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第五話 巣の女

朝の匂いは、いつも少しだけ金属っぽい。

巣母すぼは、まだ暗い巣室の中で目を覚ました。

かつて職員室だったこの部屋の天井には、雨漏りを塞いだポリシートがたわみ、そこに溜まった水がかすかに揺れている。

古い机を並べて作った寝台の上で身を起こすと、腹の中で、ぬるりとした重みがゆっくりと動いた。

――生きている。

掌を当てる。中で小さな脚か腕が押し返してくる。 その動きと、巣の中を流れている「ささやき」のリズムが、かすかに同期しているのがわかった。

(まだ早い。今日は休ませろ)

ささやきの中に、そんなニュアンスが混じっている。

巣母自身の意志なのか、巣全体の意志なのか、それをきっちりと分けて考えることを、彼女はもうやめて久しかった。

階段を降りると、体育館の床はすでに温まっていた。

夜の間に溜まった人いきれ。 汗と皮脂と、乾いた血の匂い。

それに、数時間前に鎮まったばかりの夢の残り香のようなものが、空気の層の間に漂っている。

巣母が姿を見せると、近くの寝床から何人かが上半身を起こした。

「巣母」

囁くような呼びかけ。 彼女は頷き、歩きながら一人ひとりの肩や首元、額に手を触れていった。

触れた皮膚の下で、血流の脈が指先に伝わる。

速いもの、遅いもの。 昨夜の狩りで噛まれたばかりの新しい傷の熱。 皮膚の下で広がりかけている真菌の糸。

(今日は行ける)(今日は休め) (外を回れ)(巣の中を見ておけ)

指先から流れ出ていくそれらの指示を、巣母自身は言葉としては意識していない。 ただ、触れた相手の目がわずかに変わるのを見て取る。

焦点の合っていなかった眼が、急に外を向くもの。 逆に、外を見ていた眼が、静かに内側へと沈んでいくもの。

アキの肩に手を置いたとき、巣母は少しだけ指を長く留めた。

細い骨。よく動く筋肉。鼻の奥に、外の匂いをためる癖。

彼はこの数年、「匂い読み」としての役割をよく果たしてきた。 巣の外の微かな変化を拾う感覚は、他のどの子よりも鋭い。

(今日も、外だ)

巣母の中の何かがそう告げる。 アキの胸の内で、それに呼応するように腹が鳴ったのが、指先から伝わった。

彼は短く頷いただけで、何も言わなかった。

隣にいた「キ」の腕に触れると、皮膚の下で、ざわざわと蠢くものの密度が他と違うのがわかる。

幾重にも巻かれた包帯の下では、また夜中に掻きむしった新しい傷が開いているはずだった。

(おまえは、巣の中を見ろ)

