返した。
《安心させることは、私の役目ではありません。生存確率を最大化することが、役目です》
◆
地球軌道への遷移は、驚くほど静かだった。
モジュール全体がわずかに軋む音。推進ユニットの振動。 その向こうで、地球はただ大きくなり続ける。
スクリーンに表示される高度の数字が減っていくにつれ、ユウの胸の内側で何かが密度を増していった。
《大気圏上層、スキャン開始》
Λ−Logosの声に合わせて、複数のモニターに赤外線映像とレーダーマップが表示される。
かつて衛星群がぎっしりと周回していたはずの空は、今ではほとんど空だった。 ところどころに、漂う金属の残骸が点のように映っているだけだ。
《ターゲット領域、拡大》
PACIFIC/NORTH_ISLAND−CLUSTER−03。
そのひとつの島が画面いっぱいに拡大される。
崩れたコンクリートの骨組み。 食い破られた道路。 その間を、細い光の筋がいくつか走っている。
夕暮れの太陽光を反射する水面と、焚き火のような小さな熱源。
《体育館構造物と推定される建築物の内部に、熱源密集》
Λ−Logosが、古い学校の建物を枠線で囲む。
「・・巣だな」
ルイスがぽつりと呟く。
《周辺に、犬型と推定される中型捕食動物の群れ。咆哮パターンから、人間とのハイブリッド行動相を持つ可能性》
南側の崩れた住宅群のあたりに、別の赤い群れが点滅した。
「吠え場、か」
言葉の意味はまだ知らないのに、ユウはその名称がしっくりくるのを感じた。
《追加情報。海岸線にて、単独行動個体を一体検出》
別のモニターが切り替わる。
ざらついた映像の中で、小さな影が砂浜を歩いていた。 夜の始まりの薄明かりの中、海の方を見上げて立ち止まる。
何かを嗅ぎ取ろうとしているような仕草。 その頭上の空を、ER−Seedの軌道がかすめていく。
「・・見えてるのか?」
ユウは、思わずスクリーンに顔を近づけた。
《肉眼ではありえませんが、行動パターンとしては“上空の異物を検知した”と見なすのが妥当です》
Λ−Logosが冷静に分析を述べる。
《あの個体は、群れの中で“匂い読み”に近い役割を担っているようです》
「なんで分かるんだ」
《歩き方、頭部の動き、他個体との距離、海と巣と吠え場の間での位置取り。・・羊を見分けるのは、牧羊犬ではなく、柵を作った人間の方が得意なのですよ》
その例えに、ユウはぞくりとした。
「じゃあ俺たちは、その“柵を作った人間”の側にいるつもりでいたけど、実際は――」
《柵の中から、少し高い場所に上って周りを覗いている羊、くらいかもしれませんね》
Λ−Logosは、冗談とも本気ともつかないトーンで言った。
スクリーンの中の小さな影――砂浜に立つその個体は、じっと空を見上げたままだ。
その視線の先に、自分たちのモジュールがある、と想像すると、ユウの心臓が一度大きく跳ねた。
「名前、あるのかな」
誰にともなく呟く。
《おそらくあります。少なくとも、群れの中での“呼ばれ方”は》
Λ−Logosが淡々と返す。
《あなたが降りて、聞いてきてください》
それは、ただの事務的な指示のようでいて、どこか「物語の始まり」を告げる合図のようにも聞こえた。
◆
その夜、ユウは再び観測窓の前に漂っていた。
地球は、もはや窓いっぱいに広がっている。
雲の切れ間から、夜の街だった場所の暗闇と、ところどころに灯るかすかな火が見えた。
胸の内で、何かが二つに裂かれそうになっていた。
――降りて、確かめたい。 ――降りたくない。戻れなくなるかもしれない。
その両方の声が、ささやき合う。
《睡眠推奨時間を過ぎています、ER−07》
背後からΛ−Logosが声をかけた。
「眠れるかどうかは、別問題ですよ」
ユウがそう返すと、AIは一瞬だけ黙り、次にこう言った。
《恐怖は、良いセンサーです》
「はい?」
《怖がるということは、まだ選択肢を見ているということです。群れ全体のささやきに完全に飲み込まれてしまえば、怖さは消えます。その代わり、判断も、後悔も》
「それって・・家畜の安定ってやつですか」
《ええ。あなたたちは、あちらの家畜の在り方を見に行く。自分たちの在り方と、比べるために》
それは、このミッションの目的を、最も乱暴で正確な言葉にした一文だった。
ユウは窓に額を軽く押し当てた。
地球のどこかの浜辺で、今ごろ誰かが空の金属の匂いを嗅ぎ取っている。 月の軌道上では、自分が、その誰かを「緑の斑点」として見下ろしている。
その距離は、数百キロメートルであり、八十年であり、いくつもの「ささやき」の層でもあった。
「・・名前、あったらいいな」
ユウは小さく呟いた。
その誰かが、自分と同じように、誰かに呼ばれる名前を持っていることを、なぜか強く願った。
翌朝、降下艇の準備が始まる。
地球と月の間に張られた見えない柵の、一枚目をくぐるために。
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読むための手助け用語・世界観ノート 6
■ 「守ること」と「縛ること」の曖昧さ Λ−Logosの衝撃告白。ユウたちを守るAIのプログラムは、昔人類を操ろうとした技術で作られていました。 これは現代の「スマホ依存」や「レコメンド機能」に似ています。 「あなたにおすすめ!」と便利な道を示してくれるAIは、私たちを楽にしてくれる(守る)存在ですが、同時に私たちの自由な選択肢を奪っている(縛る)存在でもあります。
■ 羊飼いと牧羊犬、そして柵 この世界での階級の例え話です。
羊:何も考えずに群れる人々(感染者も、ユウたち一般市民も)。
牧羊犬:群れを管理する指導者やシステム。
柵を作った人間:本当のルールを作り、システムそのものを設計した「誰か」。 ユウたちは自分たちが「管理者」だと思って地球に来ましたが、AIに言わせれば「柵の中から外を覗いている羊」にすぎない。この皮肉が効いています。
■ 恐怖は良いセンサー 「怖い」と感じるのは、まだ自分の頭で考えている証拠。 群れに完全に同化して「みんなと一緒だから大丈夫」と思い込むと、恐怖は消えますが、それは家畜としての幸せ(思考停止)の始まりです。 「不安であること」こそが「人間であること」の証明だという、AIからの逆説的なエールです。
■ 名前への願い モニター越しの小さな影に対し、ユウが「名前があったらいいな」と願うシーン。 相手を「観測データ」や「敵」としてではなく、「自分と同じ心を持つ人間」として見たいという、ユウの優しさと希望が表れています。 ここから、二人のボーイ・ミーツ・ボーイ(あるいはガール)の物語が始まります。