そう流し込みながら、巣母は自分の首筋に微かな痒みが立ち上がるのを感じた。

――触れたい。 ――擦りつけたい。

キと同じ「皮型」としての衝動が、自分の中にも生きている。 それを鎮めるように、腹を撫でる。

胎内の子の鼓動が、ささやきと混じり合い、巣のリズムと一体になっていく。

朝の分配が終わると、巣母はいったん巣室に戻った。

古い黒板の上には、色褪せたチョークの線が残っている。 誰かが昔「一+一=」と書きかけて、そのまま時間が止まってしまったようだ。

窓際の机には、巣の記録をつけたノートが重ねられている。 一番上のページには、最近の出産と死亡の記録が無造作に並んでいた。

〈出産:二人〉 〈死亡:一人(吠え場近く/咬傷)〉

吠え場。そこだけ、インクの色が少し濃い。

「また、出たのね」

巣母は小さく呟いた。 昨日、見張りの子どもが慌てて持ってきた報告を思い出す。

南側の崩れた住宅群のあたりで、「吠え場」の連中と境界が重なったらしい。

吠え場の者たちは、群れ方が違う。

巣の者たちが、巣母のささやきを中心に緩やかにまとまっているのに対し、吠え場の連中は、常に何かを噛み、吠え、走り続けていないといられないようだった。

彼らのささやきは、巣母にはよく聞こえない。

ただ、遠くからでも感じることができる。 「噛め」「吠えろ」「追え」という鋭い衝動の棘の集まり。

かつて、その中心にいた男の顔を、巣母は覚えている。

レン。

まだ巣母が若く、「巣母」と呼ばれる前の名で呼ばれていた頃、同じ巣で育った仲間だった。

彼は子どもの頃から、よく吠えた。 口より先に歯が出るタイプで、何かあるとすぐに噛みついた。犬と一緒に育ったわけでもないのに、声も動きも、どこか犬に似ていた。

ウイルスが彼の脳を齧り、本格的に「狂い犬」が始まる前から、その兆しはあったのかもしれない。

分かれ道は、ある日突然やってきた。

より強い群れを求めて外へ出ようとした彼と、ここに留まり、産んで育てる巣を作ろうとした彼女。

ささやきの位相が、そこで決定的にずれた。

(噛み取って増やすか、取り込んで増やすか)

巣母は、机の上のノートに指を置きながら考える。

どちらも、ささやきの命じる「増えろ」に従っているだけだ。 違いがあるとすれば、方法と速度、そして「残す形」の違いだけ。

巣室の窓の外から、遠く吠え場の方向の声がかすかに届いた。

ワォォォン――。

犬とも人ともつかない長い叫び。 その尾には、かすかな笑いにも似たニュアンスが含まれている。

群れを率いる雄の声だ。

巣母は、腹に当てた手に力を込めた。

「ここまでは、入らせない」

誰に向かってと言うでもなく、そう口に出した。 ささやきが、その言葉を確かめるように巣全体に広がっていくのを感じる。

(吠え場には近づくな) (噛むものには、噛まれる前に距離を取れ)

幼い頃から子どもたちに教えてきた言葉と同じ内容が、ささやきの波に乗っていく。

昼過ぎ、巣母は屋上に上がった。

ここだけは、まだ「学校」の名残がくっきりと残っている。 体育の授業で使ったらしい白線の跡と、サビだらけの鉄棒。

防球ネットの名残が風にはためき、その向こうに、海と街の骨組みが見えた。

潮の匂いと、コンクリートの粉っぽさ。 それに混じって、微かな鉄と油の匂いがする。どこかでまだ、機械が生きているのかもしれない。

屋上の端には、見張り役の少年が一人座っていた。 まだ十にも届かない細い背中。だが、その目は巣母と同じ方向を見ている。

「吠え場は?」

巣母が尋ねると、少年は顎を動かして南の方角を示した。

「あっち。さっきまで、三回吠えた。今は静か」

「三回?」

「うん。“獲った”ときの吠え方」

少年は、聞き慣れた調子で言った。 何度も聞いて覚えた区別なのだろう。

吠え場の連中の声には、いくつか決まったパターンがある。

獲物を見つけたとき。 仲間を呼ぶとき。 血を舐めるとき。 死んだ仲間を囲むとき。

巣母も耳を澄ませ、空気の震えを探る。 今は本当に静かだった。吠え場のささやきは、遠くで低く唸っているだけだ。

代わりに、別のものがかすかに聞こえた。

――チリ、チリ。

屋上のコンクリートの隙間から生えた小さなキノコが、風もないのに震えている。 真菌型のささやきは、いつもこんな風に「長く、静か」にそこにいる。

かつて森の中でアリを登らせたカビと同じように、今は、人間や獣の行き先を、ゆっくりと変えている。

(高いところへ) (光の当たるところへ)

そんな衝動が、時々巣の中を通り抜けることがある。

体育館の鉄骨の上に登って降りられなくなる者。 崖の縁に立って、じっと海を見下ろしたまま動かなくなる者。

巣母は、それをできるだけ早く見つけて引き戻すようにしてきた。

――落ちて死なせるには、まだ数が足りない。

それは巣母自身の意志の言葉であり、ささやきの言葉でもあった。

夕方、巣に戻ると、狩り班が帰ってきていた。

体育館の床に広げられた獲物。 イノシシに似た獣の半身と、小さな魚の山。

内臓の一部はすでに噛み手の胃の中に収まっている。 アキは少し離れたところで、鼻を押さえながら座っていた。

「どうだった?」

巣母が近づくと、アキは少し考えてから答えた。

「いつも通り、だけど・・」

「けど?」

「海の匂いが、少し変わってきてる」

彼はそう言って、言葉を探すように眉をひそめた。

「魚じゃない。潮でもない。吠え場とも違う。もっと、冷たい・・鉄みたいだけど、腐ってない匂い」

巣母は、彼の額に指先を軽く当てた。 彼の中に渦巻く匂いの記憶と、巣全体のささやきが少しだけ重なり合う。

海の向こうから、かすかな「線」が伸びてきているのが見える気がした。

(まだ遠い) (でも、向かっている)

そんなニュアンスが混じっていた。

「しばらく、海辺には見張りを増やしましょう」

巣母がそう言うと、アキは驚いたように目を見開いた。

「何か、来るの?」

「何かは、まだわからない」

巣母は正直に答えた。

「ただ、ささやきが、そう感じている」

アキは口をつぐんだまま頷いた。 その顔には、不安と、ほんのわずかな期待が混じっていた。

夜、巣母は一人で階段の踊り場に立った。

窓ガラスはところどころ割れていて、外の夜風が入り込んでくる。

遠くで、吠え場の方角から短い吠え声が上がった。 今度のそれは、警告でも、獲物でもない。ただの「ここにいる」という印のような声だ。

腹の中の子が、ゆっくりと身じろぎした。

その動きと、吠え場のささやきと、海の向こうから伸びてくる冷たい線が、一瞬、ひとつに重なりかける。

(群れは増えろ) (噛み、産み、育てろ) (そして、開け)

最後の一つは、最近になって混ざるようになったノイズだった。 開け――どこに? 何を?

巣母は、窓の外の空を見上げた。

雲の切れ間に、星がいくつか見える。 その間を、ひとつだけ、わずかに速く動く光の点があった。

アキが昨夜見たものと、同じ軌道を辿る光。

彼女の中のささやきが、一瞬だけざわめいた。

(知っている匂い)(知らない形) (遠い種)(近い肉)

言葉にならないそのざわめきを、巣母は両手で抱え込むようにして胸の前に集めた。

「・・来るなら、選ばせてやる」

小さくそう呟く。 それが誰に対する宣言なのか、自分でも分からなかった。

吠え場の男たちか。 海の向こうから来る鉄の匂いの何かか。 あるいは、腹の中の、まだ名もない子どもたちか。

階段の下から、巣の子どもたちの寝息が聞こえた。

そのリズムと、ささやきの脈動と、遠くの吠え声と、空を行く光のコースが、ゆっくりと重なっていく。

この島全体が、一つの巣のように呼吸をしている――巣母には、そう感じられた。

その呼吸の上に、別の何かが、そっと足を載せようとしていることに、まだ誰も名前を付けてはいなかった。



♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠


読むための手助け用語・世界観ノート 5

■ 「ささやき」と自意識の境界 巣母が「巣母自身の意志なのか、巣全体の意志なのか、分けて考えるのをやめた」という部分。 これは、この世界での「成熟」を意味します。個人のエゴを捨てて、グループ全体の空気に身を委ねること。現代社会でも「会社のために」「家族のために」と自分の心を重ね合わせることがありますが、ここではそれが生物学的なレベルで起きています。

■ 「吠え場」のレンと「巣」の巣母 元は同じ場所で育った二人が、思想(ウイルスの変異タイプ)の違いで決別した過去。

巣母の群れ(共生型):穏やかに取り込み、育てて増やす。「農耕・定住」的な空気。

吠え場の群れ(攻撃型):奪い、噛みつき、拡大する。「狩猟・略奪」的な空気。 同じウイルスでも、どちらの生存戦略を選ぶかで全く違う社会(群れ)になってしまう悲劇です。

真菌カビのささやき 「高いところへ登らせる」という怖い描写。 これは実在する寄生真菌(冬虫夏草など)の性質をモチーフにしています。アリなどの脳を操り、胞子をばら撒きやすい高い場所へ移動させてから殺すのです。 この世界では、人間もまた、菌の「増えたい」という都合に合わせて操られる一つの器に過ぎないという、残酷な美しさが描かれています。

■ 「開け」というノイズ 巣母が最後に聞いた新しい指令。 今まで閉じて守っていた巣を「開け」というのは、外部(月から来るユウたち)を受け入れろというウイルスの進化の予兆かもしれません。 「来るなら選ばせてやる」という巣母のセリフは、単なる受け身ではなく、「どちらが優れた種か見定めてやる」という母なる強さを表しています。

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